第14話 待っている猫
猫の喉が鳴る音は、要が手を止めると小さくなった。
それでも猫は離れず、指先へもう一度頭を寄せてくる。撫で始めればきりがない気がして、要は膝の上へ手を戻した。
「このまま、ここにいて大丈夫ですか」
要は扉の取っ手を見上げた。立つ前に、猫が足元から離れてくれないと困る。
善一郎は窓の下へ目を向けた。
「少し脇へ寄ろうか」
要が立つと、猫も立ち上がった。壁際へ移ってしゃがむと、足元へ来て座り直す。
善一郎は二人のいた場所が空いたのを確かめ、扉へ手を掛けた。
「飼い主のことは、僕のほうでも気にしておくよ。要くんは、そろそろ仕事に入ろうか」
「でも、こいつは」
「ここで待っててもらおう。窓から見えるからね」
要は猫へ目を戻した。さっきは待てと言ったら止まったが、今度はどうだろう。立ち上がり、入口へ二歩だけ進んでみた。
猫は座ったまま、顔をこちらへ向けた。
「……仕事してくるから」
善一郎が扉を開けた。要は猫を見ながら中へ入り、閉まるまで足元を確かめる。猫は窓の下から動かなかった。
「ずいぶん気になるようだな」
窓際から声がした。
大国主様の皿には、ケーキが少し残っている。フォークを手にしたまま、要のほうを見ていた。
「俺についてきたんで」
「そうだったな」
それだけ答え、男は残りのケーキへフォークを入れた。要は何か言いたげな顔をしていないか見たが、大国主様は口へ運んだケーキをゆっくり噛んでいる。
善一郎もカウンターへ戻り、盆を片づけ始めた。
二人とも、猫が外にいるくらいでは慌てないらしい。自分だけが何度も振り返っているのが、少し落ち着かなかった。
要はカウンターの内側へ回り、手を洗った。指の間まで水を通してから拭いた。
「窓際、お水をお願いできるかい」
善一郎に言われ、要は水差しを取った。
大国主様のグラスへ水を足している間、窓の外に猫の耳が見えた。壁へ寄って座っている。要がそちらを見ると、大国主様も目を向けた。
「逃げはしないだろう」
「分からないでしょう、そんなの」
要は水差しを起こし、こぼしていないかテーブルを見る。大国主様はグラスへ手を伸ばした。
「今のところは、よく待っている」
窓の下では、猫が前足を舐め始めていた。
要はカウンターへ戻り、水差しを置いた。
入口のベルが鳴ったのは、そのときだった。
入ってきた女性が、扉を閉める前に外へ顔を向ける。要は猫が入ってくるのかと思い、反射的に足元を見た。
「外に猫がいますね」
女性が言う。善一郎はカウンターから顔を上げた。
「ええ。今日は、そこで休んでいるようで」
「気持ちよさそうにしてましたよ」
女性はそう言って、壁際の席へ向かった。要が窓へ目を向けると、猫はすでに横になっていた。
水を運び、女性の前へ置く。メニューを開くのを待っていると、ケーキのところで指が止まった。
「この、ルーメの実のケーキを。あと、コーヒーもお願いします」
要は注文を繰り返して確かめた。女性がメニューを閉じたので、それを受け取る。
カウンターへ戻って注文を伝えると、善一郎は皿を取り出した。
「猫、寝てます」
「落ち着いたみたいだねぇ」
善一郎はケーキを切り分けながら答えた。
「さっきまで、ずっとついてきてたんですけど」
「要くんがここにいるのは、見えているんじゃないかな」
要は窓の下へ目を向けたが、カウンターからでは猫の顔までは見えなかった。
善一郎は皿を盆へ載せ、フォークを添えた。
「はい。こちらを先に」
要は盆を受け取り、女性の席へ向かった。皿を置くと、女性はケーキの上の果肉を見て少し顔を近づけた。
「いい香り」
フォークを取る手を邪魔しないよう、要は一歩下がった。カウンターへ戻る頃にはコーヒーも用意されていて、今度はカップと砂糖を盆へ載せる。
女性にコーヒーを出し終えると、大国主様が空になった皿を少し手前へ寄せた。要はそれに気づき、盆を持って席へ行く。
「お下げしていいですか」
「ああ」
皿を載せると、大国主様はフォークから指を離した。
「うまかった。善一郎にも伝えておけ」
要は頷いた。自分で焼いたわけではないが、切った果物が残らず食べられているのを見るのは、悪くなかった。
カウンターへ戻って伝えると、善一郎は流しの前で笑った。
「それはよかった。次に会ったとき、ローエンにも話せるね」
要は空の皿を見た。市場で実を売っていた虎の顔が浮かぶ。ケーキにする話をしたら、どんな返事をするだろう。
リリアに茶の名前を聞くことも、まだ残っている。
次の仕入れでは、話すことが少し増えそうだった。
皿を洗い終えた頃、大国主様が上着を手に立った。
善一郎が会計をしている間に、要は窓際のテーブルを片づけた。
入口のベルが鳴ると、外の猫が頭を上げた。
大国主様は猫の前で足を止め、何か短く声を掛けたようだった。扉が閉まっていたので、言葉までは聞こえない。猫は男を見上げたあと、窓の向こうの要へ顔を向ける。
大国主様はその視線を追い、要と目が合うと片手を軽く上げた。そのまま通りへ歩いていく。
猫はついていかなかった。
要は布巾を持った手を動かし、テーブルに残った水の輪を拭き取った。
女性が帰るときも同じだった。
会計を終えた女性は、入口から猫へ目を向けて微笑んだ。猫は顔を上げただけで、足元へ寄ろうとはしない。
扉が閉まったあと、要は空いた席へ向かった。
「誰にでもついてくわけじゃないんですね」
皿を下げながら言うと、善一郎はテーブルから砂糖入れを取った。
「最初から、要くんについてきたんでしょう?」
「そうですけど」
善一郎は砂糖入れをカウンターへ運び、要はカップを盆へ載せる。
ふと窓を見ると、猫と目が合った。
寝ていると思っていたのに、こちらが見たときには起きている。要が盆を持って歩き出すと、猫の顔もゆっくり動いた。
「……見張られてるみたいだ」
善一郎が小さく笑った。
「ちゃんと働いているところを見てもらえるね」
「猫に?」
要は窓の下へちらりと目を向け、流しへ盆を置いた。
食器を洗い、拭いたカップを棚へ戻した。善一郎はその間に、小さな器へ水を注いでいた。
「外へ置いてこようかと思ってね」
「俺が行きます」
要は器を受け取り、入口へ向かった。窓の下で猫が体を起こす。扉を開けると立ち上がったが、足元へ飛び込んではこなかった。
壁際に水を置くと、猫は鼻を近づけ、それから舌先で舐め始めた。
要はその横にしゃがみ、スマートフォンを取り出した。今なら顔を向けてこないので、写真を撮れそうだった。
一枚撮って画面を確かめる。器に頭を寄せた猫の背中と、横顔が写っている。
康平とのやり取りを開き、画像を添えた。
『ケーキはあった。あと、猫についてこられた』
送信してスマートフォンを下ろすと、猫が水から顔を上げた。口元を舐め、要の膝へ頭を寄せてくる。
要は空いている手で、頭を一度撫でた。
スマートフォンが震える。
『あと、のほうが気になるんだけど』
要は猫を見下ろした。
『俺もそう思う』
短く返し、スマートフォンをしまった。
立ち上がると猫も顔を上げたが、今度は足元についてこなかった。器の脇に座り、要が扉へ向かうのを見ている。
「もう少し、そこで待ってて」
猫は目を細めた。
店へ戻ると、善一郎が時計へ目を向けていた。要もつられて見る。
仕事が終わって自分が店を出たら、この猫もまた立ち上がるのだろうか。
要は窓の下へ目を向けた。猫は器のそばで、こちらを見ていた。




