第23話 二つの雨音
善一郎は扉を閉めても、すぐには取っ手から手を離さなかった。
要は入口のそばに立っていた。猫が足元で体を伸ばし、座り直す。
「……道、戻せるんですか」
善一郎は振り返った。
「戻したいね。ただ、何が起きているのか確かめないと」
「いつもの場所へ開けようとして、あそこに出たんですよね」
善一郎は閉じた扉へ目を向けた。
「そうだよ」
天照様が扉へ近づいた。
「そなたの側で、変えたことはないな」
「ありません。地震のあと、一度はいつもの道へ開きました。その後にずれています」
要は厨房へ目を向けた。大国主様が歩いていった道を見たのは、そう前のことではない。部屋に戻り、本を拾った。それだけの間に、向こうの景色が変わってしまった。
「扉を閉めておけば、大丈夫なんですか」
「閉めても、繋がりの乱れが収まるわけじゃないんだ」
善一郎が答えた。
要は猫を見下ろした。足元から離れようとしてはいない。それでも、厨房へ行ったら追いかけてくるかもしれなかった。
猫を抱き上げ、窓際の椅子へ座る。膝に載せると、猫は要の腕へ顎を乗せた。
天照様がこちらを見た。
「そこからは動かぬように」
「はい」
要は猫の背へ手を置いた。
善一郎と天照様は、扉の前で低い声を交わしていた。要のところまでは、言葉がはっきり届かない。
携帯電話が震えた。実家からの返信だった。
『無事でよかった。余震に気をつけて。部屋は大丈夫?』
要は片手で返事を打った。
『本が落ちただけ。今は下の店にいる』
続けて、しばらく店にいると送る。
どうして戻ったのかまでは、書けなかった。膝の猫が頭を上げ、携帯電話へ鼻を近づける。
「食べ物じゃないぞ」
手を引くと、猫はまた顎を下ろした。
要が携帯電話をポケットへ戻すと、善一郎がこちらを見た。
「これから、繋がりの乱れを鎮めるよ」
「何か、手伝うことはあります?」
膝の猫を抱え直すと、天照様が首を振った。
「今はそこで待つのじゃ。手が必要なら呼ぶ」
要は頷き、椅子の背へ座り直した。
善一郎は閉じた扉の前に立ち、姿勢を正した。
「遠き世、近き世、隔ての境に結びし道よ。
荒ぶるものは鎮まり、揺らぐものは定まれ。
この門、今ここに鎮め申す」
要は膝の猫を撫でる手を止めた。普段の、語尾をゆるく伸ばす話し方ではなかった。言葉を一つずつ区切る声に、顔を上げる。
天照様は善一郎の横に立ち、その声が止んでからも、扉を見ていた。
善一郎はしばらく扉に向いたままでいた。それから取っ手へ手を掛け、ゆっくり開ける。
木々の間に、土の道が見えた。
「……道、あります」
要が言うと、善一郎は向こうを見たまま頷いた。
先ほど大国主様が歩いた道と同じように、少し先で曲がっている。見ている間に景色が変わることはなかった。
天照様が道の先へ目を向けた。
「道は戻ったようじゃな。だが、まだ通らぬほうがよい」
「ええ」
善一郎が扉を閉めた。要も猫の背へ手を戻したが、さっき見た曲がり角を思い浮かべていた。
「今の言葉で、戻したんですか」
「繋がりの乱れを鎮めるために唱えたんだよ」
「戻ったんですよね」
「今は同じところへ開いた。効いてはいると思う。ただ、これで全部済んだとは、まだ言えない」
要は頷き、閉じた扉を見た。
向こうへ確かめに行くのは、まだ待たなければならない。自分が歩いた道のすぐ先には、町がある。
ローエンさんは、まだ店で野菜を売っているのだろうか。リリアさんも、ビンハルトさんも、こちらで何が起きたか知らずにいるのかもしれない。
要はポケットの携帯電話へ手を当てた。友人にも家族にも知らせを送れたのに、あの人たちには送れない。
窓の外が暗くなった。
要は顔を上げた。向かいの建物の壁から、日が消えている。
帰宅する前には、明るかったはずだ。
窓に、雨粒が当たった。
一つ、二つと数えられたのは最初だけだった。すぐに大きな粒が続けて当たり、ガラスの上を流れ始める。
「雨……」
要が呟くと、天照様も窓へ顔を向けた。
通りを歩いていた人が、頭へ鞄を載せて走り出した。向かいの店の軒先に、二人、三人と駆け込んでいく。道路の色がみるみる濃くなる。
善一郎が厨房から出てきた。
「急だね」
「さっきまで、晴れてましたよ」
要は携帯電話で天気を開いた。画面に出た雨雲の図を見ても、この雨が普通のものなのか、判断はつかなかった。
天照様が窓際へ来る。
猫は彼女を見上げたあと、要の膝から下りた。椅子の下で丸くなる。
「これも、繋がりのせいですか」
「まだ、そうとは言えぬ」
天照様は外を見たまま答えた。
雨音が強くなった。軒先で雨宿りしている人の足元にも、水が跳ねている。
雨は、向かいの店が霞むほどになっていた。要が画面を更新すると、大雨を知らせる記事も出ている。自分の窓から見える通りだけで起きていることではなかった。
「……向こうも、こんなふうになってるんですかね」
要が厨房へ目を向けると、善一郎も奥の扉を見た。
「確かめてみよう」
要は膝から下りた猫が椅子の下にいるのを確かめ、立ち上がった。
「厨房の入口から、見てもいいですか」
「そこまでなら。僕より前には来ないでね」
天照様が先に入り、要はその後ろで止まった。善一郎が取っ手を回すと、窓を叩く音に、もう一つの雨音が重なった。
葉の一枚一枚を叩くような、細かな音だった。木々の間は薄暗く、枝から落ちた水が土をはねる。先ほど見えた道には小さな水たまりができ、その表面を次々に雨粒が崩していた。
「……降ってますね」
要は思っていたより小さな声で言った。
善一郎が体を少し横へずらした。道は同じところで曲がっている。枝の形も、脇に生えた草も、さっき見たものと変わらなかった。ただ、草は水を含んで重そうに垂れていた。
湿った風が厨房へ入り、要の腕に触れた。
「道は、まだ同じだね」
善一郎は敷居を越えずに、見える範囲へ目を走らせた。
要も道の先を見たが、曲がり角の向こうまでは分からない。雨音に混じって何か聞こえないか耳を澄ませても、葉を打つ音ばかりだった。
初めてここへ出たときには、善一郎のあとを歩くだけで町まで行けた。今はその人が扉の手前に立っている。見覚えのある道があるのに、それを歩いていいとは言ってくれない。
善一郎が扉を閉めた。
森の雨音が途切れ、店の窓に当たる音だけが残った。要は肩に入っていた力を抜き、厨房の入口へ寄りかかった。
「さっき、道を戻す前は、降ってなかったですよね」
「少なくとも、あのとき見たところではね」
善一郎は取っ手から手を離した。
「道が落ち着いても、雨は降るんですね」
言ってから、要は窓のほうへ目を向けた。こちらの雨も止んでいない。
天照様が、閉じた扉を見ながら答えた。
「道が定まったことと、ほかの異変も収まったことは、同じではないのじゃ」
「じゃあ、まだ……」
要は言いかけたまま、善一郎へ視線を戻した。
「うん。今の言葉でできたことはある。でも、向こうも雨が降っている。それは、別に確かめておかないとね」
善一郎の声は落ち着いていた。失敗したという顔でも、もう済んだという顔でもなかった。
要は取っ手を見た。さっきまで気にしていたのは、次に開けたときにも同じ道があるかどうかだった。道さえ戻れば、また仕入れに行ける気がしていた。
けれど、今の道を歩くなら傘がいる。町まで着けたとしても、あの市場がいつもどおり開いているとは限らない。
「町のほうは、見えないですよね」
「ここからでは分からない」
善一郎は短く答えた。
要は頷いた。知っている顔を思い浮かべても、無事かどうかは分からない。そのことが気になっていたが、自分が雨の中へ出れば確かめられる、とも思えなかった。
天照様は店内へ戻り、携帯電話を取り出した。要も窓際へ戻ると、椅子の下にいた猫が足へ体を寄せた。
猫の頭を撫でている間に、通話が繋がった。
「大国主か。わらわじゃ。善一郎が乱れを鎮め、いつもの道へ戻した。だが、こちらも森も雨が降っておる。町の様子は、まだ確かめておらぬ」
天照様は返事を聞きながら窓へ目を向けた。軒先へ逃げ込んだ人たちは、壁際に寄っても濡れている。
「こちらへ来られる者にも声を掛けてほしい。善一郎は門を見ておるのでな。雨への助力も頼みたい」
しばらく相手の話を聞いたあと、天照様は短く頷き、電話を下ろした。
「来てくれるそうじゃ。善一郎は、引き続き門を頼む」
「ええ」
善一郎が答え、カウンターへ戻った。天照様も椅子へ腰を下ろす。その前には、カップもグラスも置かれていなかった。
要は窓際の自分の椅子を見て、それからカウンターへ目を戻した。二人とも、先ほどから何も飲んでいない。
「お茶、淹れますか」
善一郎が顔を上げた。
「要くんが?」
「俺ができるの、それくらいなんで」
扉へ働きかける言葉は知らない。九尾を探しに行くこともできない。けれど、お湯を沸かして茶を淹れるなら、店で教わっている。
善一郎は少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、お願いしようかな。僕の分も」
要は頷き、猫が足元にいないことを確かめて厨房へ入った。
湯を用意し、茶葉を出す。カップを二つ並べたところで、善一郎が入口から声を掛けた。
「自分の分は?」
「……忘れてました」
棚へ戻ってもう一つ出すと、カウンターから天照様の声がした。
「そなたも飲むのじゃ。立ったままでなく、座ってな」
「はい」
今度は返事をしてから、三つのカップを見た。
手順を間違えないよう、茶葉の量を確かめる。湯を注いで待つ間も、雨音は聞こえていた。いつもの客の話し声はなく、奥の扉も閉じたままだ。それでも、湯気の中から知っている香りが上がると、要はようやく息を深く吸えた。
時間を見て茶を注ぎ、盆へ載せる。まず天照様の前に置き、善一郎の分はカウンターへ、自分の分はその隣へ置いた。
「ありがとう」
善一郎はカウンターの内側から出て、要の隣へ腰を下ろした。要も椅子へ座り、両手で自分のカップを包む。
猫が足元で座ったので、椅子を引くときに踏まないよう足を少し寄せた。
茶は熱く、そのままでは飲めなかった。息を吹きかけてから少し飲むと、喉を通った温かさが胸のあたりまで下りていく。
善一郎は一口飲んで、カップを置いた。
「こういうときに、淹れてもらえると助かるね」
「冷める前に飲んでくださいよ。また扉、見に行くんでしょう」
「そうだねぇ」
いつもの語尾が戻ったので、要はカップへ目を落とした。全部がいつもどおりになったわけではない。それでも、ずっと黙って扉を見ているよりはよかった。
天照様も茶を飲み、窓のほうへ顔を向けた。向かいの軒先からは、まだ人が動けずにいる。
「マスター」
要が呼ぶと、善一郎がこちらを見た。
「このままだと、次の仕入れも待ったほうがいいんですよね」
「うん。いつもと同じつもりでは行けないね」
要はカップを置いた。棚の食材は、使えば減っていく。向こうへ出られなければ、店の仕事にも関わってくる。
「店を開けるかどうかも、変わります?」
「変わるよ。こちらの様子も、仕入れのことも見て決めないと」
善一郎は窓を見たあと、厨房の奥へ視線を戻した。
「まず、この雨の間は閉めておこう。次の営業のことは、もう少し確かめてからだね」
要は頷いた。明日のことまで、もう決まっていると思っていた。店へ来て、茶を淹れ、客を待つ。そのいつもの予定を、今は決められない。
善一郎は残った茶を飲み、カップを置いた。要も最後の一口を飲む。窓を叩く音は続いていたが、カップから手を離す頃には、指先まで温まっていた。
「来てくださったら、俺が入口を開けます」
「うん、お願いするよ」
天照様も飲み終えたのを見て、要は三つのカップを盆へまとめ、カウンターの端へ寄せた。洗うのは少しあとでいい。雨に濡れて来る人がいるなら、タオルも用意しておいたほうがよさそうだった。
厨房からタオルを持って戻ると、天照様は窓の向こうを見ていた。善一郎もそのそばに立っている。
茶の香りがまだ残る店内で、要は二人と一緒に、表のベルが鳴るのを待った。




