第25話 休講の朝
部屋へ戻ると、机の上には拾い直した本が積んであった。
要はその横へ携帯電話を置いた。床には、先ほど置いていった鞄がある。猫は先に窓際へ行き、カーテンの裾へ鼻を寄せている。
「開けないぞ」
声を掛けると、猫はこちらを振り返った。外へ出たいのか、ただ匂いが気になるのかは分からない。要は窓を確かめ、閉まっているのを見てから机へ戻った。
下ではまだ、善一郎たちが雨と繋がりを見ている。何か変われば連絡をくれると約束しているので、要は携帯電話の音量を上げてから椅子へ座った。
開いていたノートには、大学で書いた文字が並んでいた。続きを読もうとしても、頭へ入ってこない。ペンを挟んで閉じると、椅子の背へ寄りかかった。
気がつくと、腹が減っていた。
冷蔵庫に残っていたご飯を皿へ移し、電子レンジに入れた。温めている間に猫の水を替え、床へ置く。猫が飲み始めたのを見てから、要は冷蔵庫から卵を取り出した。
温まったご飯に卵を落とし、醤油を掛けた。机へ運んでも、携帯電話は静かなままだった。箸で卵を混ぜながら何度も画面へ目を向けてしまい、要は電話を皿の向こうへ移した。
「見てても鳴らないか」
猫がこちらへ顔を上げた。
「お前に言ったんじゃない」
食べ終えた頃、康平からメッセージが来た。
『家に着いた。雨、少し落ち着いたな。そっちはどう?』
要は窓際へ行き、カーテンを少し引いた。ガラスを伝う水は残っていたが、向かいの建物は見える。
『こっちも弱くなった。今は部屋』
続けて、千織からも届いた。
『電車が遅れてたけど、帰れたよ。お店は大丈夫だった?』
要は画面を見た。店の中の片づけは済んでいる。善一郎も無事だ。けれど、大丈夫と答えるには、知らないことが多かった。
『今日は閉めた。マスターも怪我はない』
そこまで打って送った。
千織から、マスターにも気をつけるよう伝えて、と返ってきた。要は短く返事をし、二人とも帰れているのを確かめてから返信欄を閉じた。
そのままニュースを開くと、地震の記事と大雨の速報が並んでいた。雨の映像には、冠水した道路を前に足を止める人たちが映っている。
投稿を見ても、揺れたときの部屋の様子や、駅で足止めされた人の写真が次々に流れてきた。千織が電車の遅れを知らせてきたばかりだったので、要は駅の映像で指を止めた。
更新時刻を確かめてから、画面を閉じる。友人たちは帰れている。それでも、映像の中には、まだ動けずにいる人がいた。
外が暗くなり、部屋の灯りをつけたあとで、善一郎から電話が来た。
要は椅子を引き、携帯電話を取った。
「はい」
「雨は、ずいぶん弱くなったね。要くんのところからも見える?」
「さっき見ました」
「道も、その後は同じところへ開いている。ひとまず、今の状態を知らせておこうと思って」
要は机へ手を置いた。
「九尾は?」
「まだ、捕まったという知らせはないよ」
返事を聞き、要は閉じたノートへ目を向けた。
「じゃあ、まだ終わってないんですね」
「そうだね。僕たちも、もう少し様子を見ておく」
電話の向こうから、カップを置くような音が聞こえた。誰がそばにいるのかまでは分からなかったが、店の音だと思うと、少し落ち着いた。
「要くんは、今日は休んで。明日の店のことは、また朝に連絡するよ」
「分かりました」
要は返事をしてから、もう一度電話を耳へ押し当てた。
「……マスターも、休んでくださいよ」
「うん。ありがとう」
通話が終わった。
要は明日の目覚ましを確かめ、携帯電話を枕元へ置いた。普段の音量よりは大きいままにしておく。
猫は布団の端で丸くなっていた。要が横になると目を開けたが、場所を譲るつもりはなさそうだった。
「そこ、俺の足が来るんだけど」
猫はまた目を閉じた。
要は布団を少し引き、猫に当たらないところへ足を伸ばした。眠る前に、一度だけ電話の画面を見る。
新しい知らせはなかった。
◇
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
肩に触れる空気が冷たく、要は布団を引き上げた。昨日、窓を閉め忘れたのかと思ったが、寝る前にも確かめている。
猫が布団の上を歩き、要の顔へ鼻を近づけた。
「……起きるから」
要は身を起こした。半袖の腕に冷たい空気が触れ、すぐに布団を手放したことを後悔する。床へ足を下ろし、鞄のそばに置いていた上着を羽織った。
カーテンの端から入る光が、いつもより白く見えた。
要は窓へ行き、カーテンを引いた。
細かな白いものが、向かいの壁を背景に落ちていた。
窓の外側の縁に、白いものが薄く溜まっている。車の屋根にも、向かいの店の看板の上にも、同じ色が載っていた。
「……雪?」
要は窓を少し開けた。
冷たい空気が入り、顔へ触れた。伸ばした手へ白い粒が落ちる。指の上に一瞬残り、すぐに水になった。
猫が足元へ来たので、要は窓を閉めた。
昨日は半袖で店にいた。秋の休みの話も、まだ先の予定として聞いている。それなのに、今朝は車の屋根が白くなっていた。
枕元の携帯電話を取ると、メッセージがいくつも届いていた。
康平が窓から撮った写真を送っている。
『雪なんだけど』
千織からも、白くなった柵の写真が来ていた。
『こっちも降ってる。今日、大学あるのかな』
要は二人の写真を見てから、大学の連絡を確かめた。
午前の授業を休講にするという通知が届いていた。交通の状況と安全を確認するため、午後については改めて知らせると書かれている。
要はその通知を二人へ送った。
『午前は休講。午後はあとで連絡』
康平からすぐに返事が来る。
『助かった。出るところだった』
千織も、通知を確認したと返してきた。
『まだ降りそうだし、家で待つね。要くんも気をつけて』
要は短く返事をし、目覚ましを止めた。
ニュースの通知にも、雪の文字が出ていた。
記事を開くと、都内で雪が降っているという見出しの下に、駅前の映像が載っていた。傘を差した人の向こうで、白い粒が落ちている。画面の端には、現在の気温と交通情報が表示されていた。
昨夜は大雨の映像だった。今朝は、雪の中で通勤する人が映っている。
ネットでも、窓の外を撮った動画や、急いで冬物を出したという投稿が流れてきた。昨日まで半袖だった、と書いている人もいる。
地震のあとに大雨、今度は雪。どうなっているんだ、と戸惑う声に、要は指を止めた。
自分も同じことを思っている。下の店で聞いた話を知っていても、次に何が起きるかは分からなかった。
大学へ行かなくてよくなったからといって、もう一度布団へ戻りたい気分にはならなかった。窓の外が気になる。
善一郎へ電話を掛けた。
数回鳴ったあと、聞き慣れた声がした。
「おはよう、要くん」
「おはようございます。雪、見ました?」
「見ているよ。こちらから連絡しようと思っていたところ」
要は窓へ顔を向けた。
「大学、午前は休講になりました」
「そう。外へ出る前に分かってよかったね」
「店は?」
「今日は、まだ開けない。勤務も休みにしよう」
要は上着の袖へ手を引っ込めた。
「これも、繋がりのことかもしれないんですよね」
「その可能性は、考えているよ。ただ、まだ原因は分かっていない。妙見様にも、雪のことは知らせている」
善一郎の声は、昨日と同じように落ち着いていた。
要は袖口から出ていた指を握り込んだ。
「向こうは?」
「今朝開けたときには、道は同じだった。見えるところでは、まだ雨が降っていたよ」
「向こうは、雪じゃないんですね」
「今見えた範囲ではね。町のほうまでは、まだ確かめられていない」
善一郎が一度言葉を切った。電話の向こうで、誰かに短く返事をする声が聞こえる。
「店のほうは、こちらで見ておく。要くんは暖かくしていてね。何かあれば、また連絡する」
「はい」
電話を切り、要は携帯電話を机へ置いた。
窓へ触れると、指先が冷たかった。猫はもうそこから離れ、布団へ戻っている。
「お前は、判断が早いな」
猫の耳が一度動いた。
要は冷蔵庫から食パンを出し、トースターへ入れた。焼けるのを待つ間に、湯を沸かす。いつもなら鞄の中身を確かめている時間だったが、今日はカップを両手で包みたいくらい寒かった。
湯を沸かしている間に、康平からまたメッセージが来た。
『午後も休みになりそうだな。店は今日やる?』
『店も休み』
要が返すと、康平から、ケーキはまた今度だな、と届いた。
要は画面を見たまま、小さく息を吐いた。
次に店が開いたら、康平はまたケーキを頼むのだろう。千織も来て、自分が茶を淹れるかもしれない。善一郎がカウンターに立ち、窓の外で猫が待つ。
昨日の地震が起きるまでは、次の日もそうして店に立つつもりでいた。
湯が沸き、少し遅れてトースターも鳴った。
要は携帯電話を机へ置いた。焼けたパンを皿に取り、カップへ湯を注ぐ。椅子に座って両手で包むと、冷えていた指に熱が伝わってきた。
パンを一口かじり、窓へ目を向ける。
窓の外では、白い粒が途切れずに落ちていた。
食べ終えた皿を洗い、カップを机へ戻した。普段なら大学へ向かっている時間だ。要はノートを開き直し、昨日途中で閉じた頁から読み始めた。
しばらくすると、猫が机の脚へ体を擦りつけた。椅子の横で立ち止まり、こちらを見上げる。
「下には、まだ行かないぞ」
要が言うと、猫は足元へ座った。どこかへ行きたいのか、ただ要に立ってほしいのか分からない。背を撫でてからノートへ戻ると、今度は少しだけ文字が頭へ入ってきた。
昼前、携帯電話が鳴った。善一郎からだった。
「要くん、朝ご飯は食べた?」
「食べましたよ」
要は読みかけの頁に指を挟んだ。
「よかった。これから昼の支度をするんだけど、よかったら一緒にどう?」
「店で、ですか」
「うん。今日は営業しないけれど、食事はしておかないとね」
要は窓へ顔を向けた。雪はまだ降っている。下へ行くのなら遠くまで歩かずに済むし、善一郎の顔も見られる。
「行きます。何か、持っていきます?」
「手ぶらでいいよ。猫も一緒においで」
通話を終えると、要はノートを閉じた。椅子を引く音で猫が立ち上がり、入口へ向かう。
「まだだって。上着、着るから」
朝に羽織った上着の前を合わせ、携帯電話をポケットへ入れた。机の端に置いた鍵を取り、部屋を見回して窓が閉まっているのを確かめる。
猫は玄関で待っていた。要が靴を履く間も、扉の前から離れない。
「今度は俺より早いな」
要は扉を開け、猫が出たのを見てから鍵を掛けた。下へ降りるときには、携帯電話をもう一度見ようとは思わなかった。
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