第4話 友人来店
むすびの杜で働き始めて、一週間ほどが経った。
最初はどこに何があるのか確認しながら動いていた要も、今では水やおしぼりを出すくらいなら考えなくても手が動く。注文を取って、料理を運び、空いた皿を下げる。会計も、よほど変わったことがなければ善一郎を呼ばずに済むようになった。
大学から帰宅し、いつものように着替えて一階へ降りる。
うん、通勤時間がないって最高だ。
「要くん、二番にブレンド」
「はい」
カウンターに置かれたカップを受け取り、窓際の席へ運ぶ。
「お待たせしました」
カップを置いて戻る途中、別の客の水が減っていることに気づいた。ピッチャーを持って注ぎ足し、そのまま空いた皿を一枚下げる。
自分でも、だいぶ慣れたと思う。少なくとも初日のように、次に何をすればいいのかいちいち善一郎を見ることはなくなった。
「板についてきたねぇ」
洗い場へ皿を置くと、善一郎が言った。
「まだ一週間ですけど」
「でも、最初の頃とはずいぶん違うだろう?」
「まあ、それはそうですね」
善一郎は適当なのか真面目なのか分からない調子で答え、コーヒー豆を量り始めた。
要は布巾を手に空いたテーブルへ向かう。
奥の扉は今日も閉じたままで、以前聞いた雨音や鳥の声についても、善一郎はまだ何も説明していない。気にならなくなったわけではないが、話す気になるまでは聞いても無駄だと要も分かっていた。
テーブルを拭き終えたところで、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
振り返った要は、そのまま少し黙った。
「お、本当にいた」
先に入ってきた康平が、要を見て笑った。
その後ろから千織も店内へ入ってくる。
「こんにちは、八神くん」
「……何してんの」
要の反応がおかしかったのか、康平が笑った。
「喫茶店に来て最初に言われる言葉じゃないな、それ」
「いや、そうじゃなくて」
大学で知り合ってから数日。講義で顔を合わせれば話すようになっていたが、まさか本当に店へ来るとは思っていなかった。
「この前言ってただろ。家の一階の喫茶店でバイトしてるって」
「言ったけど」
康平は悪びれもせず、店内へ視線を巡らせた。
「ちょうど近くまで来たから、見てみようって」
康平が店内を見回す。
「普通にちゃんとした店じゃん」
「だから普通の店だって言っただろ」
横から千織が要を見る。
「八神くん、接客中」
千織に指摘され、要は口を閉じた。
確かにその通りだった。
「……二名様ですか」
康平が吹き出す。
「急に店員になった」
「二名様ですね」
要がそのまま待っていると、康平は肩をすくめた。
「はいはい」
要は二人を空いている四人掛けの席へ案内した。
水とおしぼりを置き、メニューを二冊渡す。
「ご注文決まったら呼んでください」
「なんか変な感じするな」
康平が笑う。
「何が」
「大学だとずっと眠そうなのに、ちゃんと働いてる」
「失礼だな」
向かいで千織が要を見ながら小さく頷く。
「でも、ちょっと分かる」
「高梨まで」
「ほらほら、要くん。お友達と話すのは休憩になってからにしな」
カウンターの奥から善一郎の声が飛んできた。
康平がそちらを見る。
「店主さん?」
「そう」
「へえ」
何が「へえ」なのか分からない。
要がカウンターへ戻ると、善一郎が楽しそうにこちらを見ていた。
「友達できたんだねぇ」
「声大きいですよ」
要が客席をちらりと見ると、善一郎は気にした様子もない。
「いいじゃないか」
「まだ知り合って一週間も経ってないです」
善一郎はコーヒーの準備をしながら、のんびりと言った。
「じゃあ、友達になる途中かねぇ」
「知りません」
善一郎は声を立てずに笑った。
要は無視して、別のテーブルから下げてきたカップを洗い場へ置いた。
しばらくして、康平が手を上げる。
「八神ー」
「店員を名前で呼ぶな」
要がその場から返すと、康平はわざとらしく手を上げ直した。
「すみませーん」
「それでいい」
席へ向かうと、康平がメニューを指した。
「俺、ブレンドとサンドイッチ」
「私は紅茶とチーズケーキ」
要は伝票へ書き込みながら注文を復唱する。
「ブレンドとサンドイッチ、紅茶とチーズケーキですね」
「ちゃんとしてる」
康平の一言に、要は顔を上げた。
「斑鳩、帰る?」
「客に言う?」
千織が口元を押さえて笑っている。
要は注文を伝票に書き込み、カウンターへ戻った。
「楽しそうだねぇ」
「普通です」
「そうかい」
善一郎はそれ以上何も言わず、サンドイッチの準備を始めた。
要はコーヒーと紅茶を運び、少し遅れて出来上がったサンドイッチとチーズケーキも二人の前へ置く。
「ごゆっくりどうぞ」
「八神もあとで食おうぜ」
「仕事中」
要が即答すると、康平はサンドイッチへ手を伸ばしながら笑った。
「知ってる」
要は返事をせず、別の客の会計へ向かった。
店内が少し落ち着いた頃、康平たちの席から声が聞こえた。
「これ、うまいな」
見ると、康平がサンドイッチを片手にしている。
「八神がうまいって言ってたの、これ?」
「言ってない」
「言ってなかったっけ?」
「店の話しかしてない」
「あれ、そうだっけ」
康平は気にした様子もなく、もう一口かじった。
向かいでは、千織が康平の皿を見ている。
「一口ちょうだい」
「いいけど、ケーキも一口くれよ」
千織は自分の皿を見てから頷いた。
「それならいいよ」
康平が皿を少し押し出し、千織がサンドイッチを一切れ取った。
要は水を足すついでに、その様子を横目で見る。
「……おいしい」
千織がぽつりと言った。
「だろ?」
「斑鳩くんが作ったわけじゃないでしょう」
「俺が頼んだ」
「関係ない」
千織はそう言いながら、もう一口サンドイッチを食べた。
「八神くんがここで働くことにしたの、ちょっと分かるかも」
「飯で決めたわけじゃないけど」
「でも、まかない出るんだろ?」
康平がすぐに食いつく。
「出る」
「いいな、それ」
「そこ?」
千織が呆れたように言うと、康平は気にせずサンドイッチを頬張った。
二人が普通に店の料理を食べているのを見ていると、大学で話しているときとは少し妙な感じがする。ほんの数日前までは名前すら知らなかった二人が、今は自分の働いている店で向かい合って飯を食べているのだ。
東京へ来たばかりの頃には、こんな光景は考えてもいなかった。
二人が席を立ったのは、それから三十分ほどあとだった。
要は会計を済ませ、入口まで送った。壁の募集の張り紙が、まだ貼ってある。
「まだバイト募集してるんだな」
要が言うと、康平が振り返った。
「どこに?」
「そこ。俺も、この紙を見て声かけたんだけど」
要は張り紙を指した。康平はその先を見てから、壁へ近づく。
「……何もないぞ」
千織も横から覗き込んだ。
「八神くん、どの紙?」
要は指を下ろした。入口近くの壁には、『アルバイト募集』と書かれた紙がある。二人が見ているのも、同じ場所のはずだった。
「いや……何でもない」
康平は首を傾げたが、千織が扉へ向かうと、そのあとに続いた。
「じゃあな、八神。また大学で」
「バイト頑張って」
「どうも」
要が扉を開けると、康平が一歩外へ出たところで振り返った。
「今度、別のやつも食いに来るわ」
「勝手にどうぞ」
「客に冷たくない?」
「またのご来店をお待ちしております」
「急に丁寧にするなよ」
康平の笑い声と一緒に扉が閉まり、ベルが鳴った。
店内へ戻ると、善一郎がカウンターの中から要を見ていた。
「いい友達じゃないか」
「まだ友達っていうほどでも」
善一郎は二人が出ていった扉を見て、目を細めた。
「向こうはそう思ってなさそうだけどねぇ」
要は返事をせず、二人が使っていた食器を片づける。
サンドイッチの皿はきれいに空になっていた。
「マスター」
食器を洗い始めた要に、善一郎が顔を向ける。
「うん?」
要は二人がきれいに平らげた皿を水につけた。サンドイッチはもちろん、付け合わせまで残っていない。
「前にも聞きましたけど、どこから仕入れてるんです?」
「覚えてるよ」
要は返事を待ったが、善一郎はそれ以上続けようとしない。
「じゃあ、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか」
善一郎はすぐには答えなかった。
閉じたままの奥の扉へちらりと目を向け、それから要を見る。
「じゃあ、今度の仕入れ、一緒に行ってみるかい?」
要は手にしていた皿を置いた。
「……いいんですか?」
「もちろん。それに気になるんだろう? 仕入れ先」
否定する理由はなかった。
一週間、何度聞いても「そのうち」で済まされてきた答えが、ようやく分かる。
「行きます」
「決まりだねぇ」
善一郎はいつもの調子で笑った。
その視線の先には、あの扉があった。
雨の音も、風の音も、今日は聞こえない。
ただの木製の扉にしか見えない。
要は皿を洗いながら、もう一度だけ奥の扉を見た。
(マスターは、なぜ仕入れの話をするときに、あちらを見るのだろう)




