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中身が空っぽな公爵子息の初恋  作者: 春樹凜


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10.名前と不格好な絵



 それから僕たちは、秘密の交換日記を毎日のように続けた。


 人目を避けるため、図書室の奥にある本棚を、僕たちの『秘密のポスト』にした。


 放課後、生徒会の仕事やそのほかの用事の合間を縫って行くため、タイミングが合って直接彼女に会える時もあれば、ノートだけがすれ違う時もあった。

 それでも僕も、それから彼女も、一日も欠かさずあの本棚へ通い続けた。


 彼女から返ってくるノートには、何気ない日常の出来事や、今日見た花の色、新しく読んだ本の話がたくさん書かれていた。


 文字越しではあるけれど、ノートの中の彼女は普段以上に素直で、豊かな言葉を惜しみなく見せてくれる。

 その一文字一文字が、僕には宝物のように思えた。


 面と向かって話す時間はあまりなくても、僕たちはノートの上でたくさんの言葉を交わした。


 ある日、いつものように返ってきたノートを開いた時のことだ。

 返事の最後に何気なく視線を落とした瞬間、僕は思わず固まった。


 そこには消しきれなかった薄い線を残して、『セレーナ』とだけ書きかけた跡があったのだ。

 多分、ぼんやりしたまま名前を書いてしまって慌てて消したのだろう。


 その跡が彼女の目に留まっていたのかは分からない。

 それでも翌日、僕は気まずさに耐えきれず、ノートの端に小さく『ごめん。うっかり消し忘れた』と書き添えた。


 けれどそれをきっかけに、いつの間にかお互いの呼び方も『ノルベルト嬢』や『クライム様』といった家名や敬称から、『セレーナ嬢』『アラン様』と、自然と下の名前で呼び合うようになっていた。


 ――ただしそれは、このノートの上だけで、の話だけれど。


 ただ、やり取りが深まれば深まるほど、嬉しい反面、困ったことが起こる。


『君に向けて文字を書く時だけは、世間が僕に求めるような、完璧な正解の言葉なんて一つも書きたくないと思ってしまう。だから少し、困っているんだ。……君がこのノートに綴ってくれるたくさんの温かい想いに対して、今の僕には、そのすべてを僕自身の本当の言葉で返しきれないのが、すごくもどかしくて』


 ある日、僕はそんな弱音をノートにこぼしてしまう。


 本音をうまく言葉にできなかった僕。

 その弊害が、まさかこんなところで出てきてしまうなんて。


 すると翌日、返ってきた彼女のノートには、いつもより少しだけ震えたような文字でこう書かれていた。


『取り繕わなくていいんです。言葉が浮かばないなら、絵でも何でもいいですし、一言だけでも、いっそ白紙でも構いません。……私にとっては、アラン様からこのノートが返ってくるだけで、それだけで十分ありがたいんですから』


 その言葉を読んだ瞬間、張り詰めていた心がふっと軽くなった。

 こんな僕を、彼女がそのまま丸ごと肯定してくれたような気がしたから。


 だから次の日、言葉を書く代わりに、試しに彼女に借りた児童書の中で一番印象的だった場面の挿絵を真似て描いてみることにした。


 夜中に別の紙に下書きをした時は、意外といけるんじゃないかと思ってノートに清書したんだけれど……。

 翌朝改めて見てみると、絶望的に不器用な僕の描いたそれは、見事なまでに不格好で見るに堪えない仕上がりだった。


「うわぁ……やっぱり破ろうかな」


 自室で一人頭を抱えたけど、せっかく描いたものを破ってしまうのも違う気がして。


 それに、これが今の僕の精一杯なのだからと思って、ひどく恥ずかしい気持ちを抱きながらも、思い切ってその下手な絵のまま秘密の本棚へと届けた。


 そして翌日。

 ドキドキしながら返ってきたノートを開くと、そこには僕の描いた不格好な絵の隣に、可愛らしい花の絵が添えられていた。


『アラン様が一生懸命描いてくださったのが伝わってきて、とても微笑ましい絵だと思いました。私も、アラン様の真似をして絵を描いてみました。隣にお花を咲かせておきますね』


 その優しい文字と、二人の筆跡が並んだページを見て、僕はたまらなく胸が温かくなり……柄にもなく、ノートをぎゅっと胸に抱きしめてしまった。


 それから僕は、少しの文字と一緒に、不格好な絵をノートの隅に描いて送るようになった。

 するとセレーナ嬢もまた、僕の描いた拙い絵を彩るように、隣に可愛らしい動物や風景を描き足して返してくれる。


 気づけばしばらくの間、僕たちのノートのページは文字よりもイラストばかりで埋め尽くされるようになっていた。

 それはまるで、二人で一つの優しい絵本を作っているみたいだった。


 他の人から見たら、ただの不格好な落書きのやり取りかもしれない。


 けれど僕にとっては、これまで生きてきて紡いできたどんな完璧な言葉よりも、そこに描かれた歪な絵のほうが、ずっとお互いの体温と心を感じることができた。


 こうして僕たちは、秘密の交換日記という文字越しのやり取りを通して、少しずつ、けれど確実に近づいていった。



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