4.夕暮れの約束
その数日後、僕は公爵家の名代として、王都の郊外にある孤児院へ定期的な寄付金を届けるために足を運んでいた。
院長との挨拶を済ませて部屋を出ると、待ってましたと言わんばかりに子供たちがわっと群がってくる。
「アランお兄ちゃんだ!」
「ねえねえ、今日も一緒に遊んでくれるの!?」
「もちろんいいよ」
僕は彼らの頭を撫でながら笑いかける。
孤児院を訪れた際、子供たちと一緒に時間を過ごすのは僕の日課だった。
最初はこれも公爵家の跡取りとしての正しい振る舞いのつもりでやっていたことだけど、純粋に慕ってくれる彼らと遊んでいる時間は、なぜかひどく心地よかった。
生き生きとした瞳で笑い合う子供たちを見ていると、自分の好きな児童書について熱く語ってくれた、ノルベルト嬢の顔が頭をよぎる。
それから一通り外で遊んだ後、今度は本を読んでほしいと子供たちにせがまれた。
これもいつもと同じ流れだ。
僕はもちろんと頷いて、広間の長椅子に腰を下ろす。
すると一人の小さな女の子が、
「これがいい!」
と言いながら、一冊の本を僕のところへ持ってきた。
その表紙を見た瞬間、僕の口からはあっ、と小さく声が漏れる。
それは、言葉を持たない小さな星の精霊が主人公の――あの日、僕がノルベルト嬢から借りて、エミリーに読んであげたのと同じ児童書だったのだ。
不思議な縁に驚きながらも、子供たちを周りに座らせて、妹に読むのと同じように丁寧に朗読を始めた。
物語が終わると、子供たちは満足そうに目を輝かせて拍手をしてくれた。
「実は僕も、つい最近おすすめされてこの本を初めて読んだんだけど……本当に、心が和らぐ素敵な物語だよね」
子供たちに向けてそう微笑みかけると、一番前に座っていた女の子が嬉しそうに頷いた。
「うん! これね、セレーナお姉ちゃんがくれた本なんだよ!」
「……セレーナお姉ちゃん?」
「そうだよ! セレーナお姉ちゃんはね、毎月いっぱい本をくれるの!」
予想外の名前が出てきて、僕はわずかに目を瞬かせる。
「それってもしかして、ノルベルト伯爵家の――」
「はい。セレーナ・ノルベルトお嬢様のことです」
いつの間にか後ろに立っていた院長が、子供たちを優しい目で見つめながら教えてくれた。
「ノルベルト伯爵家は昔からこの孤児院に、寄付金だけでなく、セレーナ様ご自身が選んだ本を贈ってくださるのです。字が読めない小さな子でも楽しめる絵本や、文字を覚え始めた子のための本まで、いつも年齢に合わせて選んでくださって……本当に、細やかなお心遣いに感謝してもしきれません」
伯爵家は慈善事業に熱心なことでも有名だ。
けれど彼女のあの嘘偽りのない真っ直ぐな笑顔を思い返せば、その行いが彼女自身の深い愛情からきていることは明らかだった。
院長の言葉に、僕は唖然として手元の本を見つめる。
僕はこれまで何度もこの孤児院に足を運んでいたし、子供たちにたくさん本も読んでいた。
だけどそれが誰からの寄付によるものなのかまで、僕は今まで気にも留めていなかったのだ。
それに彼女は、毎月この孤児院に直接顔も出すらしい。
ここで、男の子が元気よく手を挙げる。
「セレーナお姉ちゃんね、喋れないけど、すっごく面白いんだよ!」
そう言うと、子供たちが一斉に声を上げた。
「泣いてる子がいたら、変な顔して笑わせてくれるの!」
「いっぱい遊んでくれるし、ぎゅってしてくれるんだよ!」
「いつも笑ってくれるから、一緒にいると元気になるの!」
子供たちが口々に語るノルベルト嬢の姿は、僕が知っている彼女そのものだった。
膝の上の児童書をそっと撫でながら、 僕はただ、彼女の真っ直ぐな気質を噛み締める。
その時だった。
「セレーナお姉ちゃんだ!!」
誰かの弾む声が響いたかと思うと、 子供たちが一斉に入口の方へ駆け出していった。
視線を向けると、 淡いクリーム色のワンピースを揺らしながらノルベルト嬢が本当にそこに立っていた。
彼女は子供たちに囲まれながら、 全身で『こんにちは!』と伝えるようにたくさん手を振っていた。
やがて子供たちに手を引かれ、 セレーナは僕の前までやってきた。
僕と目が合うと、 彼女は驚いたように瞬きをして―― 次の瞬間、嬉しそうに頬を緩めた。
僕も自然と笑みを返していた。
「こんにちは、ノルベルト嬢。今日は子供たちと遊びに?」
彼女はこくりと頷き、 胸の前で手を合わせて『よろしくお願いします!』と伝えてくれた。
それからみんなで鬼ごっこをしたり、追いかけっこの延長でそのまま笑い転げたりしながら、賑やかに遊んだ。
鬼ごっこの途中で、転んで泣きそうになった男の子がいた。
ノルベルト嬢はすぐにその場にしゃがみ込んだが、何人もの子供たちに囲まれていて、僕の位置からは彼女の顔まではよく見えない。
ただ、次の瞬間には男の子がきょとんとしたあと、ふきだすように笑っていた。
つられるように周りの子供たちも笑い声を上げ、彼女自身も肩を震わせながら嬉しそうに笑っている。
きっと、子供たちの言っていたあの変顔をしてみせたのだろう。
その後もノルベルト嬢は、折り紙を折ったりおままごとをしたり、絵本の絵を指さして全身で物語の一場面を演じたりと、子供たちの輪の真ん中で休む間もなく動き回っていた。
そんな時、足元に気づかない彼女が木の根っこを踏みそうなことに気づいて、
「ノルベルト嬢、後ろ! そこの木の根につまずくよ。危ないから気をつけて」
僕が思わず声をかけると、ノルベルト嬢はハッとして振り返り足元を確認してから、照れたように笑って小さく会釈した。
彼女がいたからだろうか。
普段よりもずいぶんと長い間孤児院に滞在してしまい、気づけばもう夕方になっていた。
帰りの時間が近づくと、 子供たちは名残惜しそうにノルベルト嬢へ抱きついた。
「また来てね、セレーナお姉ちゃん!」
「次は一緒にお絵描きしようね!」
彼女は一人ひとりの頭を優しく撫で、 笑顔で手を振っていた。
子供たちに囲まれる彼女を見ていると、好かれているのだと改めて思う。
あんなにも真っ直ぐで面倒見のいい人なのだから、それも当然だった。
だけど同時に、誰とでも垣根なく笑い合える彼女の姿が、僕にはひどく遠く見えた。
その光景を眺めていると、突然、横から勢いよくタックルされた。
「わっ!?」
「何ぼんやり突っ立ってんだよアラン兄ちゃん」
「アランお兄ちゃんもまた来てね!」
「次は鬼ごっこで負けないからな!」
「うん……楽しみにしてるね」
遠巻きに眺めている僕の姿が、子供たちにはどこか不憫で寂しそうに見えたのだろうか。
僕はよろめきながらも笑って受け止めた。
みんなと別れたら、孤児院の入り口で、二人並んで迎えの馬車が来るのを待つ。
夕陽が差し込む中、僕は彼女に向かって言った。
「この間はわざわざ本を貸してくれて、ありがとう」
すると彼女はメモ帳を取り出し、さらさらと文字を書いて僕に見せる。
『本当に読んでくださったんですね! ありがとうございます。どうでしたか?』
「……とても、良かったよ」
言葉を選びながら、僕はかんとか自分の言葉で伝えようとする。
「やわらかくて、胸の奥にすっと沁みてくるような物語で……読んでいると、ええと、少し肩の力が抜けるような気がした。君が好きだと言った理由が、その、よく分かったよ」
これでも伝えたい感想の半分も言葉にできていない。
だけどノルベルト嬢は、そんな拙い言葉にも嬉しそうに目を細めた。
「今日は持ってきていないけど……明後日、学園が始まるだろう? その時に返すよ」
『分かりました!』
彼女はこくりと頷く。
それから少しの沈黙が落ちた。
僕はそっと、明るい眼差しのノルベルト嬢の横顔を見ながら思う。
――彼女の目には、この世界がどんな風に映っているのだろう。
「……ノルベルト嬢」
彼女がこちらを向く。
名前を呼んだものの、その先が出てこない。
焦った僕の頭に、ふと遊んでいた時に見た光景がよぎる。
そして――思わずそれを口に出してしまっていた。
「ところで、君……変顔もするんだね。ちょっと見てみたいな、なんて」
ノルベルト嬢の肩がびくっと跳ねた。
次の瞬間、 彼女は両手で顔を覆い、 耳まで真っ赤にして俯いた後、何かをメモ帳に走り書きして僕に見せた。
『誰に聞いたんですか!?』
「あ、えっと、子供たちに……」
僕が正直にそう答えると、彼女はさらに文字を書き殴って突き出してきた。
『恥ずかしいので絶対に見せませんから!』
その後すぐにそっぽを向いてしまった。
普段は相手の感情を自然と読み取れるのに、今の彼女の感情が僕には怒りなのか、羞恥なのか分からなくて、慌てて手を振って謝る。
「ああ、ごめん! ただ……ちょっと意外で。それに、泣く子が笑ってしまうくらいの変顔っていうのが、今の可愛い君からまったく想像できなくて、つい気になっちゃって」
そう口にした途端だった。
赤みが収まりかけていた彼女の顔が、再びぼんっ! と音がしそうなほど真っ赤に染まったのだ。
「えっ、ど、どうしたの!?」
僕が慌てて尋ねると、彼女は両手で頬を押さえながらうにうにと身悶えし、ゆっくりとメモ帳を差し出した。
『可愛いとか、言われ慣れていないので……』
その文字を見て、僕はようやく気がついた。
さっきの僕の言葉。
お世辞でも計算でもなく、ただ素直に、心から出た『可愛い』という単語を、息をするように自然に口にしていたことに。
自覚した途端、なぜか僕の方まで急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
僕は完全に平静を失って言い募る。
「だけどっ、君が可愛いのは本当で……」
彼女の顔はさらに真っ赤になり、わずかに頬を膨らませて文字を書いてきた。
『だから慣れてないって言ってるじゃないですか! からかわないでください!』
ちょっとむくれたように僕を睨む彼女に、僕はしどろもどろになりながら弁解する。
「か、からかってなんかないよ。本心、なんだけど……」
けれど、ノルベルト嬢にはすいっと目を逸らされてしまった。
なんだかひどくむず痒い空気が僕たちの間に落ちる。
その時、ある意味タイミングよく、ノルベルト伯爵家の迎えの馬車がやってきた。
彼女はほっとしたような表情を浮かべ、僕に向かってぺこっと頭を下げてから馬車の方へ歩き出す。
「あ、また明後日……」
声をかけると、馬車に乗り込む直前、彼女はぴたりと足を止めた。
そして、何かをばばっとすごいスピードでメモ帳に書き込み、くるりと振り返って僕に見せた。
『……もしも本当にクライム様が落ち込んでいたり、泣いていたりしたら。その時は、特別に変顔します』
その文字を見せた後、恥ずかしそうに目を微かに伏せ、けれどとても優しく小さく笑って、馬車の中へと乗り込んでいった。
そんな彼女を、僕は何も言えずにただ見送ることしかできなかった。




