第8話 焙煎職人
茶葉の店が人波の向こうへ消えてからも、要の頭には、リリアが空を見上げていたときの顔が残っていた。
あれこれ考えてみたところで、本人が何も言っていない以上、答えが出るはずもない。善一郎に聞いても「いい子だよ」で終わったばかりだ。
要は考えるのをやめ、目の前の台車に意識を戻した。来たときには空だった木箱に野菜や果物、茶葉が詰め込まれ、すっかり重くなっている。石畳の継ぎ目に車輪が引っかかるたび、取っ手を握る腕にその重さがまともに返ってきた。
「マスター」
「うん?」
「まだ買うんですか」
「あと一軒だねぇ」
「そうですか」
要は短く答えた。
あと一軒なら、なんとかなるだろう。たぶん。
善一郎はそんな要の様子を気にするでもなく、市場の通りをゆっくり歩いていく。
しばらく進むと、周囲の店並みが少し変わった。
食材を積み上げた露店が減り、代わりに木工品や金属製の道具を並べた店が目につくようになる。槌を打つ音が遠くから響き、どこかでは木を削る乾いた音もしていた。
その中に、ふいに馴染みのある匂いが混じった。
要は足を止めかけた。
香ばしく、少し苦い。毎日のように店内で嗅いでいる匂いだ。
「コーヒー?」
「お、分かったかい」
善一郎が振り返る。
「さすがにこれは分かります」
要は鼻から息を吸った。
間違いない。むすびの杜で善一郎が豆を挽くときや、カウンターの向こうで湯を注いでいるときに漂う香りと同じだった。
ただ、こちらのほうがずっと濃い。
コーヒーの香りがすること自体は、別に不思議ではない。今朝から見てきたものを考えれば、異世界にコーヒーがあったところで、もう驚くほどでもなかった。
それでも、東京のマンションの一階にある喫茶店で嗅いでいた匂いが、石造りの建物と見知らぬ種族が行き交う市場の中から漂ってくるのは、妙な感じがした。
「店のコーヒーも、こっちから?」
「そうだよ」
「全部?」
「全部じゃないけど、よく使うのはこっちの豆だねぇ」
善一郎はそう言って、通りの角にある店へ向かった。
店というより、半分は工房だった。
正面の大きな扉は開け放たれていて、中には麻袋がいくつも積み上げられている。壁際の棚には大小の瓶が並び、薄い緑色の豆や、淡い茶色の豆、艶のある黒褐色の豆がそれぞれ入っていた。
店の奥には、要の腰ほどまである金属製の大きな筒が据えられている。その下で赤い火が揺れていた。
香りの元は、どうやらあれらしい。
「ビンハルト、いるかい?」
善一郎が声をかける。
「聞こえとる!」
奥から、低く太い声が返ってきた。
続いて、金属の筒の向こうから一人の男が現れる。
背は低かった。要の肩にも届かないくらいだが、横幅はかなりある。太い腕には革の手袋をはめ、焦げ茶色の前掛けには黒い粉があちこち付いていた。顎を覆う濃い灰色の髭は胸元まで伸びている。
要は一瞬だけ男を見て、それから善一郎を見る。
「ドワーフ?」
「正解」
「本人の前で答え合わせをするな」
男――ビンハルトが、むっとした顔でこちらを睨んだ。
「すみません」
「まったく。善一郎、お前は何を教えとるんだ」
「今日初めて連れてきたんだから、まだ何も教えてないよ」
「それを先に教えろと言っとる」
ビンハルトはぶつぶつ言いながら手袋を外した。それから改めて要を見る。
「で、そいつは誰だ」
「うちで働き始めた要くん」
「八神要です」
「ビンハルトだ」
短く名乗ったあと、ビンハルトは要の頭から足元までじろりと眺めた。
「細いな」
「よく言われます」
「そんな腕で、その荷車をここまで押してきたのか」
「途中から後悔してます」
ビンハルトは鼻を鳴らした。
笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。
「それで、いつものを?」
「うん。前と同じくらいお願いできるかい」
「待っとれ」
ビンハルトは積み上がった麻袋の間へ入っていった。
要は台車を入口脇へ寄せ、店の中を覗き込む。
棚に並ぶ豆は、どれも少しずつ色が違っていた。見慣れた焦げ茶色のものもあれば、まだコーヒーとは思えないほど白っぽいものもある。
奥では金属の筒がゆっくり回っていた。
「それ、焙煎してるんですか」
何気なく呟くと、麻袋の陰からビンハルトの顔が出た。
「そうだ」
それだけ答えて引っ込むかと思ったが、すぐにまた出てきた。
「今入っとるのは北の斜面の豆だ。あそこは朝晩の冷え込みが強い。そのぶん実が締まる。火を急ぐと外だけ焼けて中がついてこんから、最初は弱めだ」
「はあ」
「だが弱すぎても駄目だ。水が抜けん。香りも鈍る。豆の音を聞きながら火を上げる」
「音?」
「聞こえんか」
ビンハルトが顎で奥を示した。
要は耳を澄ませる。
筒が回る金属音。その向こうで、時折、ぱち、と小さな音がしていた。
「……なんか、鳴ってますね」
「それだ。豆は黙って焼かれとるわけじゃない」
ビンハルトは満足そうに頷いた。
「色だけ見て焼く奴は三流だ。音を聞け。匂いを嗅げ。煙を見ろ。豆がどこで育ったかも考えろ。同じ火で同じ時間焼けば同じ味になる、なんて思うなよ」
「俺、焙煎する予定ないんですけど」
「知っといて損はない」
「ビンハルトはコーヒーの話になると長いんだよ」
善一郎が横からのんびり口を挟む。
「長くない。必要な話だ」
「要くん、今のうちに聞き流す加減を覚えておくといいよ」
「善一郎!」
低い声が店内に響いた。
善一郎はどこ吹く風で、棚の瓶を眺めている。
要は少しだけ口元を緩めた。
善一郎とこの男も、ずいぶん長い付き合いなのだろう。ローエンやリリアのときと同じで、遠慮のなさが初対面同士のものではなかった。
ビンハルトはまだ何か言いたそうだったが、やがて諦めたように鼻を鳴らし、奥へ戻っていく。
その間にも、焙煎機から漂う香りは少しずつ変わっていた。
最初に感じた香ばしさが濃くなり、その奥に甘い匂いが混じり始める。
要は無意識に、もう一度鼻から息を吸った。
「気になるか」
いつの間にか戻ってきたビンハルトが、麻袋を抱えたまま言った。
「まあ、ちょっと」
「ちょっとか」
「店で毎日見てるんで。豆は」
「見るのと知るのは違う」
即答だった。ビンハルトは麻袋を床へ置き、口紐をほどく。中には、まだ焙煎されていない淡い緑色の豆が詰まっている。
要は袋の中を覗いた。店で善一郎が挽いている豆とは、色も匂いも違っている。
「なら、次は色だけじゃなく香りも覚えろ」
「次がある前提なんですね」
「善一郎のところで働いとるなら、あるだろう」
要は善一郎を見る。善一郎は楽しそうに笑っているだけだった。
「それより」
ビンハルトは麻袋の口を結び直した。
「善一郎。今日はどれを持っていく」
「いつもの深煎りを二つと、中煎りを一つ。あと、前にもらった豆、まだあるかい?」
「あれならある。だが今の時期のは前より酸味が立っとるぞ」
「それも面白そうだねぇ。少しもらおうかな」
「分かった」
ビンハルトは迷いなく棚の奥から袋を取り出した。
善一郎は袋を揃えるビンハルトを待ちながら、焙煎機の前に置かれた小さな椅子へ腰を下ろした。
要は二人のやり取りを横目に、店内を見回した。
ローエンの店には、見たことのない野菜や果物が山ほどあった。リリアの店には、青い茶葉があった。
ここにあるのは、コーヒー豆だ。
それだけなら、日本の専門店と大きく変わらないようにも見える。
けれど、その豆が育った場所は、裏口の向こうにある森よりさらに先なのだろう。市場へ運ばれ、ビンハルトが焙煎し、善一郎が買い、それが東京の喫茶店で一杯のコーヒーになる。
今朝まで要は、カウンターの向こうで善一郎が豆を挽く姿を、ただ仕事の一部として見ていた。
その前に、こんな場所があったとは知らなかった。
「要くん」
呼ばれて顔を上げる。
善一郎が紙袋を一つ差し出していた。
「これ、お願い」
「はい」
受け取ると、思ったより重い。
要は店の外へ運び、台車の空いている場所を探した。
野菜の箱。果物。茶葉の袋。
そこへコーヒー豆まで加わる。
今朝、市場へ来る途中で通った森の道を思い出す。
あの坂を、この重さで戻るのか。
「……マスター」
店内へ向かって声をかける。
「うん?」
「帰り、あの坂もこれ押すんですよね」
「そうだねぇ」
「聞かなきゃよかった」
善一郎の笑い声が返ってきた。
続けて二つ目、三つ目の袋を運ぶ。最後の袋を載せ終えたところで、ビンハルトが店から出てきた。
「茶葉の上には置くなよ」
「置いてません」
ビンハルトの視線が、隣の木箱へ移った。
「野菜の箱に押しつけるな」
「押しつけてません」
要は袋と箱の間を指で示したが、ビンハルトはまだ台車を見ていた。
「湿気にも気をつけろ」
「帰るだけですよね?」
「帰る間にも湿気はある」
ビンハルトがさらに言いかけたところで、店の入口から善一郎が呼んだ。
「ビンハルト、要くんに全部言ってたら、日が暮れるよ」
「豆を雑に扱われるよりましだ」
「雑には扱ってないです」
要が言うと、ビンハルトは台車をじっと確認した。
数秒後、ふん、と鼻を鳴らす。
「まあ、悪くない」
「どうも」
「次に来るまでに、豆の違いくらい覚えとけ」
「次も来るんですか」
「来ないのか?」
逆に聞き返された。
要は答えに詰まり、善一郎を見る。
「またお願いするつもりだけどねぇ」
「本人に先に言ってください」
「今言ったでしょう?」
「そういう問題じゃないです」
善一郎は笑いながら店を出た。
「じゃあ、ビンハルト。また来るよ」
「次は空の袋を持ってこい。前の分がまだ戻っとらん」
「ああ、忘れてた」
「忘れるな!」
怒鳴り声を背中に受けながら、善一郎は平然と歩き出す。
要も台車の取っ手を握った。
「……マスター」
「うん?」
「どこ行っても怒られてません?」
「そうかなぁ」
「少なくとも今日は二軒で何か言われてます」
「仲がいいってことだよ」
「便利な解釈ですね」
要が台車を押し出すと、最初の一歩から腕にずしりと負荷がかかった。コーヒー豆まで積んだせいで、重さはさっきまでとは比べものにならない。
「重……」
思わず漏れた声を拾って、善一郎が振り返る。
「頑張れ、若者」
そう言う本人は、すでに何歩か先を手ぶらで歩いている。要は台車の取っ手に体重をかけながら、その背中を見た。
「マスターも押してくださいよ」
「年寄りを働かせる気かい?」
善一郎はしれっと返して、そのまま歩みを緩めない。
「その年寄りの仕入れですよね」
今度は聞こえないふりまで始めた。要はため息をつき、重い台車を押してそのあとを追った。
市場の通りを戻る途中、あちこちから声が飛んできた。
「善一郎、もう帰るのか」
「今日は早いね」
「今度はうちにも寄っていけよ」
善一郎はそのたびに手を上げたり、短く言葉を返したりする。
名前を呼ぶ者もいれば、要を見て「あれは誰だ」と隣の者に尋ねている者もいた。
善一郎がこの町に馴染んでいることは、もう疑いようがなかった。
どこから来て、どこへ帰るのかを誰も詳しく知らない。それでも市場の人々にとっては、定期的に現れて買い物をしていく、昔からの顔馴染みなのだろう。
要は台車を押しながら、積まれた荷物を見る。
土のついた野菜。見慣れない果物。紙袋に包まれた茶葉。そして、焙煎したばかりのコーヒー豆。
全部、むすびの杜へ運ばれていく。
あの店で出される料理や飲み物は、東京のスーパーや業者だけで揃えているわけではない。
今朝までなら、そんな話を聞かされても信じなかっただろう。
けれど今は、自分の手に台車の重さがかかっている。
信じるも何もなかった。
「マスター」
「なんだい?」
「これ、毎回やってたんですか。一人で」
「そうだねぇ」
「結構大変じゃないですか」
「だから要くんが来てくれて助かってるよ」
善一郎は振り返って、にこりと笑った。
「……それ、最初から仕入れ要員として雇ったとかじゃないですよね」
「まさか」
返事が早い。
要は善一郎の顔を見た。
善一郎も笑顔のまま見返してくる。
「本当に?」
「本当、本当」
笑顔のまま繰り返されると、かえって信用しづらい。要はじっと善一郎の顔を見た。
「二回言うと怪しいんですよ」
「疑い深いねぇ」
善一郎は心外そうに言うが、これまで肝心なことを後から出してきたのは誰なのか。
「誰のせいですか」
そんなことを話しているうちに、市場の入口が見えてきた。
その先には、町へ来たときに通った道が続いている。さらに向こうには森があり、その森の中に、東京へ戻る扉がある。
朝、あの扉を抜けたときには、帰りたいとしか思っていなかった。
今も、別にここへ住みたいとは思わない。台車は重いし、知らないことばかりだし、善一郎は肝心な説明をしない。
それでも、要は一度足を止めるようにして振り返った。
市場の向こうには色とりどりの布屋根が重なり、人の声が絶えず行き交っている。どこかから焼いた肉の匂いが流れ、その奥に、さっきまでいた焙煎所のコーヒーの香りがまだかすかに残っていた。
ローエンの豪快な笑い声も、リリアの青い茶も、ビンハルトの長すぎる説明も、つい数時間前までは知らなかった。
「要くん?」
少し先から善一郎が呼ぶ。
「今行きます」
要は前を向いた。
帰ったら、今日買ったものが店の棚や厨房に並ぶのだろう。
あの青い茶も、そのうち客に出すのかもしれない。ビンハルトの豆は、明日には善一郎が挽いているかもしれない。
そう考えると、今までただの喫茶店に見えていたむすびの杜が、少しだけ違って見える気がした。
「そうだ、要くん」
「はい」
「帰ったら、さっき話したケーキを焼くけど、要くんも手伝ってくれるかい?」
善一郎が振り返った。要は台車に積んだ果物の箱へ目を向ける。
「店で出すんです?」
「まずは味見かな」
「それなら手伝います」
答えてから、要は少しだけ考えた。
朝は、異世界へ仕入れに行くなど聞いていなかった。
今は、帰ったあとのケーキの味が少し気になっている。
我ながら順応が早い気もする。
けれど、悪くはなかった。
要は重い台車の取っ手を握り直し、善一郎のあとを追って市場を出た。




