6.もどかしさ
生徒会の仕事を片付け、僕は急いで鞄を抱えて図書室へと戻った。
だけどさっき彼女がいた古い文献のコーナーに、ノルベルト嬢の姿はなかった。
……かなり待たせてしまったからだろうか。
急に胸の奥が冷え、落胆が広がるのを感じながら、僕は念のため受付にいた司書の先生に尋ねてみた。
「ああ、ノルベルトさんなら、今そこの隣の部屋で作業を手伝ってくれているのよ」
先生が指差したのは、受付のすぐ横にある、扉のついた司書専用の作業室だった。
「新しく寄贈された本の目録作りをしていてね。量が多くて私が一人で困っていたら、彼女が見かねて『私でよければ手伝います』って。本当にいいお嬢さんよね」
「僕も手伝います」
そう申し出ると、先生は、
「あら、助かるわ! 私はこの受付を離れられないから、隣の部屋の彼女によろしく伝えてね」
と喜んでくれた。
もちろん親切心もある。
けれど善意からの申し出をした彼女とは違い、本音では、彼女と一緒にいる理由が欲しかっただけだ。
つくづく打算まみれな自分が嫌になるけれど……今は、この姑息な言い訳にすがるしかなかった。
軽くノックをして作業室の扉を開けると、そこには机の上に積まれた真新しい本と格闘しているノルベルト嬢の姿があった。
こちらに気づいた彼女は目を丸くし、慌ててメモ帳を取り出した。
『待っていると言ってたのに、ごめんなさい! 先生がとても困っていらしたので、つい……』
「気にしてないよ。僕も手伝う」
彼女の向かいの席に腰を下ろし、僕も本の仕分けを手伝い始めた。
ここは扉が閉まった別室なので、図書室の中とはいえ、小声であれば会話をしても誰の邪魔にもならない。
とはいえ、手を動かしながらだと彼女はメモを書くことができない。
僕たちはしばらくの間、心地よい静寂の中で黙々と作業を進めた。
やがて、山積みだった本がある程度片付き、残りが数冊になったところでふと一息つく。
そのタイミングで、彼女がさらさらとメモを書いて見せてきた。
『先ほどは、参考書を教えていただきありがとうございました。すごく助かりました!』
その文字と彼女の笑顔を見て、僕は自然と笑みをこぼす。
「どういたしまして。……そうだ、君が貸してくれたあの本のことなんだけど」
あの本は今、僕の鞄の中に入っている。
本来ならここで取り出して返すつもりだったのに、彼女の顔を見た途端、僕は本を返すことすら忘れてただ純粋に感想を伝えたい衝動に駆られていた。
僕は残りの本を撫でながら、この数日間、ずっと胸の内で温めていた言葉を少しずつ紡ぎ出した。
「ただ可愛いだけの童話じゃなかった。言葉を持たない精霊が、不器用でも一生懸命に誰かと繋がろうとする姿が、とても心に残って……。僕には、あんな風に必死になって自分の思いを誰かに伝えたいと思った経験がなかったから、あの精霊が少し羨ましくもあったよ。教えてくれて、本当にありがとう」
これが、必死にひねり出した自分なりの本当の言葉だった。
彼女は目を大きく見開き、興奮した様子で猛スピードでメモ帳に文字を書きなぐり始めた。
『分かります! 精霊が初めて言葉を知って、自分の名前を伝えられた時のあのページ、本当に温かくて泣けますよね!』
「うん。挿絵の出てきた精霊の表情もすごく良かった」
『ですよね! それに、道中で出会うウサギさんたちも――』
彼女のペンは止まることなく、ものすごい熱量でページがどんどん消費されていく。
彼女の小さな体から溢れ出す言葉の熱量に、強く惹きつけられていく。
けれど、どれだけ彼女が文字を書くのが早くても、やはり声に出して話すよりはどうしても時間がかかってしまう。
次第に、彼女のペンを走らせるスピードが落ちていった。
やがてピタリと手が止まり、彼女は少しだけ俯いて、申し訳なさそうに文字を綴った。
『……ごめんなさい。私、本当はもっとたくさん、たくさん伝えたいことがあって。でも、私が書くのが遅いせいで、クライム様を待たせてばかりで……』
「そんなことないよ。僕は全然気にしてない」
『でも……私には声がないから、こういう場で、伝えたいことを全部一気に伝えきれなくて、それが時々、すごくもどかしいんです』
メモ帳に書かれたその文字から、彼女の静かな悔しさが伝わってくるようだった。
――ノルベルト嬢が声を失ったのは病気のせいではないと、噂で聞いたことがある。
なら、一体どうして。
「君は、どうして声が……」
無意識のうちに、踏み込んだ問いが口をついて出そうになった。
だけどその瞬間、これから発せられる質問を察したのか、彼女の顔から表情が消え、肩が微かに強張るのが見えた。
僕ははっとして、すぐに口をつぐんだ。
これ以上聞いてはいけないと、直感がそう告げていた。
沈黙が落ちた部屋の中で、僕は目の前に座る彼女を見つめる。
僕は声を出せるのに、本当の言葉を持っていない。
彼女は言葉をたくさん抱えているのに、声にできない。
ただの慰めの言葉はいくらでも浮かぶのに、彼女に本当に寄り添う一つが見つからない。
それが悔しかった。
その時。
言葉を紡げずに俯く彼女を見ていた僕の頭に、ふと、彼女に借りた本の一場面がよぎった。
――それは、言葉を持たない小さな星の精霊が、初めて文字を覚え、森の動物たちとゆっくり時間をかけて『交換日記』をするシーンだ。
「……ねえ、ノルベルト嬢」
どう言えばいいのか分からないまま、それでも何か彼女の助けになる言葉を探して、僕は努めて明るい声で彼女を呼んだ。
「その場で一気に伝えるのが難しいなら、その、僕と交換日記をしない?」




