第5話 扉の向こう
次の土曜日、要は早朝からむすびの杜へ降りた。
入口の扉には、まだ「準備中」の札が掛かっている。
仕入れに行くから、朝早く来てくれ。
善一郎にそう言われていた。
要は扉を開けた。
「おはようございます」
「おはよう、要くん。ちょうどよかった」
カウンターの奥から善一郎が顔を出した。いつものシャツ姿で、その傍らには空の木箱を載せた手押し台車が置かれている。
「で、どこに行くんです?」
「仕入れ先」
「それは聞きました」
善一郎は楽しそうに笑うだけで、やはり場所を答えなかった。
これまで仕入れ先について尋ねても、まともな答えは返ってこなかった。ようやく同行することになったというのに、今日になってもこの調子だ。
「車ですか?」
「使わないよ」
「電車?」
「それも使わない」
要は少し考えてから、店の外を見た。この辺りなら徒歩で行ける店や業者もいくらでもある。
「近いんですか」
「まあ、遠くはないねぇ」
その答え方が怪しい。
善一郎はカウンターの中を確認すると、入口へ回って鍵を掛けた。それから手押し台車を押し、当然のように厨房の奥へ向かう。
要はその背中を見て、足を止めた。
善一郎が向かった先には、あの扉がある。
これまで一度も開いたところを見たことがない、厨房のさらに奥にある木製の扉だ。
「マスター」
「うん?」
「そっち?」
「そっち」
善一郎は何でもないことのように答えた。
要は手押し台車の向こうにある扉を見る。以前、その向こうから雨音や鳥の声が聞こえたことを思い出した。
「まぁ、開ければ分かるよ」
善一郎がドアノブを回し、扉を開けた。
最初に入ってきたのは、風だった。
店内の空調とは違う、ひんやりとした空気が頬を撫でる。続いて葉の擦れる音と、どこか遠くで鳴く鳥の声が聞こえた。
扉の向こうには、森があった。
「…………」
要は黙って扉の向こうを見る。
細い道の両側に背の高い木々が並び、その隙間から朝の光が落ちている。地面は土で、ところどころに草が生えていた。少し先で道が曲がっているため、その向こうまでは見えない。
見間違いではない。
扉の枠の中だけ、どう考えても東京ではない景色が広がっている。
要は一度扉から目を離し、厨房を見た。それからもう一度、森を見る。
「…………森ですね」
「森だねぇ」
「裏口から出ましたよね」
「出たねぇ」
「ここ東京ですよね」
「店の表はね」
要は数秒黙った。
「帰っていいですか」
「まぁまぁ、いいからいいから。行こうか」
「よくないんですけど」
善一郎は要の抗議を気にした様子もなく、手押し台車を押して扉の向こうへ出ていった。
残された要は、その背中と店内を見比べる。
ここで帰れば、自室までは階段を上がるだけだ。
ただ、それを選んだところで、あの扉の向こうに森があるという事実が消えるわけではない。
それに、仕入れ先がどこなのかはずっと気になっていた。
「……聞いた俺が悪かったのか」
誰に言うでもなく呟いてから、要は扉を一歩越える。
靴の裏が、店の床ではなく柔らかな土を踏んだ。
振り返れば、すぐ後ろには開いた扉がある。その向こうに見えるのは、さっきまで自分が立っていたむすびの杜の厨房だった。
「閉めていいよ」
少し先で善一郎が言う。
「閉めても戻れるんですか」
「ちゃんと戻れるよ」
即答されても、要にはそれを確かめる術がない。念のため開いた扉の向こうをもう一度見てから、善一郎へ視線を戻した。
「そう言われても、信用できる材料がないんですけど」
「一週間も一緒に働いてるのに、寂しいことを言うねぇ」
善一郎は笑っている。少なくとも本人にとっては、扉を閉めることに何の問題もないらしい。
要は諦めて扉を閉めた。
ぱたん、と軽い音がして、店内の景色が見えなくなる。
目の前に残ったのは、木々の間を延びる細い道だった。
理解しようとするほど分からなくなる。
善一郎は手押し台車を押しながら、慣れた足取りで森の道を歩き始めた。要もその後を追う。
道は人が通れる程度には踏み固められている。途中には緩い坂もあり、下りるときには台車が先へ転がらないよう、善一郎が取っ手を引いていた。周囲の木々は見慣れたものに似ているが、要には種類までは分からなかった。時折、枝の間を小さな鳥が飛び交っている。
「ここ、どこなんです?」
「向こう側」
善一郎は手押し台車を押したまま、何でもないことのように答えた。要はその背中を見ながら、聞き慣れない呼び方をそのまま返す。
「……向こう側?」
「異世界、と言えば分かりやすいかねぇ」
あまりにも軽い口調だった。要はすぐには返事をせず、周囲の森へ目を向ける。
「……異世界。ゲームとか小説に出てくる?」
「要くんが、どういうのを読んでいるか知らないけど、たぶんそんな感じだねぇ」
要は返事をせず、そのまま数歩歩いた。すぐに納得できる話ではないが、目の前に広がる森を見れば、否定するのも難しい。
「……仕入れ先、まだ先なんですよね」
「もう少しだよ」
「じゃあ行きます」
善一郎が口元を緩めた。
「気になるんじゃないか」
「ここまで連れてきておいて言います?」
「言うよ」
要は小さく息を吐き、また歩き出した。
森の道をしばらく進むと、木々の間から光が広がってきた。鳥の声に混じって、今度は別の音が聞こえる。
人の話し声。
荷車らしい車輪の音。
何かを叩く乾いた音と、遠くから響く呼び込みの声。
森を抜けた先で、要はまた足を止めた。
石造りの建物が並ぶ町が広がっていた。
通りには露店が連なり、野菜や果物らしいものが山積みにされている。行き交う人々の服装も東京ではまず見ないものばかりだった。
そして、その中に。
獣の耳や尾を持つ人がいる。
頭の上から長い耳を伸ばした女が、籠を抱えて露店の間を歩いていた。
要は無言でその姿を目で追う。
腰の後ろには丸い尾があり、歩くたびに小さく揺れていた。
「マスター」
呼びかけると、善一郎が歩きながら振り返った。要は遠ざかっていく女を目で追ったまま言う。
「今の人、尻尾ありましたけど」
「あるねぇ」
善一郎は当然のことのように答え、そのまま市場へ向かって歩いていく。
要はしばらくその場に立っていた。
森だけなら、まだ何か説明のつけようがあったかもしれない。
だが、目の前の町と、そこを歩く人々を見ていると、善一郎の言った「異世界」という言葉を否定する材料のほうが見つからない。
「要くん、置いていくよ」
少し先から声が飛んできた。
「……はい」
要は善一郎の後を追った。
その先で、大きな縞模様の尾を持つ男が、善一郎に気づいて片手を上げた。
「おう、善一郎! 今日はずいぶん若いのを連れてきたな!」
善一郎も片手を上げる。
「久しぶり、ローエン」
男の頭には、虎のような獣の耳があった。
要は足を止めた。
どうやら、驚くのはまだ終わりではないらしい。




