第11話 縁を見る客
午後の講義が終わると、康平は鞄を肩に引っかけながら、待ってましたとばかりに立ち上がった。
「よし。行くか」
「何をそんなに楽しみにしてるんだよ」
要が席を立つ横で、千織もノートを鞄にしまう。
「そりゃケーキだろ。前に食ったやつ、普通にうまかったし」
「普通に、は余計じゃない?」
「褒めてるって」
「その言い方で?」
二人のやり取りを聞きながら、要は教室を出た。
自分が切ったルーメの実を、今日は二人も食べる。感想を聞いてみたい気もしたが、手伝っただけの自分が先に説明するのは、少し気恥ずかしかった。
「要、何ぼーっとしてんだ?」
「別に」
「腹減ったなら急ごうぜ」
「お前と一緒にするな」
「俺は減ってる」
「聞いてない」
駅へ向かう人の流れに混じりながら、三人は大学を出た。
むすびの杜へ着いたのは、それからしばらくしてからだった。
扉を開けると、いつものベルが鳴る。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから善一郎が顔を上げた。
「お、今日は三人揃ってるねぇ」
「また来ました」
千織が軽く頭を下げる。
「マスター、ケーキあります?」
「康平、お前それが最初かよ」
「大事だろ」
「あるよ。今日はちょうどいいのがね」
善一郎が楽しそうに笑った。
要は一瞬、厨房のほうを見る。
一昨日焼いたルーメの実のケーキが頭に浮かんだ。
「一昨日の?」
「そうそう。味も落ち着いてる頃だよ」
康平が要を見る。
「一昨日のって、お前もう食ったのか?」
「味見した」
「ずるくない?」
「働いてるんだから、そのくらいあるだろ」
「要くんも手伝ってくれたからねぇ」
善一郎がそう付け足すと、千織が少し目を丸くした。
「要くんがケーキ作ったの?」
「切っただけ」
「実をね」
「マスター、余計な説明いらないです」
「いいじゃないか。立派な仕事だよ」
善一郎が笑いながら厨房へ入っていく。
三人は前に来たときと同じテーブルへ向かった。
そこで要は、ようやく先客がいることに気づいた。
窓際の席に、一人の男が座っている。
年齢は四十代くらいに見えた。薄い色のシャツに濃紺の上着という、ごく普通の格好だ。特別目立つところはない。駅や大学の近くですれ違っても、たぶん覚えていないだろう。
ただ、その男はコーヒーを飲むでもなく、窓の外を見るでもなく、こちらを眺めていた。
正確には、康平と千織を。
要は椅子を引きながら、わずかに眉を寄せた。
「……知り合い?」
「誰が?」
康平が座りながら聞き返す。
「いや」
要はそれ以上言わず、席についた。
男も視線を外したので、気のせいだったのかもしれない。
ほどなくして善一郎が水を運んできた。
「注文は?」
「ケーキとコーヒー」
康平が即答する。
「俺も同じで」
「私は紅茶にしようかな。ケーキは食べる」
「はいはい。少し待っててね」
善一郎が注文を取り終え、窓際へ視線を向ける。
「大国さん、おかわりは?」
「もらおうか」
男が答えた。
やはり顔馴染みらしい。
善一郎は空になっていたカップを持って厨房へ戻る。ほどなくして、おかわりのコーヒーを窓際へ運び、今度は三人の注文を用意しに戻っていった。
「常連かな」
千織が小さな声で言った。
「たぶん」
要もそれしか答えようがない。
自分が働き始めてから見たことはないが、善一郎の知り合いが多いことは一昨日一日で嫌というほど分かった。
「一昨日、仕入れに行ったんだろ?」
康平が水を一口飲んでから言った。
「行った」
「それでケーキまで作ったの?」
千織が聞く。
「帰ってから。買ってきた果物で」
「果物?」
「うん」
「何の?」
要は一瞬黙った。
ルーメの実。
当然、日本のスーパーには売っていない。
「……マスターに聞いて」
「なんでそこで丸投げするのよ」
「俺も説明できないから」
これは本当だった。
ルーメの実がどこでどう育つのかまで、要は知らない。
「何それ」
千織は笑ったが、それ以上追及はしなかった。
要は水を一口飲む。
危なかった、というほどではない。
ただ、これからこういうことが増えるのかもしれないと思った。
店で出すものの中には、異世界から仕入れたものがある。康平や千織がそれを口にすれば、当然、何なのか聞くこともあるだろう。
善一郎はその辺をどう説明しているのだろう。
今度聞いておこう。
「なるほどな」
不意に、窓際から声がした。
三人がそちらを見る。
さっきの男が、こちらを見ていた。
「……何がですか?」
康平が戸惑いながら尋ねる。
男は立ち上がると、コーヒーカップを片手にこちらへ歩いてきた。
「いや、邪魔をするつもりはなかったんだが」
「……何か用ですか」
要は男を見上げた。さっきから二人を眺めていた理由が分からず、声をかけられても何を話せばいいのか困る。
ちょうどケーキを運んできた善一郎が、困ったように眉を下げる。
「大国さん。若い子をからかっちゃ駄目だよ」
「からかってはいない」
「じゃあ、何してるんですか」
「見ていた」
「それを普通は怪しいって言うんですよ」
要が返すと、康平が横で吹き出した。
千織は笑いをこらえるように口元へ手を当てている。
男――大国は気にした様子もなく、康平と千織を交互に見た。
「なかなかいい縁だと思ってな」
「縁?」
千織が首を傾げる。
「二人のことだ」
大国はあっさり言った。
康平と千織が同時に止まった。
「……俺ら?」
「ああ」
「何の話ですか?」
「縁の話だが」
「いや、それは分かりますけど」
康平が珍しく言葉に詰まる。
千織は大国を見たあと、隣の康平を見て、すぐに視線を戻した。
「占い師さんですか?」
「いや。そういう商売はしていない」
男が答えると、千織は少し困ったように善一郎を見た。
「大国さんは、人の縁が気になるんだよ。僕とも長い付き合いでねぇ」
善一郎はケーキの皿を並べながら言った。康平は皿へ目を落としたが、千織はまだ男のほうを見ていた。
「見ただけで分かるんですか?」
「分かることもある。ただ、見えたから決まるものでもない」
大国は手元のコーヒーを一口飲んでから続けた。
「育つこともあれば、離れることもある。本人たち次第だ」
「……占いより曖昧ですね」
「人の縁なんてそんなものだ」
千織は隣の康平へ一瞬目を向け、フォークを手に取った。康平も何か言いかけたが、結局ケーキの皿を自分のほうへ寄せただけだった。
それから、大国はふと要へ顔を向ける。
「お前は」
「俺はいいです」
要は先に断った。二人の様子を見ていたら、自分まで話の種にされるのは遠慮したかった。
「まだ何も言っていないぞ」
「なんとなく嫌な予感がするんで」
「まだ縁がないな」
「聞いてないって言ったでしょう」
康平が声を上げて笑った。
「要、ないってよ」
「うるさい」
要が目を向けても、康平は笑いを引っ込めなかった。
「お前、さっきは何の話か分かってなかっただろ」
「そこはそれ、面白いところだけ採用する」
「最悪だな」
千織は口元を緩めながらも、大国へ視線を戻した。さっき自分と康平に向けられた言葉も、同じ調子で受け流していいものか、まだ測りかねているようだった。
善一郎はいったん厨房へ戻り、コーヒー二杯と千織の紅茶を運んできた。カップから上がる香りに、要はようやく、ケーキを食べに来たのだったと思い出す。
要はフォークを取り、目の前のケーキに刺した。
「食べよう。コーヒー冷める」
「逃げた」
「逃げてない」
口に入れると、一昨日より生地と果実が馴染んでいた。
ルーメの実の甘さのあとに、柑橘に似た酸味が残る。一昨日焼きたてを食べたときとは少し違う。
「これ、うまいな」
康平が一口目で言った。
「何の果物なんだ、これ」
来た。
要は黙って善一郎を見る。
「ルーメの実っていうんだよ」
善一郎は普通に答えた。
「ルーメ?」
「聞いたことない」
千織がケーキの上の果肉を見る。
「珍しい品種なんですか?」
「まあ、珍しいねぇ。この辺じゃまず見ないかな」
「どこで買えるんです?」
「仕入れ先は秘密」
善一郎はにこりと笑った。
「企業秘密ってやつだね」
「喫茶店で企業秘密って言われると急に怪しいな」
康平が言う。
「おいしいならいいじゃない」
千織はもう一口食べた。
「リンゴっぽいけど、もっと酸味がある。香りはちょっと柑橘っぽいかも」
要は千織を見る。
一昨日、自分が生で食べたときに感じたのと近い。
やはり、こういうところにはよく気づく。
「要くん、何?」
「いや。よく分かるなと思って」
「食べれば分かるでしょ、このくらい」
「俺はうまいしか分からん」
「康平くんはもう少し味わって食べなさい」
「味わってるって」
大国はそのやり取りをしばらく眺めたあと、カップを手に窓際の席へ戻った。腰を下ろし、三人の会話を聞きながらコーヒーを飲む。
善一郎も、特に説明を加えることなくカウンターへ戻っていく。
要はケーキを食べながら、店内を見回した。
外から見れば、普通の喫茶店だ。
大学生が三人でケーキを食べている。窓際では中年の男がコーヒーを飲んでいる。店主はカウンターの向こうで食器を片づけている。
ただ、そのケーキの果物は一昨日まで自分が存在すら知らなかった世界から来たもので、窓際の男は、人の縁が分かると言う。
要がケーキを食べ終える頃には、大国もカップを空にしていた。カウンターへ運んでいく姿を見て、要も自分の皿とカップを持って席を立つ。
「置いとけばいいのに」
康平に言われたが、カウンターまで数歩だった。
「ついでだから」
背後では、千織が康平にケーキの感想を尋ねていた。要は善一郎に皿を渡し、隣でカップを置いた大国へ目を向ける。
「マスターの昔からの知り合いなんですか」
「そうだな。長い付き合いだ」
善一郎が身を寄せ、要にだけ聞こえる声で付け加えた。
「この方、大国主っていうんだよ」
オオクニヌシ。どこかで聞いたことがあるような気はしたが、何の名前だったかは思い出せなかった。要は隣の男を見た。
「……大国さんじゃなくて?」
「そう呼ぶこともあるけどね。神様だよ。二人には内緒ね」
要は善一郎へ顔を戻した。
「……神様?」
聞き返す声が少し上がり、要はテーブルを振り返った。康平と千織はまだケーキの話をしている。こちらへ目を向ける様子はなかった。
「そうだよ」
善一郎は声を抑えたまま答え、重ねた皿をカウンターの内側へ置いた。いつもの軽い調子で、冗談なのかどうかが分からない。
要はもう一度、男の顔を見た。さっきまで友人二人の縁を話していた、普通の中年男性だ。目が合うと、男はわずかに首を傾げた。
「そんなに見ても、顔は変わらんぞ」
「いや……急に言われても」
要も声を落とした。神様だと紹介されたとき、どう返せばいいのかなど考えたこともなかった。
一昨日なら、冗談だと思って終わったはずだ。けれど、厨房の奥の扉から森へ出て、獣人やエルフと話したのは自分だった。そんなものはいない、と言い切るには、一昨日見たものがまだ鮮明すぎる。
それでも、目の前の男が神様だという話まで、すぐに飲み込めるわけではない。
何か聞こうとして、要は口を閉じた。どこから確かめればいいのか分からず、視線だけがカウンターの上へ落ちる。空のカップには、飲み終えたコーヒーがわずかに残っていた。
「……神様も、普通に注文するんですね」
「どういう意味だ?」
大国主様も声を抑えて聞き返した。
「いや。マスターがおかわりを聞いてたんで」
神様と言われても、さっきまでのやり取りは喫茶店の客そのものだった。
「神だって、もう一杯飲みたくなることはある」
「それは、まあ……そうですね」
大国主様は要を見て、口元を緩めた。
「善一郎。面白い子を雇ったな」
善一郎はカウンターの内側で笑った。要には、今のどこが面白かったのか分からない。
テーブルから康平の声がした。
「要、戻ってこいよ。千織が味の説明しろって」
「うまい以外もあるでしょう?」
千織が言い返す。二人には、カウンターで交わした話は聞こえていないらしい。
要は席へ戻り、改めて窓際へ向かう大国主様を見た。二人にとっては、縁の話をする少し変わった常連客のままだ。自分だけが、また一つ余計なことを知ってしまった。
普通とは何なのか、だんだん分からなくなってきた。
「要」
大国主様が呼ぶ。
「今度は何ですか」
「そう警戒するな」
「聞いてないことを言うからでしょう」
「では、聞いてから答えよう」
「何をです?」
大国主様は少しだけ笑った。
「お前、一昨日向こうへ行ったな?」
要の手が止まった。
康平と千織には、その言葉の意味が分からなかったらしい。
「向こう?」
康平が聞き返す。
要は大国主様を見た。
善一郎も、カウンターの向こうからこちらを見ている。
大国主様は何でもないことのように、椅子の背へ身を預けた。
「……何の話ですか」
要が聞く。
「さてな」
「自分から言ったでしょう」
「続きは善一郎に聞け」
「そこでマスターに振るんですか」
善一郎が苦笑した。
「僕に振らないでほしいんだけどねぇ」
「マスター。この人、いつもこうなんですか」
「だいたいね」
善一郎は苦笑したまま、窓際へ目を向けた。大国主様は要の問いには答えずにくつろいでいる。
要は聞きたいことを飲み込み、テーブルの上で手を組んだ。友人二人の前で、一昨日の仕入れについて詳しく尋ねるわけにもいかなかった。
康平と千織はまだ事情が分からない顔をしている。
要も分かっていない。
少なくとも、日本側にも、あの扉の向こうを知る者がほかにいるらしい。要には、大国主様の言う「向こう」が一昨日の市場町を指しているように聞こえた。
裏口が異世界につながっているだけでも、十分おかしな店だった。
そのうえ、神様まで客として来る。
この店には、まだ自分の知らないことがどれだけあるのだろう。
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