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中身が空っぽな公爵子息の初恋  作者: 春樹凜


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16.ツギハギのノート(セレーナ視点)



 その日、私は体調不良だと嘘をついて、学園を休んでしまった。


 朝、心配して部屋を訪ねてきた両親に、私は


「少し頭が痛いだけだから」


 と伝えた。


 昨夜ずっと泣いていたせいで私の両目が酷く腫れ上がっていることに、両親は絶対に気づいていたはずだ。

 けれど、深くは追及せず、そっとしておいてくれた。


 明日はちゃんと学園に行かなくちゃ。

 そう頭では分かっているのに、目を閉じると、レイトニア様の冷たい声が何度も鼓膜に蘇ってくる。


『ヒキガエルみたいな、気味の悪い声で――』


 その言葉と一緒に、びりびりと引き裂かれた大切なノートの残骸が、雪のように舞い散る光景が何度も脳裏に蘇る。


 どうして、あの時私はあんなふうに立ち尽くしてしまったのだろう。

 私と関わらなければ、アラン様があんなふうに傷つくこともなかったのに。


 悲しみと、申し訳なさと、どうしようもない後悔で、胸が押し潰されそうだった。


 と、コンコン、と控えめなノックの音がして、ハッと顔を上げる。


「お嬢様、失礼いたします。あの……先ほど、クライム様が当邸にいらっしゃいまして。お嬢様に、これをどうしても渡してほしいと」


 侍女が困惑したような顔で差し出してきたものを見て、私は息を呑んだ。


それは――昨日引き裂かれたはずの、あの交換日記だった。


「っ……!」


 私は弾かれたようにベッドから飛び降り、ひったくるようにそれを受け取る。


 ノートは、原型を留めているとは言い難かった。

 無数のテープや糊でガチガチに固められ、ところどころぽっかりと穴が空いている。

 お世辞にも綺麗だなんて言えない、不格好で、ツギハギだらけのひどい状態だ。


 だけど……ふと、孤児院での出来事を思い出した。


 彼と一度だけ顔を合わせた、あの孤児院。

 男の子たちにせがまれて紙の風車を作ろうとしていた時、アラン様は折る向きを何度も間違えて、気づけば紙をくしゃくしゃにしてしまっていた。


 最後は子供たちに、


「ちがうよ、こう!」


 と手元を取られて、困ったように笑っていたっけ。


 そんな不器用な手で、夜通しこれを繋ぎ合わせてくれたのだと思うと、胸が締めつけられた。

 ベタベタになった表紙の手触りから、アラン様はこのノートと向き合ってくれたことが痛いほど伝わってくる。


 私は震える手で、表紙をめくる。


 ページを進めるたびに、これまで二人で交わしてきた文字や、不格好な絵が次々と現れた。


 それは、私がとても大切にしたいと思っていた、アラン様と紡いできた時間がちゃんと残っていて。

 こんなふうに繋ぎ合わせてまで返してくれたことに、思わず目から涙が溢れそうになる。


 もう失いたくない。

 このノートも、ここに綴られた時間も。


 そして――アラン様との繋がりも。


 すると、一番最後の、新しいツギハギのページ――そこには少し乱雑な文字で、たった一言だけメッセージが書かれていた。


『どんなに傷だらけで不格好になっても、僕にはこれが、世界で一番綺麗で大切なノートだ。だから――君の言葉の続きを、いつまでも待っています』


 その文字を見た瞬間、我慢していた涙がせきを切ったように溢れ出した。


 私なんかと関わったことを後悔するどころか、このノートそのものを、世界で一番綺麗で大切だと言ってくれたのだ。


「お嬢様!?」


 私はノートを胸に強く抱きしめると、部屋着のまま部屋を飛び出した。

 階段を駆け下り、驚く使用人たちの横をすり抜けて、屋敷の玄関へと向かう。


 広い前庭のずっと先、正門の門扉の向こうに、ちょうど馬車に乗り込もうとしているアラン様の背中が見えた。


 必死に走るけれど、距離が遠すぎる。

 このままじゃ、私が追いつく前に彼は馬車に乗って、扉が閉まってしまう。


 だったら――。


『気味の悪い声』


 呪いのように縛り付けていたレイトニア様の言葉が一瞬頭を過ったけれど、胸に抱いたツギハギのノートの温もりが私の背中を強く押してくれた。


 私は足を止め、ぎゅっと目を閉じると、数年間一度も使っていなかった喉の奥にありったけの力を込めた。


「ア、ラン、さま……っ!!」


 空気を震わせたのは、ひどく掠れた、ガラガラに乾いた不格好な声で。


 けれどその声は間違いなく、風に乗って彼の元へと届いた。


 馬車に乗ろうとしていたアラン様が、弾かれたようにバッとこちらを振り返って、大きく見開かれた彼の瞳と視線がぶつかった。


 アラン様は馬車を蹴り飛ばすような勢いで振り返ると、私に向かって全力で走ってきた。

 私もまた、彼に向かって駆け出す。


 そして、庭の中央で二人の距離が吐息が聞こえるほどに近づいた瞬間、アラン様は私の目の前でピタリと足を止め、荒い息を吐きながら真っ直ぐに私を見つめた。


「あ、らん、さま……っ。ノート、ありがとう、ございま……っ」


 必死にそう続けようとしたけれど、数年ぶりに無理をして使った喉は限界で、ひゅっ、ひゅっと、喉の奥が掠れたような息遣いしか出てこない。


 自分の耳で聞いても、ひどく震えていて、聞き苦しくて、ちっとも可愛くない声だ。


 私がポロポロと涙をこぼしながら喉を押さえると、アラン様は優しく微笑んで首を横に振った。


「無理しなくていい。……僕の名前を呼んだ君の声、ちゃんと聞こえたよ」


 それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、優しくて温かい声だった。


 私は彼からのメッセージにどうしても今すぐ返事がしたくて、ノートを抱えたままハッとして自分の手元を見下ろす。


 ペンがない。

 急いで飛び出してきたせいで、書くものを持っていなかったのだ。

 

 私がハラハラと周囲を見回して身振り手振りで伝えようとすると、私の意図を察したアラン様が「待ってて」と告げ、急いで馬車へと走った。


 そしてペンを持って戻ってくると、そっと手渡してくれた。


 声にならない口の動きで感謝の言葉を伝えて、私はノートを開く。


 彼が徹夜で修復してくれた、ツギハギだらけのページ。

 彼からの言葉のすぐ下に、私は震える手でペンを走らせた。


『私も同じ気持ちです。アラン様が繋ぎ合わせてくれたこの不格好なノートは、私にとっても何より大切な宝物です』


 そこまで書いて、私は一度彼を見上げた。


 彼がじっと、私の手元を見つめて待ってくれている。

 私は大きく深呼吸をしてから、一番伝えたかった言葉を書き足した。


『――だから、どうかこれからも、私と交換日記を続けてくれますか?』


 書き終えたノートを胸の高さで掲げて見せると、アラン様は少しだけ目を丸くして、その文字をじっと読んだ。


 やがて、まるで張り詰めていたものがほどけたみたいにふっと頬を緩めたかと思うと、アラン様はとっておきの笑顔で言ってくれた。


「もちろん、喜んで!」



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