9.下心
勢いのまま交換日記を提案し、帰宅した僕は、持ち帰ってきた鞄を机の上に置くと、深くため息をついた。
「……またやってしまった」
鞄から取り出したのは、彼女から借りていたあの児童書だ。
今日こそは返そうと思って、丁寧に包んで準備していたのに。
初めて自分の言葉をノートに綴った高揚感と、ノートを受け取った彼女の喜ぶ顔を見た嬉しさで完全に胸がいっぱいになってしまい、肝心の本を返すのをすっかり忘れていたのだ。
よし、明日こそは絶対に返そう。
苦笑交じりに心の中でそう決意して、迎えた翌朝。
僕はいつもより随分と早く学園へと向かった。
表向きの理由は、今日こそ本を返すため。
だけど本当は、どうしても彼女に会いたかった。
あわよくば、昨日渡したノートの返事がもう書けていないだろうか。
少しでも早く、彼女が紡いだ文字が見てみたい。
そんな、自分でも呆れるくらい不純な理由だ。
人が集まる場所では目立ってしまうから、まだ生徒の少ない早朝の静かな中庭で彼女を待つことにした。
彼女の教室へ一番乗りして、机の中に『中庭で待っています』と書いた短い手紙をこっそり忍ばせておいたのだ。
そわそわとしながら待っていると、アーチの向こうからノルベルト嬢が小走りで姿を現した。
急に呼び出したから迷惑だったかと心配したけど、彼女の顔に嫌そうな表情は見えなくて、まずはほっと一安心する。
「おはよう、ノルベルト嬢。朝から突然呼び出してごめんね」
僕が微笑みかけると、彼女は妙に視線を泳がせながらも、いつも通りぺこりと深く頭を下げて朝の挨拶を返してくれた。
「実は昨日、せっかく持って行ったのにこの本を君に返すのを忘れてしまって。それで、どうしても直接君に返したくて」
僕が本を差し出すと、彼女は顔を輝かせて受け取った。
そして、持っていた自分の鞄の中から別の数冊の本を取り出し、そっと僕に差し出した。
『別の、おすすめの児童書です。もしお時間があれば……』
ノルベルト嬢がさっと書いたメモを読み、僕は思わず頬が緩む。
「っ、ありがとう、絶対に読むね!」
新しい本を受け取ってそう言ったら、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
ほんのりと頬を染めるその顔を見たらなんだか心がざわついて……僕はつい、ポロっと白状してしまった。
「でも、本を返すのはただの口実でね。本当は、その……もし少しでも返事が書けていたら、ノートをもらえないかなって、そんな下心で来ました」
僕が包み隠さず本音を伝えると、彼女はかぁっと耳まで赤くして、ふるふると震える。
しまった。
彼女にゆっくり自分のペースで書いてもらうために交換日記を提案したのに、これじゃあ急かしているのと同じじゃないか。
自分の配慮のなさに気付いて自己嫌悪に陥りかけた、その時だった。
彼女はそっと鞄の中からあのノートを取り出し、両手で大切そうに僕に差し出したのだ。
「えっ……? もう、書いてくれたの?」
予想外の早さに、僕は思わず目を丸くする。
彼女は小さく頷き、消え入りそうな様子で新しいメモを突き出した。
『はしゃいでしまって、文字もたくさん書きすぎて、しまったんですけど』
申し訳なさそうに見上げてくる彼女の潤んだ瞳と、差し出されたノート。
受け取ってみると、昨日僕が渡した時よりも、書き込まれたページの分だけほんの少し浮いて、厚みを増しているような気がした。
一晩で、僕に向けてたくさん言葉を紡いでくれたのか。
そう思うと、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられた。
「本当に!? ありがとう、すごく嬉しいよ。えっと、じゃあ早速……」
待ちきれなくて、僕がその場でノートを開こうとした瞬間だった。
ガシッ!!
「えっ?」
突然、彼女が真っ赤な顔で僕の腕を両手でぎゅっと掴んできたのだ。
そして、ものすごい勢いで首を横に振り、慌てた様子でメモを突き出してきた。
『目の前では絶対に読まないで、ください! 恥ずかしくて、死んでしまいます……っ』
声は出ていないはずなのに、まるで悲鳴のような必死さが全身から伝わってくる。
いつもは控えめな彼女が、ここまで必死に僕の腕を掴んで止めるなんて。
その姿があまりにも可愛くて、僕は思わず吹き出してしまった。
「っ……ごめんごめん、分かったよ。帰ってから一人でゆっくり読むから、安心して」
僕がそう約束してノートを大事に上着の内側にしまうと、彼女はふにゃりとした顔をしてから、へナヘナと安堵の息を吐いた。
その無防備な顔を見ていたらなんとも言えない気分になり、僕から手を離した彼女の細い腕に思わず触れそうになって……慌ててピクリと動きかけた手を止める。
僕は名残惜しい気持ちになりながらも、「それじゃあ、また」と告げて彼女と別れた。
そして放課後。
帰ってから読むという約束をした僕だけど、結局家まで待てなくて、帰りの馬車の中ですぐにノートを開いてしまった。
そこには、二ページにもわたって、彼女の綺麗で丁寧な文字が本当にたくさん並んでいた。
こんなに想いを書いてくれたことだけでも嬉しいのに。
僕の乱雑な字を『一生懸命書いてくれて嬉しかった』と受け止めてくれていたり、本を読んでくれたことへの喜びが綴られていたり。
今すぐにでも馬車の中で返事を書きたいのはやまやまだったけど、あんな風に急いで乱雑な字を書いてしまうのは最初の一度きりでいい。
次はちゃんと時間をかけて、彼女が書いてくれた分と同じくらい誠実に言葉を返したい。
そう思い直して、僕ははやる気持ちをぐっと抑え込 み、帰宅したらすぐに自室の机に向かうと、紙を何枚も無駄にしながら何度も下書きを繰り返した。
文字の形にも気を遣いながら、彼女の続きのページにゆっくりと清書をしていく。
もちろん、彼女が貸してくれた新しい本も一冊だけ読み終えたので、その感想もしっかりと添えた。
ただ、『また何度も読み返したいから、もう少しだけ貸していてほしい』というわがままな一文も忘れずに付け足して。
そうして僕はその日のうちに返事を書き上げ、翌朝には彼女の元へノートを届けた。




