第22話 開いた先
善一郎が扉の取っ手へ手を掛けた。
要は善一郎の後ろから、開いていく扉を見ていた。木々の間を抜けた光が厨房の床へ差し込み、湿った土と葉の匂いが届く。見覚えのある道が見えて、ようやく息を吐いた。
「……森ですね」
「うん」
善一郎は敷居の手前に立ち、外を見渡した。大国主様もその肩越しに向こうを見る。
要のいる場所からは、道の一部しか見えなかった。踏み固められた土の両側に草が生え、その先で木の陰へ曲がっている。
「今は、いつものところへ開いているね」
善一郎が言った。
「今は、って」
「確かめられたのは、この瞬間だから」
要は扉を見直した。普通に開いたことだけで、もう心配しなくていいとは言えないらしい。
大国主様が善一郎へ顔を向ける。
「少し出るぞ」
「お願いします」
大国主様は敷居を越えた。要は思わず一歩近づきかけたが、善一郎の後ろで止まる。
土を踏む音がした。
大国主様は道の曲がり角まで歩き、左右へ目を向けた。店から離れていく背中を見ていると、要も以前歩いた道を思い出す。あの先を行けば、市場町へ着く。
大国主様が戻ってきた。
「見える範囲に変わりはない。何かが通った跡も、俺には分からん」
「向こうの町も、揺れたんですかね」
要が尋ねると、大国主様は首を振った。
「ここを見ただけでは分からん。町の者に聞かねばな」
善一郎は扉を閉めた。
森の匂いが、厨房に少しだけ残った。窓から見る景色なら、閉じても窓の向こうにあると分かる。けれど、この扉の向こうについては、今見たものを覚えているしかなかった。
「マスターが、聞きに行くんですか」
「行くなら、まず僕だね。ただ、今すぐ町まで離れるのは避けたい」
「九尾が来るかもしれないから?」
「扉の様子を見ておきたいんだ。町まで行くと、すぐには戻れないからね」
善一郎は取っ手から手を離した。
要は大国主様へ目を向ける。
「向こうへ逃げたら、神様でも追いかけにくいんですか」
「こちらと同じようには動けん」
「今は、普通に出てましたけど」
「道を歩けることと、相手を見つけて捕らえられることは別だ」
大国主様は閉じた扉へ目を向けた。
「俺たちがよく知るのは、こちらの土地だ。あちらには、あちらの暮らしも土地もある」
要は頷きかけて、扉へ視線を戻した。
「それなら、逃げ込もうとする理由はあるんですね」
「その可能性は考えておかねばならぬ」
天照様が言う。
「ただ、九尾がここを知っているかも、まだ分からぬ。探す者が行方を追う間、こちらはこちらで備える」
大国主様は入口のほうへ顔を向けた。
「俺も戻る。ほかの者と話しておこう。分かったことがあれば、知らせに来る」
「お願いします」
善一郎が答える。大国主様はカウンターに置いていた上着を取り、袖を通した。
要はそのあとを追い、レジへ向かった。
「……お会計、まだでしたよね」
大国主様が足を止めた。
「そうだったな」
大国主様が財布から代金を出した。要はレジへ打ち込み、釣り銭を揃える。差し出した指が大国主様の手に触れると、彼は要の顔を見た。
「お前、手が冷えているぞ」
「地震のあとから、そんな感じです」
要は空になった手を握った。揺れが収まってからも、指先には力が入りにくかった。
「少し座っておけ。あとは善一郎に任せればいい」
大国主様は釣り銭を財布へしまい、入口へ向かった。
「また来る」
「……はい」
ベルが鳴り、大国主様が出ていった。
要は閉まった扉をしばらく見たあと、レジの引き出しを閉めた。カウンターへ戻ると、善一郎が椅子を一つ引いている。
「座ろうか」
「話、聞こえてました?」
「聞こえていたよ」
要は椅子へ腰を下ろした。天照様も隣の席へ戻ってくる。
善一郎がグラスに水を入れ、要の前へ置いた。
「僕が先に気づけばよかったね」
「動けないほどじゃないです」
「それでも、休んでいいんだよ」
グラスを手にすると、指先に冷たさが伝わった。
一口飲む。喉が渇いていたことに、今さら気づく。
天照様は隣の席で、要がグラスを置くのを待っていた。
「天照様は、帰らないんですか」
「もう少し、ここにおる」
天照様は厨房へ目を向けた。
「善一郎が一人で抱えることではないのじゃ」
要はグラスを置いた。
神様だと紹介されたときには、どう接すればいいのか分からなかった。今も、分かったとは言えない。ただ、善一郎のそばにいてくれるという返事には、少し安心した。
「俺は、どうしたらいいです?」
「今日は、もう上がっていいよ」
善一郎が言った。
要は時計を見た。いつもの勤務の終わりには、まだ早かった。
「部屋を確かめておいで。ここも揺れたんだから、何か落ちているかもしれない。ご家族にも連絡した?」
「……まだです」
友人二人には返したが、実家には何も送っていなかった。要は携帯電話を出す。
「先に、そちらを安心させておこう」
善一郎に言われ、要は短いメッセージを打った。自分は無事で、今はマンションの一階にいる。送信したあと、画面をしばらく眺めた。
「ここ、大丈夫なんですか」
「僕はいるよ。何かあれば、要くんにも連絡する」
要は善一郎へ目を向けた。
「あとで知らされるの、困るんで」
「分かった」
善一郎は頷いた。
要はグラスに残った水を飲み、立ち上がった。
「じゃあ、部屋を見てきます」
「うん。足元に気をつけてね」
厨房へ鞄を取りに行く。さっき閉じた奥の扉が目に入り、要はその前で一度止まった。
取っ手も扉の板も、働き始めた日から変わっていない。向こうも同じだと、さっきまでは思っていた。
鞄を肩に掛けて店内へ戻り、入口の扉を開ける。
猫は塀の際から出てきた。要の靴へ鼻を近づけ、ようやく体を擦りつける。
「お前も、帰るか」
頭を撫でると、猫は短く鳴いた。
マンションの入口まで歩き、要は空を見上げた。地震の前と変わらない明るさだった。向かいの建物にも、見える範囲では大きな傷はない。
要は猫と階段を上がり、部屋の鍵を開けた。
扉を開けると、机の端に積んでいた本が床へ落ちていた。窓ガラスは割れていない。猫は先に入り、床の本を避けて歩いていく。
鞄を置き、床の本を拾って机へ積み直した。最後の一冊を拾い上げたところで、携帯電話が鳴る。善一郎からだった。
「要くん。約束したから、知らせておこうと思ってね。扉の開く先がずれた」
要は本を机へ置いた。
「さっきと違う場所に、ですか」
「同じ森だと思う。ただ、いつもの道が見えなかった」
「……下に行ってもいいですか。俺も、見たいです」
「うん。猫も一緒に連れておいで。ただ、向こうへは出ないでね」
「はい」
通話を終え、要は携帯電話をポケットへ戻した。机の端に置いた鍵も取り、猫へ目を向ける。こちらを見上げていた。
「一緒に来ていいってさ。行くか」
入口へ向かうと、猫もついてきた。
店の扉を開ける。善一郎がこちらへ顔を向けた。
「おかえり」
要は猫が中へ入ったのを確かめ、表の扉を閉めた。猫は入口の脇に座った。
天照様は厨房で待っていた。要はそちらへ目を向ける。
「もう一度、開けるんですか」
「うん。さっき見た状態が続いているか、確かめる」
善一郎が奥の扉へ向かった。
天照様がこちらを向く。
「そなたは、そこにおれ」
要は入口のそばで頷いた。
善一郎が、もう一度取っ手へ手を掛ける。
開いた先には、木の幹があった。
道の両側に立っていた木々より近い。扉のすぐ向こうで、太い根が土から浮いている。さっき大国主様が歩いていた道は、見えるところになかった。
要は木の根から、その奥へと目を動かした。道が木陰へ曲がっていた場所まで、幹と下草に塞がれている。
「……さっきと違います」
善一郎が頷いた。
天照様は扉の向こうを見たまま、口を開いた。
「閉めるのじゃ、善一郎」
扉が閉じた。
要は入口に立ったまま、閉じた扉から目を離せなかった。




