001 追放されましたので、今日はもう寝ますわ
「役立たずの悪女め。お前との婚約は破棄する!」
高い天井に、王太子の怒鳴り声が響いた。
王宮の大広間には、王族、貴族、近衛騎士、文官たちがずらりと並んでいる。磨かれた床にシャンデリアの光が落ち、誰もが息を止め、私が泣き崩れる瞬間を待っていた。
王太子は金の刺繍が入った礼服の胸を張り、さらに一歩踏み出した。まるで今から国を救う英雄のような顔である。
「辺境へ追放だ。二度と王都へ戻ることは許さん!」
私は数秒、黙った。
そして。
(……やったぁ)
心の中で、盛大にガッツポーズをした。
やっとだ。
やっと、終わる。
毎朝五時から始まる王妃教育も、終わらない礼法の暗記も、笑顔の角度まで見られるお茶会も、眠っていない目元を化粧で隠しながら「未来の王妃らしく」と言われ続ける毎日も。全部、終わる。
「……何か言うことはないのか」
王太子が苛立った声を出した。
私は背筋を伸ばし、王妃教育で叩き込まれた中で一番きれいな礼をした。
「では、失礼いたしますわ」
「は?」
「お世話になりました。追放されたので、今日はもう寝ます」
広間がざわめいた。誰かが扇を落とした音がした。
王太子は口を開けたまま固まっている。泣いて縋られる予定だったのだろう。残念ながら、私の今の願いは愛でも名誉でも復讐でもない。
八時間睡眠である。
◇
三時間後、私は揺れる馬車の中で死んだ目をしていた。
「…………最悪ですわね」
ガタン、と車輪が跳ねる。次の瞬間、頭が天井にぶつかった。
「痛っ……!」
硬い座席。薄い毛布。隙間風。膝に置いた鞄は何度も滑り落ち、窓の外では雪まで降り始めている。白い息が指先にかかり、眠気より先に怒りが来た。
王都の馬車は、王宮の廊下よりひどい。
「辺境まで、あとどのくらいですの」
向かい側に座る黒髪の騎士が、窓の外を見たまま答えた。
「順調に進めば二週間ほどです」
「二週間?」
「はい」
「この揺れる箱に?」
「馬車です」
「名前の問題ではありませんわ」
騎士は無表情だった。今回の護送役。氷の騎士と呼ばれている男だと聞いた。黒髪、長い睫毛、整った横顔。顔だけなら夜会で令嬢たちがため息をつく類の男である。
ただし、いまの私には顔面偏差値より座席の柔らかさが重要だった。
「我慢してください」
「無理ですわ」
「……は?」
私は窓枠に手をかけた。
冷えきった硝子に指が触れる。外では雪が斜めに流れていた。遠くの雪原には、馬車の轍が黒く伸びている。
眠い。寒い。揺れる。
この三つがそろうと、人はだいたい正気を失う。
私は窓を少しだけ開け、雪の匂いを吸い込んだ。冷たい空気が肺に刺さる。指先に魔力を集めると、雪の粒が青白く光った。
「静かで、暖かくて、揺れなくて、ふかふかの寝台がある移動空間」
騎士が眉を動かした。
「何をしている」
「考えていますの。二週間耐える方法を」
「馬車を替える余裕はありません」
「でしたら、馬車でなくせばよろしいでしょう」
雪原に、銀色の線が走った。
細い光が馬車の轍を追い越し、白い雪の上へ伸びていく。馬がいななき、御者が悲鳴を上げた。車輪の下から軋む音がする。木枠がきしみ、金具がほどけ、馬車そのものが内側から押し広げられた。
「待て、何を」
「お風呂も欲しいですわね。あと紅茶。防音。暖炉。厚い毛布。右側には大きなソファ。寝る前に本を置ける机も必要ですわ」
「要求が多すぎる!」
「二週間眠れないよりは少ないですわ」
白銀の光が馬車を包んだ。
まず、馬具が外れた。革紐がほどけ、金具がぱちん、ぱちんと雪の上へ落ちる。二頭の馬は自由になった瞬間、尻尾を跳ね上げて雪原へ逃げ出した。御者が慌てて追いかけるが、馬たちは怪我ひとつなく、白い息を吐きながら遠ざかっていく。
次に、馬車が伸びた。
狭い箱だった車体が、前へ、後ろへ、音を立てて広がっていく。木枠は白銀の外壁に変わり、幌はほどけて屋根になり、黒鉄の車輪が雪の上へ走った銀色の線路に噛み合った。
車軸が低く沈む。床が長く伸びる。扉が厚くなり、窓が横へ連なり、車体の端に小さな連結器が生まれる。
それはもう、馬車ではなかった。
雪原の真ん中に、一両の白銀列車が出来上がっていた。
騎士が、言葉を失った。
御者も、逃げた馬を追う足を止めて振り返っている。吹雪の中、白銀の車体だけが灯りを抱いて、静かに線路の上へ乗っていた。
細い廊下が伸び、分厚い扉が生まれ、窓硝子が横長に広がる。壁はなめらかな飴色の板へ変わり、床には赤い絨毯が敷かれた。天井には琥珀色の灯りがともる。外の吹雪の音が、分厚い布をかぶせられたように遠のいていく。
最後に、寝台室の中央へ信じられないほど大きな寝台が現れた。白い掛け布。ふかふかの枕。身体を沈めたら二度と起き上がれなさそうな、恐ろしく魅力的な寝台だった。
私はもう限界だった。
ふらふらと寝台へ近づき、手で押す。柔らかい。沈む。戻る。完璧。
これはもう、勝ちですわ。
ぼすん、と飛び込んだ。
毛布が身体を包む。あたたかい。座席で冷えきった腰と肩から、力が抜けていく。窓の外では吹雪いているのに、室内は静かだった。暖炉の火が、ぱち、と小さく鳴る。木の香りがした。
「紅茶」
私が呟くと、寝台脇の小さな机に魔法陣が浮かび、湯気を立てるティーカップが現れた。
騎士が一歩下がる。
「魔導錬成……いや、これは列車なのか」
「眠る前には、温かい飲み物が必要でしょう?」
「答えになっていません」
私はカップを持った。指先に熱が広がる。一口飲むと、喉の奥から胸まで温かくなった。
涙が出そうになった。
誰も怒鳴らない。誰も姿勢を直せと言わない。誰も今日中に暗記しろと言わない。ただ、眠っていい。
「……そんな顔もするんだな」
騎士がぽつりと言った。
「どんな顔ですの」
「今にも泣きそうな顔です」
「眠れると思うと、人は泣きそうになりますのよ」
「そういうものか」
「そういうものですわ」
その時、遠くで魔物の咆哮が響いた。
騎士の目が変わる。窓の外、雪煙の向こうから狼型の魔物が駆けてきた。十体はいる。黒い毛並みに白い息をまとい、こちらへ一直線に向かってくる。
「下がってください」
騎士が剣に手をかけた瞬間、先頭の魔物が跳びかかった。
どん、と重い音がした。
魔物は、透明な壁にぶつかったように弾かれた。火花が散り、雪の上へ転がる。続いた魔物たちも次々と見えない壁に阻まれ、唸り声だけが外で渦を巻いた。
白銀の列車は揺れなかった。
ティーカップの紅茶も、一滴もこぼれていない。
「防御結界まで……」
騎士は窓の外を見たまま呟いた。
「快適な睡眠の邪魔をされたくありませんもの」
「あなたは、辺境へ追放された令嬢のはずだ」
「ええ」
「なぜ、馬車を列車に変えられる」
「眠りたかったからですわ」
騎士は何かを言いかけて、やめた。代わりに、ほんの少しだけ口元を緩める。
「呆れた方だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてはいません」
そう言いながら、騎士は扉の前へ移動した。外の魔物へ向ける視線は冷たい。けれど、こちらへ向ける声は不器用なほど静かだった。
「お休みください。俺が見張っています」
私は毛布へ潜り込んだ。ふわふわだ。あたたかい。外では吹雪が窓を叩いている。透明な結界の向こうで魔物が唸っている。それなのに、この寝台室だけは別世界のように穏やかだった。
「騎士様」
「なんでしょう」
「お名前、まだ聞いておりませんでしたわ」
短い沈黙があった。
「……ルークです」
「ルーク」
「はい」
「おやすみなさい」
彼は少しだけ目を細めた。
「ええ。良い夢を」
扉が静かに閉まる。
白銀の一両列車は、雪原の上を走り始めた。外へ伸びた銀色の線路をなぞるように、音もなく進んでいく。
ガタン、ゴトン。
規則的な音が、寝台の下から小さく響く。
揺れはほとんどない。けれど、その音だけは子守歌みたいに残っていた。木の香り。紅茶の余韻。暖炉の音。誰かが扉の外で見張っている気配。
幸せだ。
私は毛布へ顔を埋め、意識を手放した。
◇
その頃、遠い王都では、文官たちが青ざめていた。
「結界維持の承認印が止まっています!」
「王家予算の帳簿はどこだ。誰が管理していた!」
「礼典費の精算書も見当たりません!」
王太子は苛立った顔で机を叩いた。
「そんなもの、担当官に聞け!」
文官の一人が、震える手で空の書類棚を指した。
「その担当官が、先ほど辺境へ追放されました」
部屋の空気が止まった。王太子の指が、机の上で動かなくなる。
誰かが、小さな声で呟いた。
「……まさか、本当に全部、あの方が?」
王都の夜は、まだ始まったばかりだった。




