第15話 今夜だけ
仕事が終わる頃には、店の窓に通りの明かりが映っていた。
要は洗ったカップを棚へ戻し、鞄を肩に掛けた。善一郎に声を掛けようとして、先に窓の下を見る。
猫はまだいた。
「……本当にずっといるな」
善一郎が入口のほうへ顔を向けた。
「帰るかい?」
「はい。今日もありがとうございました」
要が扉を開けると、猫が起き上がった。座って伸びをしてから、こちらへ歩いてくる。
要は敷居をまたいだところで足を止めた。
猫も止まる。
試しに住居側の入口へ向かうと、猫も同じ方向へ歩き出した。昼間より近く、要の靴から少し離れたところにいる。
「……帰りもか」
振り返ると、善一郎が店の扉から顔を出していた。
「ついていくみたいだねぇ」
「みたい、じゃなくて、来てます」
要は鞄の紐を握り直した。行き先はすぐ上の部屋だった。遠くへ歩けば途中で別れるかもしれないが、帰るために遠回りするのも変な話だ。
猫は住居側の入口を見てから、要を見上げた。
「マスター。これ、どうしたらいいですか」
善一郎は外へ出て、店の扉を閉めた。
「要くんの部屋は、猫を置けるんだったかな」
「マンションはペット可ですけど。猫を飼うつもりで借りたわけじゃないんで、何もないです」
部屋を決めるとき、条件の欄で見た覚えはある。自分には関係ないと思って、それ以上気にしなかった。
善一郎は足元へ目を落とした。猫は二人の間で、要の靴先を見ている。
「ひとまず、今夜だけ預かってみるかい? 足りないものは一緒に揃えよう」
「俺が、ですか」
「困るなら、僕が見るよ」
要は猫へ目を戻した。猫も顔を上げ、目が合う。昼間の道で見たときと、同じような顔だった。
善一郎に任せて帰ることもできる。そのつもりで少し足を動かすと、猫も立った。
要は足を戻した。
「……今夜だけなら」
善一郎が頷く。
「じゃあ、まず必要なものを買おうか。店に鍵を掛けてくるから、ちょっと待っていてね」
要が猫を見ている間に、善一郎は店へ戻った。
何もないと言ったのに、猫を部屋へ入れる話になっている。要はしゃがみ、寄ってきた頭へ指先を当てた。
「俺、猫の世話したことないからな」
猫は目を細めた。
それでもいいのか聞きたかったが、答えは返ってこない。代わりに、もう少し撫でろというように額が押しつけられた。
善一郎が戻ってくると、要は鞄を掛け直した。猫は抱き上げようとしても嫌がらず、要の腕に収まった。思っていたより温かく、重みがある。
「これでいいんですか」
「落とさないように、下から支えてね」
善一郎に言われて腕を直すと、猫が要の上着へ前足を置いた。爪は立てなかった。
近くで猫用の食事とトイレの用品を買う間、要は猫と外で待った。店に残していけばよいかと思ったが、歩き出すと猫も来たので、結局そのまま連れてきたのだった。
袋を持って戻った善一郎は、要の腕を見て笑った。
「すっかり落ち着いてるね」
「俺は腕が疲れてきました」
「帰ろうか」
要が少し抱き直すと、猫は顔を上げた。逃げるでも暴れるでもなく、要の胸元へ鼻先を寄せる。重くなった荷物を抱えて帰るのとは、ずいぶん違った。
マンションへ戻り、善一郎と一緒に部屋へ向かう。
鍵を開ける前に、要は猫の顔を見た。
「変なところに入り込むなよ」
猫は要ではなく、鍵の動く手を見ていた。
扉を開けると、部屋の中は朝出たときのままだった。机には講義で使う本が積んであり、椅子の背に部屋着が掛かっている。床に置いた充電のコードが目に入り、要は猫を下ろす前に善一郎へ預けた。
「ちょっと待ってください」
鞄を置き、コードをまとめ、椅子の上の服をどける。普段は自分が踏まなければ済むものが、急に気になった。
猫を受け取って床へ下ろすと、猫はその場で鼻を動かした。それから壁際へ歩き、机の脚の匂いを嗅ぐ。
要はすぐ後ろについていきかけたが、善一郎が買ってきた袋を置く音で振り返った。
「先に、こっちを用意しよう」
二人でトイレを置く場所を決め、食事と水の器も用意した。要は袋に書かれた説明を読み、分からないところを善一郎に聞いた。
その間に部屋を一回りした猫は、要のそばへ戻ってきていた。
「そっちはトイレ」
指で示しても、猫は要の手を見ている。善一郎が小さく笑った。
「器を置いてみたらどうだい?」
要が床へ食事を置くと、猫はそちらを覗き込んだ。しばらく匂いを嗅いでから、食べ始める。
要はしゃがんだまま、その様子を見た。
自分の部屋で猫が食事をしている。それだけなのに、さっきまでの部屋とは違って見えた。
「飼い主のこと、お願いします」
顔を上げて言うと、善一郎は頷いた。
「うん。気になることがあったら、要くんも声を掛けてね」
「ずっと俺が飼うって決めたわけじゃないですから」
「分かってるよ」
善一郎は食事中の猫を見て、少しだけ口元を緩めた。
要はその顔を見たが、猫が器から顔を上げたので、そちらへ視線を戻す。口の周りを舐めたあと、猫は要の膝へ鼻先を寄せてきた。
「食べたなら、休めば」
猫はその場に座った。
善一郎を見送って戻ると、猫は机の前で待っていた。要が椅子へ腰を下ろすと、その足元に丸くなる。
鞄からノートを出した。今日の講義を見直そうと開くと、端に書いた「茶の名前」が目に入る。
次の仕入れで聞くことだった。
要は筆記具を取り、板書の横へ視線を戻した。足元で猫が動いたので見ると、体の向きを変えているだけだった。
「そこ、椅子動かすぞ」
少し椅子を引くと、猫は頭を上げた。要が足を避けるまで待ち、椅子の脚から離れたところへ座り直す。
昼間も、道の端でこんなふうに待っていた。
スマートフォンが震えた。
『猫どうなった?』
康平からだった。要は足元の猫を撮り、写真と一緒に返す。
『今夜だけ預かってる』
すぐに返事が来た。
『もう部屋にいるじゃん』
要は画面と猫を見比べた。
丸くなった猫は、こちらへ顔だけ向けている。さっき食事をしたときより、目が細くなっていた。
『そうなった』
送って、スマートフォンを机へ置く。
要がノートへ向き直ると、猫は顎を前足へ載せた。しばらくして目を閉じる。
部屋が静かになると、寝息がかすかに聞こえた。
要は椅子を動かさず、ノートを少し手前へ引いた。
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