第9話 ルーメの実のケーキ
市場を出てから、要は善一郎の言葉の意味を嫌というほど思い知った。
行きにも通った森の坂は、空の台車を押しているときには大したことがないように見えた。だが、野菜や果物、茶葉にコーヒー豆まで積み込んだ今は別だった。
少し傾斜がきつくなるだけで、台車が後ろへ戻ろうとする。要は取っ手を握り直し、体重をかけるようにして一歩ずつ押した。
「マスター」
「うん?」
善一郎は数歩先を、相変わらず手ぶらで歩いている。
「やっぱり押してください」
「若いうちに体を動かしておくのは大事だよ」
「そういうのいいんで」
「最近の若者は冷たいねぇ」
言いながらも、善一郎は戻ってこない。
要はため息をつき、台車を押した。車輪が木の根を乗り越えるたびに、積んだ荷物ががたがたと揺れる。そのたびにビンハルトの「茶葉の上には置くな」「湿気にも気をつけろ」という声が頭をよぎり、嫌でも荷物の状態が気になった。
行きにはただの森にしか見えなかった道も、帰りは少し違って見えた。
この先に市場があることを、もう知っている。
ローエンの店があり、リリアの茶葉店があり、ビンハルトの焙煎所がある。さっきまで自分がそこにいて、今押している台車には、彼らから仕入れたものが積まれている。
夢だったと言われても、腕にかかる重さが否定してくれそうだった。
「もう少しだよ」
前から善一郎の声がする。
「その台詞、信用していいですか」
「今日は本当」
「今日は、って言いましたね」
善一郎が楽しそうに笑った。
やがて木々の向こうに、見覚えのある扉が現れた。
森の中にぽつんと立つ、どう見ても場違いな扉。朝に見たときは、それだけで頭が追いつかなかったものだが、今はその向こうがどこにつながっているのか分かっている。
善一郎が扉を開けた。
「お先にどうぞ」
「台車あるんですけど」
「だから先にどうぞ」
要は善一郎を見たが、にこにこと笑っているだけだった。
仕方なく台車を押して扉をくぐる。
一歩先は、むすびの杜の厨房だった。
森の湿った空気が消え、代わりに店の中の馴染み始めた匂いが鼻に届く。振り返れば、開いた扉の向こうにはまだ木々が見えていた。
朝にも通ったはずなのに、帰ってくると妙に現実感がある。
「……戻った」
「お疲れさま」
後から入ってきた善一郎が扉を閉める。
それだけで、森は見えなくなった。
要はしばらく扉を見つめてから、台車へ視線を落とした。
「これ、全部片づけるんですよね」
「もちろん」
「ですよね」
仕入れは、店へ戻れば終わりというわけではなかったらしい。
善一郎に置き場所を聞きながら、要は荷物を一つずつ下ろしていった。野菜と果物は厨房へ。茶葉とコーヒー豆はそれぞれ善一郎が確認しながら分けていく。
市場ではひとまとめに「仕入れ」としか思っていなかったが、店へ戻れば、それぞれ使う場所も扱い方も違う。
最後の箱を下ろした頃には、台車を押していたときとは別の意味で腕が重くなっていた。
「要くん」
「はい」
「これ」
善一郎が木箱から黄色い実を一つ取り出した。
ルーメの実だ。
市場でローエンに渡され、その場で食べた味を思い出す。リンゴに近い歯触りに、しっかりした甘さ。そのあとに柑橘のような酸味が追いかけてきた。
「ケーキ、何からやればいいですか」
善一郎がルーメの実を作業台へ移した。
「まずは実を洗ってくれるかい。切り方は、そのあとで教えるよ」
要は実を受け取り、流しへ運んだ。
善一郎はエプロンをつけ直し、必要なものを出していく。要はその横で手と実を洗い、言われるままにボウルや道具を用意した。
「要くん、ルーメを切ってもらえるかい?」
「どう切ればいいです?」
「まず半分。中に種があるから、それを取ってから薄めに」
「了解です」
包丁を入れると、皮の下から淡い色の果肉が現れた。切ったそばから、甘い香りに爽やかな匂いが混じって広がっていく。
市場でかじったときより、香りがはっきり分かる。
「これ、生でもうまかったですけど、焼くとどうなるんですか」
「甘みが強くなるね。酸味も少し丸くなる」
「へえ」
「気になる?」
「まあ」
答えながら、要は薄切りにした実を皿へ並べていった。
善一郎は横で生地を作っている。手つきに迷いがない。材料を量り、混ぜ、状態を確かめる動きが、普段コーヒーを淹れているときと同じように自然だった。
要は切り終えた皿を差し出す。
「これでいいですか」
「うん、ちょうどいい」
善一郎は一枚つまみ、厚さを確かめるように眺めた。
「初めてにしては上手だねぇ」
「切っただけですけど」
「切るのも料理だよ」
そう言われると、反応に困る。
要は使い終えた包丁を洗いながら、善一郎の手元を横目で見た。
生地が型へ流し込まれ、その上にルーメの実が並べられていく。黄色い実が淡い生地の上に重なると、それだけで少し見栄えがした。
「これ、店で出すんですか」
「おいしくできたらね」
「失敗することあるんです?」
「そりゃあるよ」
善一郎はあっさり言った。
「マスターでも?」
「僕をなんだと思ってるんだい」
「何でも適当にやって、なんとなく成功する人かと」
「ひどい評価だねぇ」
「今日一日でだいぶ固まりました」
善一郎は笑いながら型をオーブンへ入れた。
焼き上がるまでは、少し時間がある。
その間に要は、善一郎と一緒に残りの仕入れ品を整理した。ローエンの店から買った野菜や果物を確認し、傷みやすいものから分けていく。
朝までは、棚や冷蔵庫にある食材を見ても、それがどこから来たのか考えたことはなかった。
今は一つ手に取るたびに、市場の景色が浮かぶ。
ローエンが豪快に笑っていた店先。客の目につく場所へ青い茶葉を置き、何食わぬ顔で試飲を勧めてきたリリア。豆の話になると急に止まらなくなったビンハルト。
いつもと同じ厨房なのに、置かれているものの見え方が少し変わっていた。
「要くん」
「はい」
「ぼーっとしてると、それ冷蔵庫に入れ忘れるよ」
言われて、要は手にした野菜を見た。
「……考え事してました」
「珍しいねぇ」
「失礼ですね」
「何考えてたんだい?」
要は少し迷ってから、棚に並べた食材へ目を向けた。
「いや。ここにあるやつ、今日までは普通に仕入れてるだけだと思ってたなって」
「うん」
「まさか、あんなところまで買いに行ってるとは思わないじゃないですか」
「普通は思わないだろうねぇ」
「普通じゃない自覚はあるんですね」
「もちろん」
善一郎は平然と答えた。
そこは否定しないらしい。
しばらくして、厨房に甘い香りが漂い始めた。
要は自然とオーブンのほうを見る。
バターと焼けた生地の匂いに、ルーメの実の香りが混ざっている。市場で食べたときの爽やかさより、今は甘い匂いのほうが強かった。
「そろそろかな」
善一郎が焼き具合を確かめ、やがて型を取り出した。
表面はきつね色に焼け、その上に並べたルーメの実は少し透き通っている。端のほうには果汁がにじみ、生地へ染み込んでいた。
「すぐ食べないんですか」
「少し冷ましたほうがおいしいよ」
「そうですか」
「残念そうだねぇ」
「別に」
否定したが、たぶん説得力はなかった。
善一郎は笑いながらコーヒーの準備を始めた。
豆を量り、挽く。
その音を聞いた瞬間、要はビンハルトの店を思い出した。
焙煎機の中で鳴っていた、ぱち、という小さな音。火加減を見ながら、ビンハルトが得意げに話していた姿。
昨日までなら、善一郎が豆を挽いていても、ただコーヒーを淹れているとしか思わなかった。
今は、その豆がここへ来るまでの途中が見える。
「それ、今日買ったやつですか」
「そうだよ」
「ビンハルトさんの」
「そうそう」
善一郎は挽いた粉へ湯を注いだ。
ふわりと香りが立つ。
市場の焙煎所で嗅いだものとは少し違う。それでも、同じ豆の続きなのだと思うと妙な感じがした。
ケーキがほどよく冷めたところで、善一郎が二切れに分けた。
「はい。味見」
「いただきます」
要はフォークを入れた。
生地は思ったよりしっとりしていた。上に焼き込まれたルーメの実は、生で食べたときより柔らかく、噛むと甘い果汁が広がる。強かった酸味は確かに丸くなっていたが、消えたわけではない。むしろ甘い生地のあとに少しだけ残る酸味が、ちょうどよかった。
「……うまい」
「それはよかった」
「生で食べたときと、結構違いますね」
「火を入れると変わるものは多いからねぇ」
要はもう一口食べた。
今朝、市場でローエンから手渡された実が、数時間後にはケーキになって目の前にある。
その間を、自分も少しだけ手伝った。
ただ食べるだけだった一口が、今日は妙に具体的だった。
「これ、出せそうですか」
「要くんはどう思う?」
逆に聞かれ、要はケーキを見た。
「出せるんじゃないですか。俺なら頼みます」
「じゃあ、週明けから出してみようか」
「俺の一票で決めるんですか」
「大事な一票だよ」
「責任重いな……」
善一郎は楽しそうに笑い、自分の分のケーキを口に運んだ。
要もコーヒーを飲む。
苦みのあとに、ルーメの甘酸っぱさが残った。
朝から知らない森を歩き、獣人の商人に会い、エルフの茶葉を飲み、ドワーフの焙煎話を聞かされた。台車は重かったし、説明不足の店主には何度も振り回された。
疲れたかと聞かれれば、間違いなく疲れている。
それでも、今日仕入れたものがこうして一皿になるなら、次に市場へ行くのも――まあ、悪くないのかもしれない。
要はそこまで考えて、カップを置いた。
「マスター」
「うん?」
「次の仕入れ、いつですか」
善一郎が目を丸くした。
ほんの一瞬だけだったが、その反応が妙に気に入らない。
「……なんですか」
「いやぁ」
善一郎はすぐに、いつもの笑顔へ戻った。
「要くんのほうから聞くとは思わなくてねぇ」
「別に、行くとは言ってません」
「そういうことにしておこうか」
「本当にそういう意味です」
要は残ったケーキを口に入れた。
善一郎はまだ笑っている。
訂正するのも面倒になって、要は黙ってコーヒーを飲んだ。
少なくとも、次にあの扉が開くとき。
今日ほど驚くことはないだろう。
たぶん。




