13.見えない壁(セレーナ視点)
ノートのやり取りが始まってから、しばらくして。
「ねえ、セレーナ。最近なんだか、前よりもずっと可愛くなったわよね?」
「お肌もツヤツヤですし、なんだかいつも楽しそうですわ! ……もしかして、誰か好きな人でもできたのかしら?」
お昼休みの教室で、友人であるクロエとリリアにそう指摘され、私はひゃっと肩を跳ねさせた。
そして急いで両手で顔を覆いながら、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
『好きな人なんて、そんな……!』
真っ赤になって否定する私の頭の隅に、ノートを書いてくれる彼の姿がふっと浮かびかけて……私は慌ててその思考を追い出した。
「ふふっ、怪しいわね。最近放課後になると、いつもこそこそどこかへ行っちゃうし」
「それにその鞄、いつもすごく大事そうに抱えてるじゃない。何が入ってるのかなー?」
クロエがニヤニヤしながら私の鞄を指差した。
中に入っているのは、あの秘密のノートだ。
だけどクロエたちは私の鞄を無理やり開けようとしたりはせず、優しく微笑んでくれた。
「まあ、今は聞かないでおいてあげますわ」
「でも、言いたくなったらちゃんと私たちにも教えてね。報告、いつまでも待ってるから!」
優しい友人たちの言葉に、私は申し訳なさと嬉しさを感じながら、こくりと深く頷いた。
……この秘密を、クロエたちに言える日は来るのかな。
確かに私は、公爵家の嫡男であるアラン・クライム様とこっそり交換日記をしている。
けれど彼は学園でも一、二を争うほど人気が高く、まだ婚約者もいない。
そんな彼と声も出せない私がやり取りしているだなんて、誰にも言えるはずがなかった。
――彼と私の立場の違いを思い知らされたのは、その日の放課後のことだった。
「クライム様っ!」
廊下を歩いていると、少し先の窓辺で、甘い声を上げながら彼に歩み寄る女の子たちを見かけた。
対するアラン様は、嫌がる素振りも見せず、親しげに微笑みながら彼女たちの相手をしている。
その集団の中心にいる一人の令嬢を見た瞬間、私の足は床に縫い付けられたようにピタリと止まってしまった。
レイトニア侯爵家令嬢の、レベッカ様。
彼女の姿を見た瞬間、子供の頃に浴びせられたあの冷たい言葉が脳裏をよぎった。
『あなたの声ってまるで――――――ですわよね』
彼女にそう言われたのは、十二歳の頃、初めて参加した王宮のお茶会でのことだった。
確かにレイトニア様は、私とはまるで違って、澄み切ったガラスの鐘のような声も、華やかな容姿も持っている。
アラン様の隣に立つ姿は、絵画のようによく似合って見えた。
二人の姿を見ると、どうしてだか胸の奥がぎゅっと痛んだ。
私はその痛みに気づかないふりをして、そっと視線を外してその場から逃げるように立ち去った。
だけどその時、レイトニア様が私の背中をじっと、射抜くような鋭い目で見つめていたことには気づかなかった。
その日を境に、なぜか学園内で妙な視線を感じることが増えた。
気のせいかと思って視線を辿ると、遠くからレイトニア様や彼女の取り巻きたちが、ひそひそと何かを囁きながらこちらを見ているのだ。
どうして?
私は、彼女たちに何かしただろうか。
じわじわと背筋を這い上がる恐怖。
だけど、彼女に言われた言葉のせいで声が出せなくなったことは、家族にも友人にも誰にも言っていない。
だから、この恐怖も一人で抱え込むしかなかった。
そんな不安な日々が続いたある日の放課後。
いつもの場所へノートを置きに行くと、偶然アラン様とばったり鉢合わせた。
彼とこうして顔を合わせて言葉を交わすのは、随分と久しぶりのような気がする。
最近は生徒会の仕事お忙しいようで、ノートのやり取りもすれ違いが続いていたから。
久しぶりに見る彼は、なんだかいつもと少しだけ雰囲気が違うような気がした。
どこか落ち着かないというか、視線が定まらないというか。
それだけじゃない。
ここ最近彼が書いてくれるノートの文字も、どこかおかしい気がしていた。
言葉の端々に勢いがなかったり……何か深い悩みを抱え込んでいるように見えた。
私が心配になって彼を見つめていると、アラン様もまた、私の顔をじっと見つめ返してきた。
『お疲れ様です。最近、お忙しそうですね』
私がそうメモに書いて見せると、彼は、
「うん、少しね」
と短く返した。
けれど、お互いに言葉を探すような少しの沈黙の後、ふとアラン様が私に声をかけてきた。
「なんだか少し、元気がないように見えるけど。……大丈夫?」
私は思わず息を呑んだ。
どうしてだろう。
私は私らしく、いつも通りに笑って見せたはずなのに。
クレアにもリリアにも、それ以外の友人にも、一度も指摘されなかったのに。
「顔色もそうだけど、一番は……ここ最近君が書いてくれたノートの文字が、いつもより少し元気がないような気がして」
声も出していない、ただ文字を書いただけなのに、彼はそこから私の小さな揺れにまで気づいてくれた。
それが嬉しくて、でも――本当の理由は言えなかった。
『大丈夫です、少し寝不足なだけで』
とメモに書いて誤魔化した。
アラン様は私のメモを見て、一瞬だけ何かを言いたげに目を伏せたけれど、深くは追及してこなかった。
ほっとしたような、でも少しだけ寂しいような気持ちを抱えながら、私はペンを握り直し、今度は私がずっと気になっていたことを書き綴った。
『クライム様こそ、最近少し変じゃないですか?』
メモを見せた瞬間、アラン様は明らかにビクッと肩を揺らして動揺した。
『もし何か悩みがあるのなら、私では頼りないかもしれませんが、お話を聞くことくらいはできます』
私がそう書いたメモを突き出すと、アラン様は一瞬だけ泣きそうな、苦しそうな顔をして……すぐに表情を整えた。
「ありがとう。でも、本当に何でもないんだ。大丈夫だよ」
さらりと微笑んだその顔を見て、私は息を呑んだ。
彼の笑顔が、いつもと違って見えた。
うまく言えないけれど、そこに見えない壁ができてしまったようで、ひどく遠かった。
私はただのお友達で、彼とは立場も何もかも違う。
彼には彼の事情があって、私にすべてを話す必要なんてない。
そんなことは頭では分かっているのに、どうしようもなく悲しかった。
でも彼が言いたくないことを、無理に聞き出すことなんてできない。
だって、隠しているのは私だって同じだから。
『分かりました』
だから私はメモにそう書いて、静かに一礼してから、逃げるようにその場を引き下がった。
それからの交換日記は、文字も絵も続いているのに、なんだかお互いに核心に触れないような、どこかぎこちないやり取りになってしまっていた。
あんなにノートを開くのが楽しみだったのに。
今は少しだけ、胸が痛い。
そんな重たい気持ちを抱えながら、数日後の放課後。
私は新しい返事を書いたノートを鞄に隠し持ち、人が少ない図書室の奥へ向かった。
だけど、中に入ろうとしたその時だった。
「あら。そんなところでこそこそと、何をしているのかしら?」
背後から、澄み切ったガラスの鐘のような、冷たい声が響いた。
振り返るとそこには、腕を組んで私を見下ろす数人の令嬢と、そしてその中央にはレイトニア様の姿があった。




