第10話 いつもの朝、少し違う店
週明けの月曜日、要は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。まだ起きる予定の十分前だ。二度寝するには短く、起きるには微妙に惜しい。
要はしばらく天井を見ていたが、結局そのまま起き上がった。
一昨日は一日が長かった。
厨房の奥の扉を抜け、森を歩き、市場へ行った。獣人のローエンから野菜と果物を買い、エルフのリリアの店で青い茶を飲み、ドワーフのビンハルトが焙煎するコーヒー豆を見た。
帰ってからは、仕入れたルーメの実でケーキまで焼いてもらった。
改めて並べると、夢だったと言われたほうが納得しやすい。
けれど、一昨日台車を押し続けた腕には、薄く疲れが残っている。
「……夢じゃないか」
独り言を落として、要はベッドから降りた。
大学へ行く支度を済ませて部屋を出た。一階へ下り、エントランスへ向かう途中でコーヒーの香りがした。
足が止まる。
一昨日までなら、ここで店が開いていることを確認して、そのまま通り過ぎていたかもしれない。
今は香りを嗅いだ瞬間、ビンハルトの焙煎所が頭に浮かんだ。
火の前で回り続ける金属の筒の中から、ぱち、と豆の鳴る小さな音がしていた。
――色だけ見て焼く奴は三流だ。音を聞け。匂いを嗅げ。煙を見ろ。
聞いてもいないのに始まった長い説明まで、妙にはっきり思い出せる。
喫茶店の入口を見ると、まだ開店前らしく、札は「準備中」のままだった。要は少し迷ってから、扉を開けた。
「おはようございます」
「おや」
カウンターの向こうにいた善一郎が顔を上げた。
「おはよう、要くん。今日は大学じゃなかったかい?」
「大学です」
「じゃあ、どうしたんだい」
「別に。コーヒーの匂いしたんで」
答えてから、自分でも理由として弱いと思った。
善一郎は何も言わず、にこにこと笑っている。
「なんですか」
「いやぁ、別に」
「その顔で言われても信用できないです」
要が眉を寄せても、善一郎の笑みは変わらなかった。
「僕は何も言ってないでしょう?」
それはそうなのだが、何か言われるより腹が立つ。
カウンターへ近づくと、善一郎の前に挽く前の豆が置かれていた。
「一昨日のですか」
「そうだよ。ビンハルトのところで買った深煎り」
要は豆へ目を落とした。一昨日までなら、焦げ茶色の豆、としか思わなかっただろう。
今も見ただけで産地や焙煎の違いが分かるわけではない。ただ、この状態になる前にビンハルトが火の前に立っていたことは知っている。
「飲んでいくかい?」
善一郎が聞いた。
要は時計を見た。大学へ向かうまで、まだ少し余裕がある。
「じゃあ、一杯だけ」
要がカウンター席へ座ると、善一郎は豆を挽き始めた。ごりごりという音が店内に響く。
一昨日までも何度か聞いた音だった。それなのに、今日は妙に耳に残った。
「マスター」
善一郎は豆を挽く手を動かしながら、要へ目を向けた。
「うん?」
「ビンハルトさんって、毎回あんな感じなんですか」
「あんな感じ、とは?」
「コーヒーの話になると急に止まらなくなるやつです」
「だいたいねぇ」
要はカウンターへ肘をついた。店で客全員を相手にあの説明を始めたら、焙煎する時間がなくなりそうだった。
「客にも?」
「相手によるかな。興味がなさそうなら、さすがにあそこまでは話さないよ」
「俺、興味ありそうに見えました?」
「見えたんじゃないかい?」
要は焙煎所での自分を思い返した。機械を眺めていたし、音についても聞き返した。香りが変わるのも気になっていた。
「……まあ、ちょっとは」
「じゃあ、ビンハルトの見る目は正しかったわけだ」
「調子に乗るから本人には言わないでください」
善一郎は挽いた粉をドリッパーへ移しながら、口元を緩めた。
「次に会ったら伝えておくよ」
「なんでですか」
善一郎が楽しそうに笑いながら湯を注ぐと、ふくらんだ粉から香りが立った。要は無意識に鼻から息を吸う。
一昨日、焙煎所で嗅いだ香りとは違う。あちらは店全体を満たすほど濃く、熱や煙の匂いまで混ざっていた。こちらはもっと穏やかで、湯気と一緒にまとまって上がってくる。
同じ豆でも、場所が変わればずいぶん印象が違う。
「はい、どうぞ」
カップが置かれた。
「ありがとうございます」
要はカップを持ち上げ、一口飲んだ。苦みのあとに、わずかな甘さが残る。
一昨日までにも、まかないのついでに善一郎のコーヒーを飲んだことはある。味が急に変わったわけではないはずなのに、今日は少しだけ違って感じた。
「どうだい?」
「うまいです」
「それだけ?」
「リリアさんみたいなこと言わないでください」
試飲のときにも同じように聞かれた。要はカップへ視線を落としたが、善一郎は答えを待っている。
「感想は大事だよ」
「じゃあ……一昨日より、なんか分かる気がします」
「何が?」
「それが分からないです」
善一郎が吹き出した。
「そこ笑うところですか」
「いや、ごめんごめん。でも、それでいいんじゃないかな」
「適当ですね」
「最初から全部分かったら、ビンハルトが何十年も焙煎してる意味がないでしょう?」
それを言われると、確かにそうだった。
要はもう一口飲んだ。何がどう違うのか説明できるほど詳しくはないが、この一杯ができるまでにあるものを、一昨日までより少し知っている。今はそれだけでもいいのかもしれなかった。
時計を見ると、そろそろ出たほうがいい時間になっていた。
「ごちそうさまでした」
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
店を出て数歩歩いたところで、要は止まった。自然に「行ってきます」と言ったことに、今さら気づく。
振り返ると、ガラス越しに、善一郎がカウンターの中で開店準備を続けているのが見えた。
「……まあ、いいか」
要は前を向き、大学へ向かった。
◇
午前の講義を終えたところで、康平が隣から顔を覗き込んできた。
「要、お前今日ちょっと機嫌よくない?」
「変わんないけど」
「いや、なんか違う」
要はノートへ視線を戻した。
「朝から面倒くさいな」
「ほら、その言い方はいつも通り」
「じゃあ何が違うんだよ」
康平は要の顔をもう一度見て、首を傾げた。
「それが分からん」
「分からないなら言うなよ」
要がノートを閉じると、前の席にいた千織が振り返った。
「康平くんの感覚だから、たぶん当てにならないよ」
「ひどくない?」
康平の抗議を聞き流し、千織は要へ顔を向けた。
「でも要くん、土曜日もバイトだったんでしょ?」
「まあ」
「どうだった?」
聞かれて、要は一瞬言葉に詰まった。異世界へ行って、獣人とエルフとドワーフに会ってきたとは言えない。二人に話せることを考えてから答えた。
「仕入れ手伝ってた」
嘘ではない。
「へえ。喫茶店って、バイトも仕入れに行くんだ」
康平が言う。
「店によるんじゃない?」
「どこまで行ったの?」
千織の質問に、要はほんの一瞬止まった。
森を抜けて、異世界の市場町まで。それが正しい答えだが、口にはできなかった。
「ちょっと遠く」
「雑だなぁ」
「説明すんの面倒なんだよ」
千織は少し呆れたように笑った。
「要くんらしいけど」
千織がそれ以上追及しなかったので、要は内心で少しだけ息をついた。
秘密を抱えるというほど大げさな感覚は、まだなかった。ただ、一昨日見たものを二人には話せない。その事実だけが、大学で過ごしていると妙にくっきりした。
「そういえばさ」
康平が机に肘をついた。
「この前の店、また行っていい?」
「むすびの杜?」
「そう。コーヒーうまかったし」
「俺も働いてるけど、普通に客として来ればいいだろ」
康平は机から肘を離し、椅子へ座り直した。
「じゃあ今日行こうぜ」
「急だな」
要が言っても、康平はもう千織のほうを見ていた。
「千織も行くだろ?」
「今日は行けるよ」
千織が答える。
二人の視線が要へ向いた。
「なんで俺の許可待ちみたいになってるんだよ」
「バイト先だから?」
「店は俺のじゃない」
康平は満足そうに頷いた。
「じゃあ決まりな」
要は断る理由を探したが、特になかった。
「……好きにすれば」
そう答えながら、ふと朝のコーヒーを思い出す。
康平と千織が飲む一杯にも、一昨日見た市場やビンハルトの焙煎所がつながっている。
二人はそれを知らない。同じ店のコーヒーを飲んでいても、自分だけがその先を知っているのは、少し妙だった。
「要くん?」
千織に呼ばれ、要は顔を上げた。
「何?」
「今、ちょっと笑ってた」
「笑ってない」
康平まで身を乗り出し、要の顔を覗き込んだ。
「いや、笑ってたぞ」
「気のせい」
「怪しいなぁ」
「うるさい」
要は立ち上がり、二人より先に教室を出た。背後から康平の声が追いかけてくる。
「講義終わったら、店な!」
返事はしなかったが、午後の講義が終わったら二人と店へ行くつもりでいた。
いつもと同じ大学の廊下を歩きながら、要は考えた。異世界のことを知っても、大学も二人も変わらない。変わったのは、自分の知っていることのほうだ。
今日、二人はまた、何も知らずにむすびの杜の扉を開ける。そのとき自分が、あの店を一昨日までと同じように見られるのか、少し気になった。
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