第7話 茶葉の店
市場の奥へ進むにつれて、通りに漂う匂いが少しずつ変わっていった。
ローエンの店の辺りでは、土のついた野菜や熟れた果物の匂いが強かった。こちらでは軒先から乾いた草の束が吊るされ、口の開いた麻袋や陶器の壺から、花のように甘い香りや、焦がしたような香ばしい香りが混ざり合って流れてくる。
要はその匂いの中を、台車を押して進んだ。木箱を積んだ台車は来たときとは比べものにならないほど重く、石畳の継ぎ目を越えるたびに、がたん、と腕に響く。
「マスター。茶葉の店って、ローエンさんみたいな人がやってるんですか」
少し前を歩く善一郎に声をかけると、善一郎は振り返らずに聞き返した。
「ローエンみたいな、っていうのは?」
「……ああいう、耳とか尻尾とか」
「耳はあるねぇ」
「尻尾は」
「ないねぇ」
それで説明を終えるつもりらしい。要は続きを待ったが、善一郎は露店を眺めながら、のんびりと歩いているだけだった。
この人は、聞けば答える。ただし、聞かれたことにしか答えない。
一週間一緒に働いて、要はそのことをかなり正確に理解し始めていた。
やがて善一郎は、通りから一本入った路地の手前で足を止めた。
木造の小さな店だった。間口は狭いが、入口の両脇の棚には大小のガラス瓶が隙間なく並んでいる。中に詰められているのは乾いた葉で、黒に近いもの、若草のような緑のもの、銀色の産毛をまとった細いものと、瓶ごとに色も形も違っていた。店の奥からは、湯の沸く細い音が聞こえてくる。
「ここだよ」
「茶葉の店ですか」
「正確には、作ってる本人が売ってる店かな」
善一郎は台車を入口の脇へ寄せるよう手で示し、自分は先に店へ入っていった。要は言われた通りに台車を止め、そのあとに続く。
「リリア、いるかい?」
「いるよー」
奥から、間延びした明るい声が返ってきた。
棚の向こうで何かを置く音がして、一人の女性が顔を出す。
年は要と同じか、少し上くらいに見えた。淡い金色の髪を後ろでゆるく束ねていて、その髪の間から、先の尖った長い耳が伸びている。
エルフ。
ゲームや小説で何度も見てきた姿だった。今度は誰かに説明されるより先に、要の頭にその言葉が浮かんだ。
女性――リリアは善一郎を見て顔をほころばせ、それから隣に立つ要へ視線を移した。興味深そうに、目が細くなる。
「善一郎さん、今日は連れがいるんだ」
「うちで働いてる要くん。仕入れを手伝ってもらってるんだよ」
「八神要です」
「リリア。よろしくね、要くん」
にこりと笑ってから、リリアは要の顔をまじまじと覗き込んできた。距離が近い。要が半歩引くと、リリアはそのぶん首を傾けて、さらに覗き込んでくる。
「……なんですか」
「ううん。耳、ずっと見てるなあと思って」
言われて初めて、要は自分がリリアの耳から目を離していなかったことに気づいた。
ローエンの耳と尾を見たあとだから、もう驚かないつもりでいた。ただ、驚かないことと、見慣れることは別だったらしい。
「……すみません」
「いいよ、減るものじゃないし」
リリアは自分の耳を、指先でちょいと弾いてみせた。
「そんなに珍しい?」
「実物は初めてなんで」
「そっか。じゃあ、触ってみる?」
「いや、いいです」
「遠慮しなくていいのに」
「してないです」
それからリリアは、善一郎のほうを振り向き、楽しそうに要を指さす。
「善一郎さん、この子、面白いね」
「でしょう?」
「なんで本人の前で品評するんですか」
要が抗議しても、二人とも笑っているだけだった。
仕入れそのものは、ローエンの店よりずっと静かに進んだ。
善一郎が棚の瓶をいくつか指し、リリアがそれを小さな秤で量っていく。真鍮の皿に茶葉が落ちるたび、乾いた葉の擦れる、さらさらという音がした。善一郎と話しているときはよく笑うのに、秤の針を見るときだけ、リリアの表情はすっと静かになる。量り終えた茶葉を紙袋へ移す手つきにも迷いがなく、一枚もこぼさなかった。
要は邪魔にならないよう壁際へ寄り、店の中を見回した。
そこで、一つの瓶に目が止まった。
カウンターの端、ちょうど客の目の高さに置かれた瓶だ。中の葉が、青い。
青みがかっている、という程度ではなかった。乾いて縮れているにもかかわらず、晴れた日の空をそのまま閉じ込めたような色をしている。
「それ、気になる?」
声に振り向くと、秤の前にいたはずのリリアが、いつの間にかこちらを見ていた。
「まあ」
「飲んでみる?」
「今ですか」
「今。お湯、ちょうど沸いてるし」
返事を待たずに、リリアは青い葉をひとつまみ取り、奥へ引っ込んでしまった。
「リリア、仕入れの途中なんだけどねぇ」
善一郎がのんびりと声を投げたが、奥からは「すぐだからー」と返ってくるだけだった。止める気があるようには、まるで聞こえない。
ほどなく戻ってきたリリアは、湯気の立つ小さな白いカップを要の前に置いた。
中の液体は、本当に青かった。
海の青とも、空の青とも違う。底のほうほど色が深く、縁に近づくにつれて澄んでいく、宝石を溶かしたような青だ。
「……飲み物の色じゃないですね」
「失礼だなぁ。ちゃんとお茶だよ」
リリアは頬を膨らませたが、目は笑っている。
要はカップを持ち上げた。立ちのぼる香りは、見た目から想像したよりずっと柔らかかった。花のような甘さがあり、その奥に、柑橘の皮をほんの少しだけ削ったような爽やかさが隠れている。
一口、含む。
渋みはほとんどなかった。舌に乗った瞬間はすっきりしているのに、飲み込んだあとで、蜂蜜を薄めたような甘さがゆっくりと戻ってくる。
「どう?」
リリアが身を乗り出してくる。
「……普通にうまいです」
「その『普通に』、いる?」
「見た目と違いすぎて」
「褒めるの、下手って言われない?」
「褒めてはいます」
要が真顔で答えると、リリアは堪えきれないように吹き出した。ひとしきり笑ってから、カウンターの端の瓶を指先で軽く叩く。
「冷めると、もっと甘くなるよ。この辺りの山の、上のほうでしか育たない葉でね。朝露が残ってるうちに摘むの。日が高くなってから摘むと、こんな色にならないんだ」
自分の茶の話をするときだけ、リリアの声からからかう響きが消えた。
要は手の中のカップを見下ろした。言われた通り、少し冷めた二口目は、一口目よりも甘かった。
「せっかくだから、それも少しもらおうかな」
要がカップを空けたところで、善一郎が言った。
リリアの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと? 毎度ありがとう」
その返事が、少し早すぎた気がした。
要はカップを置き、カウンターの端の瓶を見た。客の目の高さ。入口から入って、真っ先に視界に入る位置。湯は、二人が来る前からちょうどよく沸いていた。
「……最初からそのつもりでした?」
「なんのこと?」
リリアは首を傾げ、にこにこと笑う。後ろめたいことなど何一つない、という顔だった。
「マスター、これ毎回やられてるんじゃないですか」
「だいたいね」
善一郎はあっさりと認めた。
「分かってて買うんですか」
「おいしいからねぇ」
「ほら、善一郎さんは分かってる」
得意げに胸を張るリリアを見て、要はそれ以上何か言うのを諦めた。買うと決めた本人が満足しているのなら、横から口を挟む理由もない。
ただ、無邪気に見えたあの「飲んでみる?」が、どこまで無邪気だったのかは、もう分からなくなっていた。
量り終えた茶葉は、全部で四つの紙袋になった。
要はそれを抱えて店の外へ出て、台車の木箱の上へ並べていった。ローエンの店で一度教わったおかげで、今度は迷わない。茶葉は匂いを吸いやすいから、野菜の箱とは離して、いちばん上に載せる。
最後の袋の位置を整えていると、背後で戸の開く音がした。
「要くん」
振り返ると、リリアが店の入口の柱に寄りかかっていた。
「ああいうお茶、飲んだことなかった?」
「青いのは初めてです」
「ふうん」
リリアは楽しそうに、要と、その後ろに積まれた台車とを見比べた。それから、少しだけ声を落とす。
「ねえ。善一郎さんのところ、どう?」
質問の意味を、要は少し考えた。
働き始めて、まだ一週間だ。注文を取り、皿を運び、まかないのサンドイッチがやけにうまいことは知った。けれど、厨房の奥の扉の先にこんな町があることは、今朝まで知らなかった。店主が何を考えているのかも、相変わらずよく分からない。それで何か言えるほど、まだ何も分かっていない。
「……まだ分かんないです。働き始めたばっかりなんで」
正直に答えると、リリアは一瞬きょとんとして、それからくすくすと笑った。
「そっか。そうだよね」
「要くん、行くよ」
店から出てきた善一郎が、台車の脇を通り過ぎていく。要は取っ手を握り直した。
「じゃあ、帰ります」
「うん。またね、要くん」
ひらひらと手を振るリリアに軽く頭を下げて、要は台車を押し出した。
ローエンの店を出たときより、明らかに重い。茶葉の袋そのものは軽いはずだから、たぶん腕のほうが先に疲れてきたのだろう。
数歩進んだところで、要はなんとなく後ろを振り返った。
リリアは、まだ入口に立っていた。
ただ、もう手は振っていなかった。
柱に寄りかかったまま、要たちのほうではなく、市場の屋根の向こうに広がる空を見上げている。さっきまでの笑顔はなかった。唇を小さく結んで、どこか寂しそうな顔をしていた。
人懐っこく笑っていた人と、同じ顔には見えなかった。
やがてリリアの視線が下りてきて、要の目とぶつかる。
次の瞬間には、もういつもの笑顔に戻っていた。リリアは何事もなかったように、大きく手を振ってくる。
要は小さく会釈を返し、前を向いた。
「マスター」
「うん?」
「リリアさんって、どういう人なんですか」
善一郎は市場の人波を眺めたまま、のんびりと答えた。
「いい子だよ。お茶のことになると、ちょっとうるさいけどねぇ」
「ちょっと、ですか」
「ちょっと」
あれでちょっとなら、本気を出したらどうなるのか。要は試飲の一件を思い出し、それ以上は聞かないことにした。
人懐っこくて、すぐにからかってくる。自分の茶の話をするときは楽しそうで、商売となると抜け目がない。善一郎の言う通り、いい人なのだろうと思う。
ただ、さっき空を見上げていたあの顔だけは、そのどれにも当てはまらなかった。
台車の車輪が、石畳の継ぎ目でがたんと鳴った。善一郎は機嫌よく歩いている。要はもう一度だけ肩越しに後ろを見た。
人波の向こうで、茶葉の店の小さな軒先が、もう見えなくなりかけていた。
あのとき、あの人はどうしてあんな顔をしていたのだろう。




