第16話 青い茶の名前
猫を預かってから、数日が経った。
「今夜だけ」のつもりだったが、翌朝も猫は要のそばを離れなかった。善一郎に相談し、ひとまずもう少し預かることにした。
次の仕入れの日、要は小さなメモ帳とペンを上着のポケットへ入れた。今日はリリアに、青い茶の名前を聞くつもりだった。
要が立つと、猫も立った。部屋を出る支度をするたびについてくるので、鞄を掛けてから足元を見る癖がつきかけている。
店まで来ると、善一郎が入口で待っていた。
「おはよう。今日は食材だけ買うよ。茶葉と豆は、まだあるからね」
「じゃあ、リリアさんのところは、聞きに寄るだけですね」
善一郎が頷いた。要は足元へ目を落とす。
「こいつはどうしましょう」
善一郎は猫へ目を向けた。
「僕が少し見ておくから、先に台車を出してもらえるかな」
要は頷き、鞄を置きに入った。猫を連れた善一郎は表に残っている。台車を用意して戻ると、猫は窓の下に座り、善一郎がそばに立っていた。
「今日は、いつもより長くなるからね」
善一郎は猫にそう声を掛け、要へ顔を向ける。
「じゃあ、行こうか」
「……それでいいんですか」
「ひとまず、待ってくれるみたいだよ」
猫は要を見たが、立ち上がらなかった。要は少し迷い、善一郎に続いて店へ戻る。猫を入れないよう扉を閉め、裏口へ向かった。
森の匂いは、前に来たときと同じだった。
木々の間へ台車を押し出すと、足元の土が車輪を受ける。善一郎の後ろを歩きながら、要はポケットの上からメモ帳を確かめた。
市場へ着く頃には、袖口が少し暑くなっていた。店の外では上着を着てもよいくらいだったのに、こちらの通りには、日なたに立っているだけで汗ばむような熱がある。
ローエンの店では、ちょうど木箱を運び出しているところだった。
「おう、また来たな」
声を掛けられ、要は台車を止めた。
「どうも」
「今度は少し慣れたか」
「道は、前より分かります」
ローエンは笑って木箱を下ろした。善一郎が品物を見始めたので、要も隣へ寄る。
ルーメの実が目に入った。
「この前の、ケーキにしました」
ローエンが顔を上げた。
「どうだった?」
「店で出して、好評でした。友達も、もう一回食べたいって」
「そうか。焼いてもいけるだろう」
太い指が実を一つ取り上げた。ローエンは皮の色を見てから、要のほうへ差し出す。
「今日のは、こっちの箱だ。触ってみろ」
要は受け取り、手の中で確かめた。押し潰さない程度に指を当てると、少しだけ弾力がある。
「前のより、やわらかいですか」
「よく熟れてる。使う日を考えて選べよ」
要は善一郎を見る。善一郎も実を手に取り、箱の中を見比べていた。
「今日使う分は、こちらからもらおうかな。あとは少し硬いほうを」
選んだ実が分けられていく。要は箱を台車へ積んだ。
次の店へ向かう途中、善一郎がポケットを指した。
「聞きたいこと、忘れてないかい?」
「そのために持ってきました」
メモ帳を出して見せると、善一郎は目を細めた。
「準備がいいね」
「忘れないようにしただけです」
メモ帳をしまい直し、要は台車を押した。路地へ入ると、乾いた葉と花のような香りが強くなる。
茶葉の店の扉は開いていた。
「リリア、いるかい?」
「いるよ。あ、要くんも来た」
棚の奥からリリアが顔を出した。要を見ると、秤のそばに置いていた袋を脇へ寄せる。
「今日は耳、見ないの?」
「顔見て挨拶するところです」
「そっか。じゃあ、どうぞ」
リリアが正面を向いて待つので、要は軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
満足したように笑い、リリアは善一郎へ向き直った。
「今日は何にする?」
「茶葉はまだあるんだ。今日は要くんが聞きたいことがあってね」
リリアの視線が要へ戻った。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「何?」
「前に飲ませてもらった、青い茶です。名前を聞いてなかったので」
リリアはカウンターの端の瓶を見た。それから要へ視線を戻す。
「セイラ茶。覚えて帰ってね」
要はメモ帳を開き、カウンターの端で名前を書き留めた。
リリアが横から覗き込んだ。
「書いてまで?」
「忘れたら、また聞くことになるんで」
「また聞きに来てくれてもいいのに」
「名前だけで来ませんよ」
リリアは笑い、青い葉の瓶を手前へ寄せた。
「ほかには?」
「淹れるとき、気をつけることってありますか。俺は店で運ぶだけなんですけど」
瓶へ伸びていたリリアの指が止まった。
「善一郎さん、まだ教えてないの?」
「まずは、作っている人に聞きたいそうだよ」
善一郎が答えると、リリアは要の顔を見た。さっきより少し長く見られて、要はメモ帳へ視線を落とす。
「……味は覚えてるんですけど、それだけなんで」
「じゃあ、飲みながらにしよう」
リリアは瓶を開け、奥へ向かった。要は善一郎を見る。
「また買う話になります?」
「今日は質問だけのつもりだけどねぇ」
善一郎はそう言いながら、椅子を一つ引いた。
リリアは二つのカップを用意した。
並べたところで要が手を伸ばすと、まだ何も入っていない。
「慌てない。今から」
要は伸ばした手を引っ込めた。
リリアは片方へ葉を入れ、湯を注いだ。白い器の中へ青が広がっていく。要は顔を近づけ、立ち上る香りを確かめた。
「長く置きすぎないこと。色がきれいだからって、濃くなるまで待たなくていいの」
リリアは葉の様子を見ながら言った。
「色で決めちゃだめなんですか」
「色も見るよ。でも、色だけじゃ足りない。葉の量でも変わるから」
葉を引き上げたカップが、要の前へ置かれる。
もう片方には湯と葉を入れ、そのまま残した。
「先に、こっち」
言われたほうを飲むと、前に味わった香りが戻ってきた。花のような甘さのあとに、爽やかな匂いが残る。
要が二口目を飲む間に、リリアはもう片方の葉を引き上げた。
「こっちも飲んでみて」
青が少し深い。口へ運ぶと、同じ香りなのに、舌の奥に残るものが違った。
「……こっち、少し渋いです」
「うん。香りも、重くなるでしょう?」
要は最初のカップをもう一度持ち上げた。比べると、こちらのほうがすっと飲める。
リリアは二つを見比べる要の前へ、瓶を置いた。
「私の葉、苦いお茶だと思われたくないからね。淹れる人には、そこを覚えてほしいの」
要は頷いた。
名前の下へ「長く置きすぎない」と書き足したあと、ペンを止める。
「これだけじゃ、店で同じにできないですよね」
「そう。使う器も、お湯の量も違うから」
善一郎が隣からカップを覗いた。
「店に戻ったら、うちのポットでやってみようか」
「俺もですか」
「聞きたいと言ったのは、要くんでしょう?」
要はメモ帳を見た。茶の名前の下に、淹れ方の注意も増えている。
「……お願いします」
リリアは瓶の蓋を閉め、棚の別の瓶へ手を伸ばした。
「同じ茶でも、こっちは摘んだ時期が違うの。香りを比べてみない?」
善一郎は差し出された瓶の蓋を取り、香りを確かめた。
「……これも少しもらおうかな」
要は善一郎を見た。
「質問だけじゃなかったんですか」
「少しだけね。飲み比べてみたいから」
リリアは笑って秤を手前へ引いた。
「毎度ありがとう」
少量の茶葉が紙袋へ入る。要がメモ帳をしまうと、リリアが声を掛けた。
「淹れてみたら、どうだったか教えて」
「次に来たときでいいですか」
「うん。分からなかったところも」
要は袋を受け取った。名前だけを聞いて帰るつもりではなかったが、自分で淹れるところまで話が進むとは思っていなかった。
台車の上へ袋を載せ、位置を整える。
善一郎が店から出てきたところで、要は取っ手へ手を掛けた。
「マスター、帰ったら時間ありますか」
「お茶を淹れるくらいはあるよ」
要はポケットの中のメモ帳を押さえた。
青い色が出れば、それでよいと思っていた。店へ戻ったら、あのポットではどのくらい待つのか、確かめてみたかった。




