3.優しい物語
「刺繍の他にも、何か好きなことはあるのかな?」
僕が尋ねると、彼女はすぐにメモ帳へ文字を書き込んだ。
『読書が、好きです』
「そうなんだね。どんな本を読むんだい? 歴史書とか、恋愛小説とか?」
彼女は少しだけもじもじとペンを迷わせた後、恥ずかしそうに文字を綴った。
『子供っぽいと、笑われるかもしれないんですけど……児童書をよく読みます』
「児童書?」
『はい!』
彼女はそこから、目をぱっと輝かせながら、ものすごいスピードでメモ帳に文字を走らせ始めた。
『確かに子供向けなんですけど、そこには胸が弾む夢や、やわらかな世界がたくさん詰まっていて。美しい挿絵を見ているだけでも、とても穏やかな気持ちになれるんです。新しいことを知ったり、見たことのない景色を想像したりするのが、すごく楽しくて……!』
文字を書く手が追いつかないのか、彼女は時折ペンを止め、身振り手振りを大きく交えて、一生懸命に自分の大好きな物語の魅力を伝えてくれる。
よほど本が好きなのか、自分の大好きなものについて語るその瞳は、彼女が言う夢そのもののように明るく輝いている。
あんなに小さなメモ帳なのに、僕にはそこから溢れんばかりの熱を持った声が聞こえてくるような気さえした。
だからこそ、自分の好きなものをこんなにも熱を込めて語れる彼女の姿が、ひどく眩しかった。
「とても素敵だね」
僕が心からそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
そして、今度は首を少し傾げて、ペンを走らせた。
『クライム様は、どんな本がお好きなんですか?』
その無邪気な問いかけに、僕は一瞬言葉に詰まってしまった。
「僕、は……」
強いて言うのなら歴史書、もしくは、政治思想の本だろうか。
いや、それらは次期公爵としての知識を蓄えるためでしかない。
そもそも僕は、夜会で誰とでも話を合わせられるように、あるいは優秀な成績を保って完璧な貴公子の仮面を被り続けるために、夜中まで必死に知識を詰め込むための道具としてしか本を開いたことがない。
ただ純粋に、これが好きだとか、読んでいて楽しいという感情で本と向き合ったことなんて、少なくとも物心がついてからは今まで一度もなかった。
『僕自身が好きな本』なんて、この世界に一冊も存在しないのだ。
「実を言うと、僕には『これが好きだ』と胸を張って言える本がないんだ」
彼女は僕のその言葉を哀れんだり同情するでもなく、ただ少しだけ不思議そうに目を瞬かせた。
その純粋な瞳を見ていると、僕の口から自然と本音がこぼれ落ちていた。
「だから……もしよかったら、君のおすすめの児童書を僕にも教えてくれないかな?」
その時、ノルベルト嬢は意気込むようにガッツポーズをすると、ささっと文字を書いてメモ帳を見せる。
『お任せください。これまで私が読んだ中で、最高に素敵な本をお教えしますね! ただ、どれにするか少しだけ選ぶ時間をください』
「うん、ありがとう。楽しみにしてるね」
ここで僕は、部屋に置かれた時計に目を向ける。
気がつけばかなり長居してしまっていた。
僕は名残惜しさを感じながらも、立ち上がって彼女に別れを告げ、伯爵邸を後にした。
そして翌日の昼下がり。
僕の元に、ノルベルト伯爵邸の侍女を通じて、一つの包みが届けられた。
包みを開けると、中には美しい装丁が施された一冊の児童書が入っていた。
同封された短い手紙には、昨日何度も見た彼女らしい筆跡で、
『私のおすすめの本です。返すのはいつでも構いませんので、どうかごゆっくりお読みください』
と書かれている。
彼女が直接ではなく侍女を通したのは、今の僕たちの関係を思えばもっともなことだった。
そう思うと、落とし物を届けるとはいえ事前の約束もなく伯爵邸を訪ねた自分の軽率さが、今さらながら気になった。
頭では分かっている。
分かっているのに、ほんの少しだけ……本当なら彼女から直接手渡してほしかったな、なんて考えてしまっている自分がいた。
けれど慌てて首を振り、自分の中に芽生え始めた妙な感情をごまかすように手元の本を見つめる。
僕のために頭を悩ませて本を選び、そして侍女に言付けを頼んでくれた彼女の姿を想像すると、何とも言えないくすぐったい感覚に包まれる。
早速僕はその日の夜、届いたばかりの児童書を手に取り、自室のソファーに深く沈み込んだ。
そして誰の目も気にせず、ただ純粋に、彼女の好きな世界を知りたいという思いだけでページをめくる。
――それは、言葉を持たなかった小さな星の精霊が、様々な動物たちとの出会いを通して世界を旅しながら言葉を知り、最後には不器用ながらも大切な相手に想いを伝えるという、可愛らしくも優しい物語だった。
いつも読んでいる難解な歴史書や政治の本に比べれば、文章はとても平易だ。
けれど、ページをめくるごとに現れる温かいタッチの挿絵や、精霊の不器用で真っ直ぐな行動は、読んでいるだけでなぜか心が解れていくような不思議な魅力があった。
きっと彼女も夜の静寂の中で、この不器用な精霊と一緒に本の中で旅をしながら、目を輝かせてページをめくっていたのだろう。
その優しい物語は、乾いていた僕の心にゆっくりと温かい色を落としていった。
ノルベルト嬢から借りた本は、一晩で読み切ってしまった。
けれど僕は、次の日も、そのまた次の日も、夜寝る前にその本を開いた。
特にお気に入りのシーンのページは、温かい挿絵とそこに綴られた文字を指先でそっとなぞりながら、何度も何度も読み返した。
一週間も経つ頃には、僕はほとんどのページを一言一句覚えてしまっていたほどだ。
返さないといけないとは思っているけど、もう少しだけ、彼女が貸してくれたこの本と一緒に過ごしたかった。
そんなある日、僕の部屋に遊びに来た八歳の妹のエミリーに、その本が見つかってしまった。
「私も読みたい!」
とせがまれたけど、大切な借り物だから傷つけたくない。
だから僕は、代わりに僕が読んであげるのでいいならと条件を出した。
エミリーは、
「私、もう子供じゃないんだけどな」
と、少し不満げに口を尖らせながらも、結局は大人しく僕の膝の上にちょこんと座り、足をぶらぶらさせながら嬉しそうにページを覗き込んだ。
朗読を始めると、エミリーはすぐに物語に夢中になった。
星の精霊が言葉を探す場面では息を呑み、動物たちが助けてくれる場面では目を輝かせ、最後の告白のシーンでは胸に手を当てて小さくため息をついた。
「……この本、すごく好き。私も欲しい!」
そう言って、エミリーはその日のうちに同じ本を取り寄せていた。
……ああ、僕だけじゃない。
彼女の好きな世界は、こんなふうに誰かの心を温めるのか。
そんなことを思いながら、僕は本をそっと撫でた。




