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中身が空っぽな公爵子息の初恋  作者: 春樹凜


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2.刺繍



 翌日、僕はノルベルト伯爵邸の客間に通され、ソファーに腰掛けていた。


 ここを訪れた要件は、先日ノルベルト嬢が王都で落としたハンカチを届けるため。


 だからといって、突然押しかけて長居をするつもりなんて少しもなかった。

 玄関先で使用人にハンカチを預けようと、


「ノルベルト嬢に――」


 と言いかけただけだ。


 ところが僕がみなまで用件を言う前にあっという間に客間へと通されてしまったのだ。


 確かにもう一度彼女に会えたら嬉しいとは思っていたけど……。

 

「お待たせいたしました、クライム様」


 なんとなくそわそわしながら待っていると、静かな使用人の声と共に扉が開き、ノルベルト嬢が姿を現した。


 淡い水色のドレスに身を包んだ彼女は、僕の顔を見るなり、ぱっと表情を綻ばせた。


 昨日見た通りだ。

 声を失っているという悲壮感など微塵も感じさせない、息を呑むほどに明るい太陽のような笑顔だった。


 彼女は僕の前にやってくると、『ようこそいらっしゃいました!』と全身で歓迎の意を表すように胸の前で両手を合わせかけ……はっとして動きを止めると、慌ててドレスの裾をつまんで、見事なカーテシーを披露してみせた。


 僕は立ち上がると、懐からあの美しい刺繍が施されたハンカチを差し出す。


「突然ごめんね。昨日君がこれを落としていったから、届けに来たんだ」


 どうやら彼女自身も、自分のハンカチを落としたことに気づいていなかったらしい。

 驚いたように僕とハンカチを交互に見つめる彼女に、僕はいつものように微笑みを浮かべて口を開いた。


「学園の休暇が明けてから直接渡せばいいとも思ったんだけど。休みはまだまだ残っているし、君にとって大事な物かもしれないと考えてね」


 そう告げると、彼女は震える手でハンカチを受け取り、宝物のように胸に抱いてから深く頭を下げた。


「じゃあ、僕はこれで失礼するよ。良い休日を」


 用件が済んだ僕はそう言ってから、立ち去ろうと客間の扉へ向かいかける。


 けれどその時、僕の視界の端に何かが飛び込んできた。


 ノルベルト嬢が慌てた様子で僕の前に回り込み、何やら必死に両手をばたばたと動かしているのだ。

 奥にあるソファーを指差して、何度も首を横に振っている。


「えっと……どうかしたの、かな?」


 僕が首を傾げると、彼女は部屋にいた侍女から手のひらサイズのメモ帳とペンを受け取る。

 そしてものすごいスピードで文字を書き殴り、そのメモ帳を僕の目の前にバッと突き出した。


『せっかく来てくださったのに、そのまま帰してしまうなんてできません! もしご迷惑でなければ、せめてものお礼にどうかお茶を飲んでいってください!』

「いいのかい?」


 僕が少し驚いたように尋ねると、ノルベルト嬢はうんうんと力強く頷いて、期待に満ちた瞳で僕を見上げた。


「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 幸い、この後に急ぎの用事があるわけでもない。

 形式上は侍女も控えているし、客としてお茶を勧められた以上、無礼にはあたらない。

 それに、せっかく彼女の方から勧めてくれたんだから、断るのも野暮というものだろう。


 ……なんて言い訳を頭に並べつつも、本当は、僕自身がもう少しだけ彼女のことを知りたかっただけだ。


 そのまま二人でテーブルにつき、お茶の時間が始まった。


 僕は天候や王都の流行りなど当たり障りのない話題を振り続ける。

 彼女は僕の言葉一つ一つに目を輝かせ、時に楽しそうに笑い、時に驚いたように口元を押さえながら、コロコロと表情を変えて相槌を打ってくれる。


 彼女は声を出せない代わりに、メモ帳にスラスラと文字を書き、僕に見せてくれた。


 学園でもこうやって、友人たちと会話しているところを見かけたことがある。

 彼女の筆談は想像以上にテンポが良く、声がなくても十分に会話は盛り上がった。


 けれど会話を続けながら、僕は次第に、えも言われぬ居心地の悪さを感じ始めていた。


 彼女は声が出ない分、文字だけでなく表情や仕草のすべてを使って、自分の感情を真っ直ぐに僕へ伝えてくれている。


 それなのに僕は、どうだろう。


 相手の機嫌を損ねないような、誰にでも言える無難で正解ばかりの言葉ばかりを並べ立て、本音なんて欠片も出していない。

 彼女の前では、作り物の自分の薄っぺらさばかりが目についた。


 ふと自分の感情の手持ち無沙汰にごまかすように、彼女の手元にある先ほど返したばかりのハンカチへと目線を向けた。


「そのハンカチの刺繍、とても精密で素晴らしい柄だね。どこで買ったのか、教えてもらえないかな?」


 すると彼女はなぜか顔を赤らめ、もにょもにょと唇を動かした後、さきほどよりもゆっくりとした速度でメモ帳にペンを走らせる。


 そして、わずかに震える文字を僕に見せる。


『実は、これ、私が刺繍したんです』

「そうなのかい!?」


 僕は思わず本気で驚きの声を上げる。

 ノルベルト嬢は続けてメモを見せる。


『私、刺繍が昔から好きで、他にもいろんなものを作っています』


 そこで僕は視界の端に目に入ったテーブルクロスを見る。

 よく見れば純白のテーブルクロスの縁には、先ほどのハンカチとよく似た、信じられないほど緻密で美しい植物の刺繍がぐるりと施されている。


「じゃあ、このクロスも君が?」


 僕の問いかけに、彼女はもじもじと迷った後、そっと首を縦に動かす。


「すごいな……」


 思わず漏れた感嘆は、計算も取り繕いもない、本音そのものだった。


『ありがとうございます。お世辞でも、嬉しいです』


 彼女はそう書いたけれど、僕はすぐに首を横に振った。


「違うよ。お世辞なんかじゃない」


 言いながら、僕はテーブルクロスの縁に施された刺繍へ改めて視線を落とす。


 本当は、こういう時に僕が言うべき完璧な褒め言葉は分かっている。


 ――繊細な糸のグラデーションを使って、小さな花びらの一枚一枚まで本物のように立体的に縫い込まれている。

 ――熟練の職人にも劣らない優雅な技術だ。

 ――長い時間をかけて丁寧に針を進めたのが伝わってくる素晴らしい物だ。


 そういう正解の言葉なら、いくらでも並べられる。

 いつもなら、そうする。


 けれど――。


 どうしてだろう、彼女には、そんな借り物の言葉を使いたくなかった。


 彼女の刺繍を見て胸に浮かんだ、もっと単純で、もっと拙い、僕自身の言葉で伝えたいと思った。


 だけど、気の利いた言葉は出てこない。


 沈黙が落ちて、焦りが喉の奥を締めつける。

 それでも、どうにか絞り出した。


「……とても温かくて、綺麗な刺繍だ」


 うまく言えたとは思えなかった。


 けれど、彼女は驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。

 その笑顔を見た途端、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。


 なんとなく恥ずかしくなった僕は、それを誤魔化すように慌てて付け足す。


「こんなに繊細な作業ができるなんて、本当に羨ましいよ。実は僕、手先が絶望的に不器用でね。この前も妹の髪のリボンを結んであげようとしたんだけど、どういうわけかガチガチの固結びにしてしまって。結局ハサミで切る羽目になって、妹に大泣きされたんだ」


 自嘲気味に笑いながらそう明かすと、ノルベルト嬢は目を丸くして固まった。


 というか、こんな失敗談を聞かされても、彼女は反応に困るだけだろうに。

 自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのか分からなかった。


 案の定固まったままの彼女を見て、僕は、


「ごめんね、変なことを言って気を遣わせて」


 と謝ろうとした。

 

 けれど、僕が口を開くよりも先に彼女が素早く動いた。


 彼女はメモ帳にサラサラと文字を綴って、それをバンッ! と僕に見せた


『失敗は誰にでもあります! 私なんてこの前、ぼんやりしてたらペンの代わりに間違えてスティック状のクッキーをインク瓶に突っ込んで、真っ黒なクッキーを作ってしまいましたから!』


 あまりにも予想外のドジっぷりに、そしてなぜかどこか誇らしげに胸を張る彼女を見て、僕は一瞬ぽかんとした後――


「……ふはっ」


 思わず声を出して笑ってしまった。


「あ、ごめん! 他人の失敗を笑うなんて失礼だったね」


 無作法な自分の行為に気づいてすぐに謝ると、彼女はふんす、と鼻息を荒くして得意げにメモ帳を書き換えた。


『いいんです! これは私の一番とっておきの失敗談なので、クライム様が笑ってくださって良かったです』


 きっと、僕を慰めるために自分のとっておきの失敗談を披露してくれたのだろう。

 誇らしげに笑う彼女の姿に、僕の中の張り詰めていた糸がふっと緩んでいくのを感じた。



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