第13話 ついてくる猫
翌日の講義が終わる頃には、要はノートの端に書いた「茶の名前」という四文字を忘れかけていた。
鞄へしまう前にそれが目に入り、昨日の善一郎との話を思い出す。次に仕入れへ行ったらリリアに聞く。そのつもりで書いておいたものだったが、講義の板書の横にあると、何の課題なのか分からない。
「要、今日バイト?」
隣で鞄を閉じていた康平が尋ねた。
「うん」
「じゃあ、あのケーキまだあるか見といて」
要は顔を上げた。昨日食べたばかりなのに、もう次の話をしている。
「食べたいなら自分で来れば」
「今日は無理なんだよ。残ってるかだけ」
「俺が行く頃にあっても、お前が来るときにあるとは限らないだろ」
康平は一瞬考え、それもそうか、と頷いた。前で二人を待っていた千織が、呆れたように肩を下げる。
「次に何があるか楽しみにすればいいじゃない」
「それはそれ。もう一回食いたいのもある」
要はノートを鞄へ入れた。昨日、自分が切った果物を二人が食べていた光景が浮かぶ。もう一度食べたいと言われるのは、思っていたほど悪い気分ではなかった。
三人で大学を出て、途中で別れた。康平と千織は駅へ向かい、要は店へ戻る道を歩く。
大通りから一本入ると、車の音が少し遠くなった。建物の陰に残った空気は、日なたより涼しい。要は肩の鞄を掛け直しながら、歩道の端へ目を向けた。
猫がいた。
塀のそばに座り、こちらを見ている。特に鳴くでもなく、身を縮めるでもない。要が視線を向けたときには、もう猫のほうが見ていた。
目が合う。
要は二、三歩進んでから、なんとなく振り返った。猫は座っていた場所を離れ、同じ方向へ歩いている。
散歩だろうか。
そう思って前を向いたが、次の角を曲がったあとも、背後に気配があった。振り返ると、猫はまだ数歩離れたところにいる。
要が止まると、猫も止まった。
「……何」
問いかけても、猫は答えない。耳を一度動かしただけで、こちらを見ている。
要は周囲を見た。近くに飼い主らしい人はいない。猫が出てきた家も分からない。首元へ目を向けたが、この距離からは首輪があるかどうかもよく見えなかった。
手を伸ばす理由もなかったので、また歩き出す。
少しして、振り返る。
まだいた。
今度は座らず、要の足を見ている。要が一歩横へずれると、猫も進む向きを変えた。
行き先が同じだけではないらしい。
「なんで猫にストーカーされてるんだ、俺」
呟いた声は、車の走る音に紛れた。
餌をあげたわけでも、呼んだわけでもない。それなのに、猫はついてくる。
要は少しだけ足を速めた。猫は慌てることもなく、歩く速さを合わせてきた。走って振り切るほどのことではないし、そうしたら猫まで道路へ飛び出しかねない。
結局、いつもの速さへ戻した。
途中、店先の植木鉢に猫が鼻を寄せたので、ようやく離れたかと思った。ところが要が先へ進むと、すぐにこちらへ戻ってくる。
要はため息をついた。
「俺についてきても、何もないけど」
猫は要の靴の近くまで来て、顔を上げた。近づかれると、こちらが足を出しづらい。要が止まっている間に、猫は道の端へ寄り、また待った。
妙に邪魔にならない位置だった。
人に慣れているのだろうか。飼い猫なら、帰る場所があるはずなのだが。
むすびの杜のあるマンションが見えてきても、猫は離れなかった。
店の入口まで来たところで、要は扉の前に立ち、足元を見下ろす。猫も入口を見ていた。先ほどまでより距離が近い。こちらが扉を開ければ、そのまま入るつもりのように見える。
要は取っ手へ伸ばした手を止めた。
店へ連れてきたつもりはない。だが、ここで入られたら、そう見えるだろう。
どうしたものかと考えていると、内側から扉が開いた。
「おや、要くん。そこで何してるんだい?」
善一郎が顔を出す。要の向こうを見たあと、視線を下へ落とした。
猫が、善一郎を見上げていた。
善一郎の眉がわずかに上がった。それから要へ目を向け、また猫を見る。口元がゆっくりと緩んだ。
「……俺が連れてきたんじゃないです」
先に言っておくと、善一郎は要の顔を見た。
「そうなの?」
「目が合ってから、ずっとついてくるんです。何もあげてないのに」
善一郎が扉を開けたまま考えている間、猫は敷居の手前に座った。入ろうと思えば入れるのに、今度は動かない。
要は猫を見下ろした。
「ここ、店だから」
分かるはずもないと思いながら言った。猫は顔を上げ、そのあと善一郎へ目を向ける。
善一郎は扉を少し狭めた。
「要くん、ちょっと待ってね。僕もそっちへ出るから」
盆を内側へ置き、善一郎は外へ出てきた。背後の扉が閉まると、猫は二人の間に収まるように座り直す。
要は肩から鞄を下ろした。
「この辺の猫ですか」
「どうだろうねぇ」
善一郎はしゃがみ、猫の首元をそっと見る。猫は逃げず、持ち上げられるわけでもないその手を目で追った。
「首輪はないね」
「迷ったんですかね」
そう聞くと、猫が要を見た。まるでこちらの話を聞いているような間だったが、猫はそのまま前足を舐め始める。
少なくとも、慌てているようには見えない。
「ずっと、要くんのあとを?」
善一郎に尋ねられ、要は頷いた。
「途中で止まっても、待ってるんですよ。別のところへ行く気もないみたいで」
善一郎は猫へ手を伸ばした。指先が頭へ触れる前に、猫が少し顔を動かす。撫でるのを断られたのかと思ったが、その顔は要の膝のほうへ向いていた。
鞄を持つ要の手へ、鼻先が寄る。
要は反射的に手を引きかけて、止めた。猫は匂いを嗅いだだけで、それ以上近づこうとはしない。
「……何も入ってないって」
鞄を少し持ち上げると、猫はその動きを追った。善一郎は立ち上がり、店の窓へ目を向ける。
要もつられて見ると、窓際の客と目が合った。
大国主様だった。
昨日と同じ席にいる。今日は皿が置かれていて、ケーキを食べていたらしい。男はフォークを持つ手を止め、ガラス越しに猫を見た。
そのあと、要へ視線を移す。
大国主様の口元が、善一郎とよく似た形に緩んだ。
要は二人を見比べた。
「……何ですか」
「いや、何でも」
善一郎が言う。大国主様は窓の向こうなので声は聞こえなかったが、肩が少し動いた。笑っているように見える。
猫についてこられただけで、そんなにおかしいだろうか。
「マスター。この猫、どうしたらいいですか」
「ひとまず、飼い主がいないか確かめようか。勝手にうちの猫にするわけにはいかないからね」
要は猫へ目を戻した。
そこは同じことを考えてくれるらしい。善一郎が、じゃあ飼えばいい、と言い出さなかっただけで少し安心した。
「俺、今日バイトなんですけど」
「うん。まず鞄を置いておいで。僕はここにいるから」
要は入口へ向かった。猫も立ち上がったので、足を止める。
「……待って」
猫は止まった。
要は善一郎を見る。善一郎は何も言わず、猫のそばに立っていた。
扉を細く開け、体を滑り込ませる。猫が入ってこないことを確かめてから、静かに閉めた。
大国主様は窓際からこちらを見ていた。
「今日は連れがいるんだな」
「ついてきただけです」
要は鞄を持ち直し、カウンターへ向かった。大国主様の皿には、まだケーキが半分残っている。昨日、次にあったら食べると言っていた通りだった。
「それにしては、よく待っている」
言われて振り返ると、猫はガラス越しに要のほうを見ていた。善一郎がそばにいるのに、視線はずっとこちらへ向いている。
要はカウンターの内側へ鞄を置いた。
「すぐ戻りますから」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。大国主様は返事をせず、ケーキを一口食べる。
外へ戻ると、猫は扉の正面で待っていた。
要がしゃがむと、今度は猫のほうから近づいてきた。伸ばしていない手へ額を寄せ、そのまま擦りつける。要はどう動かしていいのか迷い、指先で頭に触れた。
猫は目を細めた。
さっき、善一郎にはそうしなかった。
「……なんで俺なんだよ」
猫は答えず、もう一度手へ頭を押しつける。
善一郎は隣に立ったまま、それを見ていた。要が顔を上げると、何か言いかけたように口を開き、それから閉じる。
「何ですか」
「いや。気に入られたみたいだねぇ」
要は手元へ視線を戻した。猫が額を擦りつけた拍子に、指の下へやわらかな毛が入ってくる。撫でるのをやめると顔を上げるので、結局もう一度手を動かした。
立ち去る気配は、まるでなかった。
バイトに来たはずが、今は、店の入口で猫を撫でている。
要は足元の猫を見ながら、善一郎へ尋ねた。
「飼い主が見つからなかったら、どうするんですか」
善一郎はすぐには答えなかった。猫を見て、それから要を見る。
「まずは、探してみよう。そこから一緒に考えようか」
要は頷いた。飼うとは決めていないし、自分の部屋へ連れていくとも言っていない。
ただ、飼い主を探す間、善一郎に全部任せて店へ入る気にはなれなかった。
猫は要の手の下で、喉を鳴らし始めた。




