第12話 客に聞かれたら
千織がスマートフォンで時刻を確かめるまで、康平はケーキの果物について話していた。
「でも、ルーメって名前は覚えたぞ」
「名前だけじゃなくて、味も覚えて帰りなさいよ」
千織は鞄を膝へ引き寄せた。康平もつられて時計を見て、椅子の背に掛けていた上着を取る。
「もうこんな時間か。要、どうする?」
「俺はもうちょっといる」
答えると、二人の視線がカウンターへ向かった。要が皿を運んだこともあって、仕事を手伝うと思ったのかもしれない。
「じゃあ、また大学でね」
千織が立ち上がり、康平も残っていたコーヒーを飲み干した。要は二人と一緒に会計を済ませたあと、自分だけ席へ戻る。
出ていく途中、康平が窓際に顔を向けた。
「どうも。お邪魔しました」
「また来るといい」
大国主様が応じる。千織も軽く会釈をして、康平のあとに続いた。入口のベルが鳴り、ガラス越しに見えていた二人の姿が通りの人に混じっていく。
要はしばらく扉を見ていた。
二人には、本当にただの常連客なのだ。縁について妙なことを言われたとしても、明日の講義まで引きずるほどではないだろう。
自分も同じように帰れたら楽だった。
「聞きたいことがあるんだろう?」
窓際から声がした。大国主様は、要がまだ何も言っていないうちに立ち上がっている。
「……あるんですけど」
「では、善一郎に聞け」
要は男を見上げた。さっきもそう言われたばかりだったが、今度は本当に帰るらしい。大国主様は上着を整えながらカウンターへ歩き、善一郎と会計を済ませる。
「次はケーキもどうぞ。このケーキは要くんが手伝ってくれたんだよ」
「それは聞いた。次にあるなら、もらおう」
大国主様は入口へ向かい、途中で要に目を向けた。
「友人のことは、お前が気を回す話ではないぞ」
「分かってます」
そもそも何かするつもりはなかった。康平と千織がどう思っているのかさえ知らないのに、余計なことを言えば、面倒になるだけだ。
大国主様は頷き、そのまま扉を開けた。
ベルが鳴る。外へ出た男は、通りを歩いていった。要は椅子に座ったまま、その姿が窓の端から見えなくなるまで目で追った。
消えたり、光ったりはしなかった。
それを少し期待していた自分に気づき、要は視線を戻す。
「どうしたんだい?」
善一郎がテーブルへ来て、康平と千織の使った食器を盆へ載せた。
「普通に帰るんだなと思って」
「そりゃ、表から来たお客さんだからねぇ」
要は椅子を引いて立ち、千織の皿を盆へ載せるのを手伝った。そのまま善一郎についてカウンターへ行く。ほかに客はいなかったので、今なら声を落とす必要もなかった。
「さっきの、向こうって」
「一昨日の市場のことだよ」
善一郎の答えは、あっさりしていた。
要はカウンター席の背へ手を掛けた。やはりそうだった。分かったところで、疑問が減った感じはしない。
「あの人、あっちのことも知ってるんですか」
「うん。知ってるよ」
「俺が一昨日行ったことも?」
「それは僕が話した。要くんが来る前に、一昨日は新しいバイトの子と仕入れに行ったってね」
要は善一郎を見る。善一郎は盆からカップを下ろし、流しの脇へ並べていた。
見ただけで分かったのかと思っていた。康平と千織の縁が分かると言うくらいなのだから、ほかにも何か見えているのかもしれないと、勝手に考えていたのだ。
「……先にそれ言ってくださいよ」
「聞かれたのは今だからねぇ」
「大国さんが言ったときに」
「二人がいたでしょう?」
それを言われると、要も返す言葉がなかった。自分だって、二人の前では詳しく聞けなかった。
善一郎は流しの水を出した。カップに残っていたコーヒーが、水と一緒に流れていく。
「大国さんが知ってるのは、僕から聞いたから。それはそれとして、向こうの世界のことも知ってる。そこは分けて考えていいよ」
要は空いていた椅子へ座った。
ひとつは、普通に話を聞いて知ったこと。もうひとつは、まだ説明されていないこと。全部まとめて神様だから分かるのだと思いかけていたが、そういう話でもないらしい。
「マスターとは、どういう知り合いなんですか」
「長い付き合いだよ」
「それはさっき聞きました」
善一郎は洗ったカップを水切りへ伏せながら、少しだけ考えた。
「店のことを知ってくれている方、かな。もちろん、裏口のことも含めてね」
要は厨房の奥へ目を向けた。ここからは扉そのものは見えないが、一昨日そこを通ったときの光景は覚えている。
店のことを知る神様。仕入れの話をする店主。
その二つが同じカウンターで並ぶのが、まだうまく飲み込めなかった。
「ほかにも来るんですか。神様」
「来ることはあるよ」
善一郎は水を止め、布巾で手を拭いた。
「ただ、みんながみんな、名前を言って入ってくるわけじゃない。要くんが一人ずつ確かめて回る必要もないからね」
「そんなことしませんけど」
知らない客に、あなたは神様ですか、と聞く自分を想像してしまった。聞かれたほうも困るだろうし、普通の人なら次から来なくなるかもしれない。
要はカウンターの木目へ視線を落とした。
「……でも、知らないまま注文取ってていいんですか」
客として来るのなら、いずれ自分が対応することもある。今は善一郎が教えてくれたが、そのたびに教えてもらえるとは限らない。
「何か、気をつけることとか」
善一郎は布巾を置き、要の顔を見た。
「まずは、注文をちゃんと聞いてくれればいいよ。分からないことを聞かれたら、僕に確認する。今日、果物のことを聞かれたときと同じだね」
「それでいいんですか」
「大国さんにも、僕が淹れたコーヒーを飲んでもらったでしょう? 特別なものを別に用意したわけじゃないよ」
確かに、善一郎は普通におかわりを聞いていた。カップも、要たちが使っていたものと同じだった。
要が考えている間に、善一郎は水差しからグラスへ水を注いで、目の前に置いた。
「気になることがあったら、聞いてくれればいい。分からないまま、要くんが適当に決めなくていいんだから」
要はグラスへ手を伸ばした。
注文を聞いて、分からなければ善一郎を呼ぶ。それなら、自分にもできそうだった。
「じゃあ、もう一個いいですか」
水を飲んでから、要は尋ねた。
「ルーメの実って、客に聞かれたら何て言えばいいんですか。どこで採れるとか、どこで買えるとか」
康平には善一郎が答えてくれた。自分が注文を取っているときにも、同じことを聞かれるかもしれない。
善一郎はグラスの脇へ目を向け、それから要に笑いかけた。
「名前と味は、そのまま答えていいよ。産地や仕入れ先のことまで聞かれたら、僕に聞いてくれればいい」
「マスターは何て答えるんですか」
善一郎の笑みが少し深くなった。
「企業秘密です、ってね」
要は善一郎を見た。さっき康平にも、同じことを言っていた。
「……また言うんですね、それ」
「便利な言葉でしょう?」
要はグラスを置いた。自分で辻褄の合う産地を考える必要はないらしい。詳しいことを聞かれたら、善一郎に任せればいい。
「じゃあ、味の説明は俺がしていいんですね」
「もちろん。食べてみてどうだったかは、要くんにも分かるでしょう?」
善一郎が厨房へ目を向けた。
「ちょっと待ってね」
奥へ引っ込んだあと、皿に載せた小さなケーキの切れ端を持って戻ってくる。要はその皿を見た。
「さっき食べましたけど」
「これは端のところ。まだあるけど、食べるかい?」
断るほど満腹でもなかった。要が頷くと、善一郎はフォークを添えて皿を置いた。
「今度は、説明するつもりで食べてごらん」
要は切れ端を口へ運んだ。外側は少し締まっていて、さっき食べた中央の生地より、焼けた香りが強い。噛むと果肉のやわらかさが混じり、甘さのあとに酸味が残った。
千織が言ったことを思い出す。
「リンゴっぽい甘さで、ちょっと酸っぱい。あと、柑橘みたいな匂いがします」
「うん。さっき千織ちゃんも言ってたね」
「聞いてたんですか」
「僕もあのテーブルにいたでしょう?」
要はフォークを止めた。それはそうだった。善一郎にしか話せないことが増えたせいで、何でも自分だけが覚えているような気になっていた。
「でも、それなら十分伝わると思うよ」
善一郎はカウンターの上へ肘をつかず、向かいに立ったまま皿を見ている。
「酸っぱいのが苦手なお客さんに聞かれたら?」
要は残りの切れ端を見た。さっきの感想を、そのまま言えばいいというわけでもないらしい。
「……果物の酸味はあります。でも、ケーキ全体だと、そこまで強くないです」
言いながらもう一口食べた。甘い生地と一緒なら、果肉だけを食べたときほど酸味は前に出てこない。
「生で食べたときより、やわらかい味です」
「そうだね。そこは、一昨日も今日も食べた要くんだから言えるねぇ」
善一郎は皿の脇へ視線を落とした。
要もつられて見ると、切れ端はもう残っていなかった。
「説明してるうちに食べ終わりました」
「今の説明なら、ケーキがないときにもできるんじゃないかい?」
「毎回食べろって言われたら困ります」
要はフォークを皿へ置いた。さっきまで、客に聞かれたら善一郎へ任せればいいと思っていた。仕入れ先の話はそうするしかないが、味については自分で答えられる。
一昨日買った果物を、一昨日切って、今日友人が食べた。そのあとで、ようやく客に説明する言葉になった。
善一郎が皿を引き取ろうとしたので、要は手を添えて止めた。
「これ、自分で洗います」
「今日はお客さんなのに?」
「さっきから運んでますし」
カウンターの内側へ回り、皿とフォークを流しへ置く。水を出すと、指先に残っていたケーキの甘い匂いが薄れていった。
洗い終わった皿を水切りへ置いたところで、要は厨房の棚を見た。一昨日仕入れたものが、この店で使うものとして収まっている。あちらでは商人が売っていた品が、ここでは客の注文になる。
「マスター」
振り返ると、善一郎はテーブルを拭いていた。
「次の仕入れのとき、リリアさんに聞いてもいいですか」
「何を?」
「あの青い茶の名前です。あと、淹れるときに何か気をつけることがあるのかも。味は覚えてるんですけど、運ぶだけだと、そこまでは分からないんで」
善一郎は布巾を持ったまま顔を上げた。
「もちろん。きっと喜ぶよ」
要は、一昨日のリリアを思い出した。感想を求めて顔を覗き込んできた、あの距離の近さも。
「……長くなりますかね」
「要くんがどれだけ聞くかによるんじゃないかな」
それも少し面倒だったが、何も分からずに運ぶよりはいい。
要は手を拭き、厨房の奥へ目を向けた。一昨日は善一郎についていくことしか考えていなかった扉の向こうに、今度は自分から聞きたいことが一つできていた。




