第24話 探す者、守る者
要がタオルをカウンターへ置くと、表のベルが鳴った。入口へ向かい、扉が閉じないよう手を添える。
大国主様が入口に立っていた。上着の肩が濡れている。その後ろから、紺色の上着を着た男が入ってきた。
「戻ったぞ。こちらの雨を見てもらう」
要は二人が入ったのを見て扉を閉めた。善一郎もカウンターを回り、入口へ向かう。
「ありがとうございます。急に降り始めてから、強くなるばかりで」
男は天照様を見ると頭を下げ、それから窓へ目を向けた。
「向こうも降っとるって聞いたばってん」
「ええ。ただ、こちらから見える森までしか確かめられていません」
要は二人のやり取りを聞きながら、足元の猫を見た。椅子の下から出てきて、男のほうへ顔を向けている。
善一郎が要を振り返った。
「要くん。こちらは妙見様だよ」
要は軽く頭を下げた。
「八神要です」
妙見様が頷いた。要は先ほどの言葉を思い返した。
「……それ、どこの言葉ですか」
要が尋ねると、妙見様はこちらを向いた。
「八代たい。熊本のな」
「熊本……」
聞き慣れない響きに、要はもう一度妙見様を見た。
そのとき、猫が入口のほうを見た。
要も目を向けた。妙見様の靴の脇に、小さな生き物がいる。丸みのある甲羅から細長い首を伸ばし、猫とも犬とも違う顔をこちらへ向けていた。
「……マスター」
要が呼ぶと、善一郎も足元を見た。
「あれ、何ですか」
「一緒に来たんですね」
善一郎は妙見様へ顔を向けた。
「亀蛇も、この雨が気になったごたる」
小さな生き物が妙見様の靴のそばから出てきた。首だけなら蛇に見える。しかし、その下には甲羅があり、足もある。要と目が合うと、亀蛇と呼ばれた生き物は首を少し傾けた。
「亀……ですか」
「亀蛇だよ。亀と蛇と書いて『がめ』と読むんだ」
善一郎の答えを聞いても、要はすぐには頷けなかった。
「亀なのか、蛇なのか」
要が甲羅と首を見比べていると、善一郎が答えた。
「両方だねぇ」
猫が要の足へ体を擦りつけた。見下ろしてから、もう一度亀蛇へ目を戻す。普通の猫が、今はひどく見慣れたものに思えた。
妙見様は亀蛇へ目を向け、表の扉へ歩き出した。亀蛇もそのあとをついていく。
「善一郎は、門ば見とってくれ。まず、こっちの雨ば鎮めるけん」
天照様も立ち上がった。
「頼む。道のずれはひとまず抑えたが、こちらの雨は続いておる」
善一郎が頷き、厨房のほうへ目を向ける。
要は窓へ近づいた。向かいの軒先には、まだ雨宿りをしている人がいる。こんな生き物が通りへ出たら、雨どころではなくなるはずだった。
「外の人に見られませんか。あれ」
亀蛇へ目を向けて尋ねると、妙見様は足を止めた。
「亀蛇は、姿ば隠して来とる。通りの人には見えんばい」
「……俺たちには、見えてますけど」
「ここにおる者には見えるごつしとる。私も、外で亀蛇に乗っとる間は姿ば隠すばってん、あんたたちからは今と同じごつ見える」
要は亀蛇から窓の外へ目を移した。妙見様が扉を開けると、小さな亀蛇も外へ出ていく。大国主様がそのあとに続いた。
要が窓へ寄ったとき、亀蛇の甲羅が大きくなった。足も首もそれに合わせて伸び、妙見様のそばで体を起こす。さっきまで靴の脇にいた姿とは、まるで違う。
「……大きくなるんですか」
「普段は小さくしているんだよ。妙見様が乗るときは、ああなる」
善一郎の説明を聞く間にも、妙見様は甲羅へ手を添え、亀蛇の背へ上がった。向かいの軒先にいる人たちは、こちらを振り向かない。自分たちに見えている姿は、あちらには見えていないのだ。
「乗るんだ……」
要は窓越しに、亀蛇の背に乗った妙見様を見つめた。
亀蛇は軒先を離れ、店の前の、人がいないところで足を止めた。雨が甲羅を伝い、足元へ落ちていく。
妙見様はその背で姿勢を正し、空を見上げた。
何かを言っている。
要には雨音に遮られて、文言が聞き取れなかった。ただ、店で話していたときとは違う声だった。亀蛇も動きを止め、長い首を空へ向けた。
要は向かいの建物を見た。
壁は、まだ霞んでいる。雨の量も、すぐには変わらない。妙見様は空へ顔を向けたまま、片手を上げていた。
大国主様は軒の下へ留まり、妙見様と通りの様子を見ていた。向かいの軒先にいる人たちは、雨が弱まるのを待ったままだった。
そのとき、善一郎が窓から離れた。
要が顔を向けると、善一郎は厨房の奥を見ていた。
「マスター?」
「こちらも、確かめておくよ」
天照様があとに続いた。要も窓から離れ、厨房の手前まで来て足を止めた。
扉が開く。森の雨音が聞こえた。
善一郎の肩越しに、濡れた草が見えた。道の曲がり角は見えるところにない。いつもの道の脇とは違う、低い枝が扉の近くへ張り出していた。
「……また、ずれてます?」
要が尋ねると、善一郎は頷いた。
「閉めるよ」
扉が閉じる。善一郎は取っ手から手を離し、姿勢を正して、先ほどと同じ鎮めの言葉を唱えた。雨音の中で、一語ずつ区切る声が聞こえる。
要はその背中を見ていた。
窓の向こうでは妙見様が雨へ働きかけ、奥では善一郎が繋がりを鎮めている。どちらを見ればいいのか分からず、一度、店の窓へ振り返った。
ガラスを流れる水の筋の間に、向かいの店の看板が見えた。
要は目を凝らした。
さっきより、文字がはっきりしている。
「……雨、少し弱くなったかも」
天照様が窓へ顔を向けた。善一郎はまだ扉の前にいたが、その声に一度頷いた。
屋根を打つ音が変わっていた。絶え間なく響いていた音の間に、軒から落ちる大きな雫の音が混じり始める。
善一郎が奥の扉を開け直した。
今度は、土の道が見えた。曲がり角もある。
けれど、森ではまだ雨が降っていた。枝から落ちる水が、道の水たまりへ続けて落ちている。
天照様が善一郎の横から向こうを見て、頷いた。扉が閉められると、店の中は先ほどより静かになった。
要は窓へ戻った。
妙見様が手を下ろしていた。亀蛇は首をゆっくり振り、甲羅を伝う水を落とす。向かいの軒先にいた人が一人、手を出して雨の強さを確かめていた。
雨は止んでいない。それでも、さっきのように顔を上げられないほどではなくなっている。
要は入口へ向かい、扉を開けた。外へは出ず、妙見様が戻るのを待つ。
妙見様は亀蛇の背から下り、甲羅へ一度手を置いた。亀蛇の体が小さくなり、入ってきたときと同じ姿へ戻る。妙見様が店へ入ると、その足元についてきた。大国主様も通りを振り返ってから、あとに続いた。
要は二人が入ると扉を閉めた。
「弱くなりましたよね」
妙見様が窓へ目を向けた。
「今はな。もう少し、ここで見とくばい」
上着の裾から水が落ちた。要はカウンターへ用意しておいたタオルを取った。
「これ、使ってください」
「ありがとう」
妙見様が受け取った。大国主様にも渡し、要は入口に落ちた水を拭いた。
小さな亀蛇が妙見様の足元から首を伸ばした。椅子の下から出てきた猫と目が合い、ゆっくり首を傾ける。
猫はその場で座った。要は濡れた布を持ったまま二匹を見た。追いかけ合いでも始まったら困ると思ったが、どちらも動かなかった。
善一郎がカウンターへ戻ってきた。
「こちらも、もう一度鎮めました。開く先が、またずれていたので」
妙見様は顔を向けた。
「雨ば抑えとる間にも、ずれたとか」
「ええ。今は道が戻っています。ただ、向こうの雨は、まだ降っていました」
要は窓の外から厨房へ目を戻した。
こちらが弱まっても、向こうまで同じになるわけではない。それに、道はまたずれた。妙見様が来てくれたから、もう全部済んだと思ってよい話でもなかった。
天照様が携帯電話を取った。
「今のことを、稲荷にも伝えておく。九尾の行方は、引き続き追ってもらわねばな」
大国主様が頷いた。
「俺も、ほかへ知らせる。こちらの雨が弱まったことと、繋がりがまだ乱れることは、分けて伝える」
天照様は稲荷様へ電話を掛け、大国主様は少し離れた席で携帯電話を耳へ当てた。妙見様は窓際へ立ち、外の雨を見ている。小さな亀蛇はその足元にいた。
要はタオルを厨房へ戻し、カウンターの盆を持った。茶のカップは三つとも空になっていた。
洗っている間、窓を叩く音は弱いままだった。
善一郎が厨房の入口へ来た。
「それが済んだら、猫と上へ戻っていいよ」
要は水を止めた。
「マスターは、ここにいるんですよね」
「うん。妙見様も、もう少し見てくださるそうだ」
要は洗ったカップを水切りへ置いた。店には、自分より何をすればいいか分かっている人たちがいる。
「何か変わったら、連絡ください」
「分かった」
善一郎の返事を聞き、要は洗ったカップの脇へ盆を立て掛けた。鞄は上の部屋へ置いてきている。携帯電話と鍵がポケットにあるのを確かめ、カウンターへ戻った。
妙見様はまだ窓際にいた。足元で小さな亀蛇が首を伸ばす。
要が入口へ向かうと、猫が先に歩き出した。亀蛇も数歩ついていき、妙見様に呼ばれて足を止める。
「……そっちは、ついてこなくていいからな」
要が言うと、亀蛇は首を傾けた。猫だけでも部屋にいるのに、もう一匹増えては困る。要は亀蛇が妙見様のそばへ戻ったのを確かめ、猫と店を出た。
通りでは、軒先にいた人が傘を差して歩き始めていた。
道の端にはまだ水が流れている。雨も降っている。それでも、さっきのように向かいの建物が見えなくなるほどではなかった。
要は階段の前で、一度店を振り返った。
窓際に妙見様が立っている。その向こうで、善一郎が厨房へ戻っていくのが見えた。
雨を弱める人と、繋がりを守る人。今日は、その両方がいなければ済まないのだ。
要はポケットの携帯電話を確かめ、猫と階段を上がった。




