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中身が空っぽな公爵子息の初恋  作者: 春樹凜


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5.返せない本



 孤児院での出来事から二日後。

 学園の長期休暇が明け、王立学園の賑やかな日常が戻ってきた。


「おはよう、アラン。 休みはどうだったの?」

「相変わらずどこかの夜会で令嬢たちを虜にしてたんじゃねぇのか?」

「何言ってるんだよ。ほとんど君たちと一緒に過ごしていたじゃないか」

「だったな。恋人たちがひしめく中、カフェで男同士で肩身が狭いったらありゃしなかったぜ」

「誘った君お前がそれを言うのか」


 登校してすぐ、僕はいつものように友人たちに囲まれていた。


 彼らとの他愛のない会話は普通に楽しいし、一緒にいる時間は決して苦痛じゃない。

 だけど、ふとした瞬間に……こうして求められるままに完璧な笑顔を返していると、どうしようもなく心が寂しく、ひどく冷め切っていくのを感じることがある。


 僕が彼らに見せているのは、いつだって綺麗に整えられた作り物の顔だけだから。


「セレーナ、おはよう!」


 不意に、廊下の少し離れた場所から明るい声が聞こえた。

 そちらへ視線を向けると、全く違うグループの令嬢たちが集まっている中心に、ノルベルト嬢の姿があった。


 彼女は友人たちに向けて、相変わらずくるくるとよく動く手や表情で、全身を使って楽しそうに朝の挨拶を交わしている。

 遠くから見ているだけでも、彼女の周りだけパッと花が咲いたように明るく見えた。


 そんな折、廊下の向こうからレイトニア侯爵家の令嬢のレベッカが、取り巻きを連れて軽やかに歩み寄ってきた。


「クライム様、おはようございます。休暇明けにお会いできて嬉しいですわ」


 そう微笑まれ、僕もいつものように無難な笑みで挨拶を返す。


 けれどその間も、僕の意識は少し離れた場所にいるノルベルト嬢の姿へと向いていた。

 僕は無意識のうちに、手に持っていた鞄の持ち手をぎゅっと強く握りしめる。


 この中には、彼女から借りたあの児童書が入っている。

 今日、返す約束をしているのだ。


 今、声をかけて返そうか……。

 そう思ったけれど、僕の足は床に縫い付けられたように動かなかった。


 こんな人の多い場所で彼女に話しかければ、余計な噂を招くかもしれない……なんて、自惚れた言い訳が真っ先に頭に浮かぶ。


 本当は、もっと落ち着いた場所で、あの日言えなかった本の感想を伝えたかった。

 それに、これを返してしまえば彼女とのたった一つの接点まで失う気がしていた。


 結局、僕は彼女に声をかけることができないまま、朝のホームルームを告げる鐘の音を聞いた。


 昼休みに返しに行こうとも考えた。

 けれど生徒会の仕事に追われて時間はなく、そのまま放課後になってしまった。


「悪い、アラン。この資料少し足りないみたいだ」

「分かった。図書室に行って探してくるよ」


 放課後になっても生徒会の仕事は終わらず、僕は頼まれた過去の資料を探しに図書室へ向かった。


 人の少ない図書室は静まり返っていて、目的の資料を探して奥の古い文献コーナーへ足を踏み入れる。


 そこで、思いがけない人物の姿を見つけた。

 窓から差し込む西日を背に受けて、高い本棚を見上げている明るい蜂蜜色の髪――ノルベルト嬢だ。


 彼女は高い場所にある本を取ろうとしているのか、背伸びをして一生懸命に手を伸ばしている。

 

 朝の喧騒とは違う、静かな空間での思いがけない再会に、自然と頬が緩んだ。


「どれが欲しいの?」


 僕がそっと彼女の背中に向かって声をかけると、大きな瞳がこちらを見る。


 途端にノルベルト嬢はニコッと笑った。

 かと思うと、すぐに「これなんだけど届かなくて」と言わんばかりに少しだけ困ったように眉を下げる。


 その視線の先にある背表紙を見て、僕はひょいと手を伸ばした。


「はい、これだよね」


 僕が本を取って渡すと、彼女は胸の前で本を抱きしめ、深く頭を下げてお礼を伝えてくれた。


 手渡したその本は、【王国初期における法制と税収の歴史】という、あの児童書とは似ても似つかない、分厚くて文字ばかりの難解な専門書だった。


「随分と難しそうな本を読むんだね。もしかして、授業の課題かい?」


 ここは静寂が支配する図書室だ。

 静けさに合わせて、僕も声を潜めた。


 彼女もそれに合わせるように小さく頷き、手早くメモ帳に文字を綴った。


『はい。来週の【高等領地経営学】の授業で、レポートを提出しないといけないんです』

「ああ、あの授業か。それなら僕も去年受けたよ」


 そういうことなら、と僕は視線を巡らせ、近くの本棚からもう一冊、別の参考書籍を引き抜いた。


「だったら、こっちの【過去百年の農地改革概論】も一緒に読んでおくといい。あの担当教官は、古い法律の知識だけじゃなくて、実際の数値データに基づいた考察を好むからね。きっとレポートを書くのに役立つはずだよ」


 そう言って本を差し出すと、彼女はぱぁっと顔を輝かせ、


『助かります!』


 とメモに書いて、嬉しそうに何度も頷いた。


 そんな彼女の姿を見ていると、僕の胸の奥でずっと言い訳をして先延ばしにしていた本当の目的が顔を出した。


「……そうだ、ノルベルト嬢。実は今日返そうと思って、君から借りていたあの本を持ってきているんだ」


 そう切り出すと、彼女もすかさず文字をメモに落とす。


『わざわざありがとうございます!』

「ただ、ごめん。今は生徒会の仕事の途中で抜け出してきただけで、鞄は生徒会室に置いてきてしまっているんだ。だから、手元にはなくて……」


 申し訳なさそうに言うと、彼女は慌てて首を横に振り、ペンを走らせた。


『全然いつでも大丈夫です!  明日でも構いませんし、私は今日、放課後の鐘が鳴るまでずっとこの図書室で勉強しているので』


 その文字を見て、僕はほっと息を吐いた。


「ありがとう。じゃあ、生徒会の仕事が終わったら、後で必ずここへ持ってくるね」


 彼女はにっこりと笑って頷いた。


 僕は「それじゃあ、また後で」と小さく告げて、彼女を残し、本来の目的だった資料を抱えて生徒会室へと足早に戻っていった。



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