第21話 地震のあとに
床に散った破片を見て、要は足を止めた。
割れたカップの持ち手が、厨房の入口まで転がっている。
「要くん、怪我してないね?」
善一郎に尋ねられ、要は自分の手を見た。
「はい。大丈夫です」
「よかった。片づける前に、ほかも確かめよう」
善一郎は棚を見上げた。端へ寄ったカップを奥へ戻し、厨房へ入る。要は入口のほうへ目を向けた。
奥の客が、テーブルからゆっくり身を起こしていた。携帯電話を耳へ当て、もう片方の手で椅子の背をつかんでいる。
「うん。店にいる。大丈夫」
要はその声を聞いてから、扉へ向かった。
外には何人か人が出ていた。通りの向こうで、店員らしい女性が空を見上げている。窓や看板を確かめているのだろう。車は走っていたが、いつもよりゆっくりに見えた。
扉を開ける。引っかかることなく動いた。
猫は塀の際にいた。身を低くしたまま、こちらを見る。
「そこにいろよ」
声を掛けても、いつものように足元へは来なかった。
要は入口を開けておき、店内へ戻った。
「マスター、ドアは開きます」
「ありがとう」
善一郎は厨房から顔を出した。
「今日は、いったん営業を止めよう。入口の札を返してもらえる?」
「はい」
札を裏返すと、「準備中」の文字が外を向いた。
要が戻る頃には、奥の男性も通話を終えていた。
「すみません。会計、できますか」
「はい。足元、気をつけてください」
レジまでの床には何も落ちていなかった。男性は本を鞄へしまい、携帯電話を握ったままカウンターへ来る。
「結構揺れましたね」
「そうですね」
要は代金を受け取り、釣り銭を渡した。指先にうまく力が入らず、硬貨を一枚、手のひらで揃え直す。
「気をつけてお帰りください」
「そちらも」
男性が扉を出る。通りへ向かう背中を見送ってから、要は開けていた扉を閉めた。
カウンターには、天照様と大国主様が残っていた。
「お二人も、怪我はないですか」
「ない。そなたも無事でよかった」
天照様が答える。大国主様も頷いた。
善一郎が箒とちり取りを持ってきた。
「僕がここを片づけるから、要くんはテーブルを見てもらえるかな。飲み物がこぼれていたら拭いておいて」
「分かりました」
奥の席のカップは倒れていなかった。縁から少しこぼれたコーヒーを拭き、食器を下げる。天照様のソーサーに溜まっていた茶も、厨房へ運んだ。
カウンターへ布巾を掛けたとき、携帯電話が震えた。
康平からだった。
『大丈夫か?』
続いて、千織のメッセージも入る。
『要くん、今お店? 怪我してない?』
要は短く返した。
『店。怪我はない。カップが一個割れた』
送信すると、すぐに康平から返事が来る。
『無事ならよかった。こっちも大丈夫』
千織も、怪我はないと返してきた。要は画面を見て、ようやく息を長く吐いた。
「お友達?」
善一郎が箒を壁へ立て掛ける。
「はい。二人とも大丈夫だそうです」
「それはよかった」
床の大きな破片はなくなっていた。善一郎は細かな欠片を確かめるように、厨房の入口でもう一度手を止めた。
そのとき、入口のベルが鳴った。
要は携帯電話をしまい、顔を上げた。
「すみません、今日は――」
入ってきたのは、子どもだった。小学生くらいに見える。ゆったりした袖の白い着物に、朱色の袴を着けていた。
要はその服装に目を留めた。時代劇で見るような格好の子が、一人で入口に立っている。
要は外へ目を向けたが、あとから入ってくる大人はいない。子どもは要を通り越して、カウンターへ視線を向けた。
天照様を見ると、足を止めた。
「こちらにおいででしたか」
「何があった?」
天照様は子どもへ向き直った。その真剣な顔を見て、要は言いかけていた営業の案内を飲み込んだ。
子どもは入口を振り返った。扉は閉まっている。店内にほかの客がいないことを確かめてから、天照様へ向き直る。
「九尾が、封印から逃れました」
善一郎の手が止まった。
大国主様が椅子から立ち上がる。
「封印が破れたのか」
「地震で石が割れています。確認に向かったときには、すでに」
要は子どもを見た。それから、善一郎へ目を向ける。
聞き間違いではなさそうだった。誰も、今の言葉を聞き返さない。
「行方は?」
天照様が尋ねる。
「まだつかめていません」
「ほかにも知らせは回しているか」
「はい。まず、こちらへ報告を」
天照様は頷いた。
「引き続き探してくれ。分かったことがあれば、すぐに知らせよ」
「承知しました」
子どもが頭を下げる。
要はカウンターの端へ手を置いた。さっきの地震とは別の理由で、立っている場所が落ち着かなくなっていた。
「……九尾って、狐の?」
三人の視線がこちらへ向いた。
要は続けようとして、口を閉じた。九本の尻尾がある狐。名前から思いつくのは、そのくらいだった。
善一郎が近づいてくる。
「そう。狐だよ」
「それが、逃げたんですか」
「うん」
天照様も大国主様もいる。もう、神様はいるのかと聞く段階ではない。それでも、狐が逃げた話を、この人たちが揃って真剣に聞く理由までは分からなかった。
子どもは要を見ていた。
「この方は?」
「ここで働いてもらっている子だよ。要くん、こちらは稲荷様」
善一郎が紹介する。
要は軽く頭を下げた。稲荷様も同じように返したが、挨拶の続きをする余裕はなさそうだった。
「では、私は戻ります」
「頼む」
大国主様が答えた。
稲荷様は扉へ向かい、外へ出た。ベルが短く鳴る。
要は、その音が止むまで入口を見ていた。
「危ないんですよね。その狐」
善一郎が頷く。
「だから、封じていたんだ」
「さっきの地震は、そいつが起こしたんですか」
「報告では逆じゃ。地震で封印の石が割れた」
天照様が答えた。
要はカウンターへ視線を落とした。こぼれた茶は拭いてしまった。カップも、割れたものを除けば棚へ戻せる。
店の中の片づけだけなら、それで済むはずだった。
「どこに逃げたかは、まだ分からないんですよね」
「ああ」
大国主様が言う。
「善一郎。こちらは変わりないか」
要は顔を上げた。
善一郎はすぐに答えなかった。厨房の奥へ目を向ける。
「少なくとも、地震の前までは」
「……こっちって、あの扉ですか」
要も奥を見た。
いつもの扉が、閉まっている。向こうを確かめたわけではないが、店内から見える限りでは何も変わっていなかった。
「ここにも来るかもしれないってことですか」
「今のところ、そういう知らせはない」
大国主様が答える。
「だが、あちらへ渡ろうとするなら、放ってはおけん」
「向こうへ逃げるんですか」
「そこまでは分からぬ。まず、行方を確かめねばな」
天照様はカウンターから離れた。
善一郎の横へ来て、厨房の奥を見る。要は二人の前を塞がないよう、一歩脇へ寄った。
「マスター」
「うん?」
「向こうに行くためだけの扉じゃないんですか」
善一郎がこちらを向くと、要は続けた。
「仕入れに行くって、そう説明されたんで。大国さんたちが気にするようなものだとは、思ってませんでした」
「そうだったね。ちゃんと話していなかった」
善一郎は布巾をカウンターへ置いた。
「こちらと向こうが繋がっていることで、二つの世界の均衡が保たれているんだよ」
「……均衡?」
要は厨房の奥を見た。
森へ出て、市場へ行き、買ったものを持ち帰る。あの扉を通ってしたことといえば、それだけだった。
「行き来できるだけじゃないんですか」
「うん。僕たちが仕入れに使うだけの繋がりじゃないんだ」
「それが駄目になると、何が起きるんです?」
善一郎は天照様へ目を向けた。
「繋がりが崩れると、何が起きるか分からぬ。以前、繋がりが切れそうになったときには、嵐が起こり、大地が震え、山が火を吹いた」
天照様が答えた。
「……前にも、そんなことがあったんですか」
「うむ」
「また繋がりが切れそうになったら、同じようなことが起きるかもしれないんですね」
「その恐れはある」
要はポケットへ手を入れた。携帯電話の角が指に触れる。
康平も千織も、無事だと返してきた。家へ帰ったらそれで終わりになる話ではないのかもしれない。
「向こうだけの話じゃ、ないんですね」
「両方じゃ」
天照様の返事に、要は黙った。
善一郎がここから仕入れをしていることは、二人には話していない。説明のしようもないと思っていた。けれど、知らずにいるから関係がない、とは言えない話だった。
「……そうならないようには、できるんですか」
「そのために、僕がいるんだよ。僕は、この繋がりを守る門守なんだ」
要は善一郎へ顔を戻した。
「門守」
聞き慣れない言葉を繰り返す。善一郎は頷いた。
「店をやるほかに、そんな仕事もしてたんですか」
「要くんが見ていたのは、店の仕事のほうだったからね」
要はカウンターを見た。閉じたメニューと、畳んだ布巾が置かれている。ついさっきまで、そこで茶の味やケーキの話をしていた。
「いつ、やってるんです? 俺が帰ってからとか?」
「普段は、僕がここにいることで保たれている。毎日、何か作業をするわけじゃないんだ」
「ここにいるだけで?」
「うん。ただ、異常が起きたときには動く。僕だけでは済まないこともあるから、神様方にも力を借りるんだよ」
大国主様が善一郎の横へ来た。
「だから、こちらが変わりないか聞いた。繋がりの様子は、善一郎が確かめる必要がある」
要は二人を見た。
「出雲で店のことを報告するっていうのも、それですか」
「そう。この繋がりを預かっている者として、ご挨拶に行く」
バイトを雇った話をするのか、と軽く聞いたことを思い出した。善一郎も笑って答えていた。その話まで嘘だったとは思わない。ただ、ほかにも報告することがあったのだ。
「最初に言ってくれてもよかったでしょう」
「そうだね。扉を見せたときに、話しておけばよかった」
今度は、冗談が返ってこなかった。
要は厨房へ目を向けた。善一郎が開けなければ、向こうの様子は見えない。さっきまでと同じ閉じた扉が、今は気になって仕方がなかった。
「……確かめるんですよね。変わってないか」
「うん」
「俺も、ここにいていいですか。もう少し、話を聞きたいです。それに、仕入れで通ったときと違えば、俺でも気づくことがあるかもしれないんで」
善一郎は要を見た。
「分かった。ただ、開けるのは僕がする。要くんは、ここで待っていて」
「……分かりました」
善一郎は厨房へ入り、奥の扉の前で足を止めた。
大国主様もカウンターを回って、その後ろへ続く。
要は天照様と並んで、少し離れたところから二人を見た。携帯電話をポケットへ戻す。
向こうも、こちらも、変わりないと言ってほしかった。




