第20話 茶を頼んだ客
大国主様が次に店へ来たのは、出雲の話を聞いてから三日後だった。
要は窓際のテーブルから空の皿を下げていた。入口のベルが鳴り、顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
見覚えのある男の後ろから、若い女性が入ってきた。
長い髪を背中へ流し、白いブラウスに淡い色のスカートを合わせている。要とそれほど年が離れているようには見えなかった。店内を見渡したあと、カウンターの善一郎へ目を向ける。
「久しいの、善一郎」
「いらっしゃい。お元気そうで」
「そなたもな」
要は二人を交互に見た。
知り合いなのは分かる。ただ、女性の話し方は、見た目から想像したものとだいぶ違っていた。
「今日は二人だ。カウンターでいいか?」
大国主様に尋ねられ、要は盆を持ち直した。
「どうぞ」
二人が席へ向かう間に、皿を厨房へ運ぶ。戻ると、女性は椅子へ腰を下ろし、卓上のメニューを開いていた。
「茶も増えたのか」
「ええ。よかったら試してみます?」
「では、それを。甘いものは何があるのじゃ?」
「今日はチーズケーキですよ」
「それももらおう」
「俺はコーヒーにする。ケーキも同じで」
要は注文をメモし、善一郎へ渡した。
「お水をお願いしますね」
「はい」
グラスを二つ用意してカウンターへ置くと、女性が要へ顔を向けた。
「そなたが要か」
「……はい」
また、先に名前を知られている。
「善一郎が、よく働く子を雇ったと言うておったぞ」
「どこまで話してるんですか、マスター」
「働いてくれているって話だよ」
善一郎は茶葉の缶を開けながら答えた。
「それは聞きました」
「知らぬ相手に名を呼ばれて、戸惑うたか?」
女性が尋ねる。
「いえ。知らない人が俺のことを知ってるの、ちょっと落ち着かないだけです」
「そうか。こちらはまだ名乗っておらなんだな」
彼女はメニューを閉じた。名乗ろうとしたところで、窓際の客が席を立つ。
「すみません、お会計を」
「はい」
要はレジへ向かった。二人分の会計を済ませ、入口で見送る。外では猫が窓の下に座っていた。客の一人がしゃがんで手を差し出したが、猫は鼻先を近づけただけで、撫でられる前に顔を背けた。
客が笑いながら立ち上がり、連れと歩いていく。
要がカウンターへ戻ると、女性は外を眺めていた。
「気ままなものじゃ」
「いつもあそこで待ってるんです。俺が帰ると、ついてきます」
「ほう」
女性は要を見て、それから大国主様へ目を向けた。大国主様がわずかに口元を緩める。
「何ですか」
「いや。気に入られたのだろう」
「何もしてないんですけどね」
店内に残った客は、奥のテーブルで本を読んでいる男性だけだった。
善一郎がカウンターへ近づき、少し声を落とした。
「要くん。こちらは天照様だよ」
要はグラスを揃えようとしていた手を止めた。
「……アマテラス?」
「うむ」
女性が頷く。
アマテラス。太陽の神様だったはずだ。要は目の前の女性を見た。名前は知っていても、喫茶店でチーズケーキを頼む姿までは想像したことがなかった。
要は善一郎へ目を向けた。冗談を言ったあとの顔ではなかった。
「神様、ですよね」
「そうだよ」
「そんなに小さな声で話さずとも、ここまでは聞こえぬ」
天照様は奥の席を一度見てから言った。彼女自身の声も、先ほどより控えめになっている。
「いや、俺が変なことを言いそうなんで」
「変なこととは?」
「……何を言えばいいのか、分からないです」
大国主様はグラスを手に取った。
「普通に接客すればいい」
「それはしますけど」
「茶を頼んだ客じゃ。それでよい」
天照様に言われ、要は手元へ目を戻した。グラスはもう二人の前に置いてある。何か運ぶふりをすることもできず、結局、布巾を取りに厨房へ戻った。
善一郎がケーキを切り分けている。
「急に紹介するの、やめてもらえませんか」
「先に言ったら、緊張するでしょう?」
「あとでもしてます」
善一郎は笑い、皿を二枚差し出した。
「そうかい。まずはケーキを運んでもらおうかな」
要は盆へ載せた。フォークの向きを揃えてから、カウンターへ運ぶ。
天照様は皿を受け取ると、すぐにフォークを手にした。
「いただこう」
一口食べ、ゆっくり噛む。
「うむ。これはよいな」
「ありがとうございます」
善一郎が茶を置いた。大国主様の前にもコーヒーが届く。
要は盆を脇へ置き、大国主様へ顔を向けた。
「大国さん。聞きたいことがあるんですけど」
「縁の話か?」
「違います、それはいいです」
天照様が茶のカップを口元へ運びながら、二人を眺めている。要は昨日まで考えていた質問を、忘れる前に口にした。
「出雲に神様が集まるって聞きました。何をするんですか」
「善一郎からか」
「はい。秋に挨拶に行くって」
大国主様は善一郎を見た。善一郎は頷き、使い終えたポットをカウンターの内側へ戻した。
「それぞれの土地のことを持ち寄って話す。人の暮らしも、土地の様子も、同じままではないからな」
「神様の会議みたいなものですか」
「そう思っても構わん」
「縁の話だけじゃないんですね」
「それもする」
「結局するんですか」
「お前が聞いたから答えたんだぞ」
要は黙った。今回は確かに、自分から話に出してしまった。
天照様がカップを置く。
「人は、縁と言われるとすぐ恋の話を思うようじゃが、そればかりでもあるまい」
「家族とか、ですか」
「友も、仕事で出会う者もな。そなたと善一郎も、ここで会うたのであろう?」
「……まあ、そうですね」
部屋から近い。それが、この店で働こうと思った理由だった。
面接のために遠くまで行く必要もなく、朝の講義がない日にはすぐに出勤できる。そう思って声を掛けたら、仕入れ先は裏口の向こうにあって、客には神様まで混じっていた。
「もう少し普通のバイトだと思ってましたけど」
「僕は助かってるよ」
善一郎が言う。
「それ、こないだも聞きました」
「何度でも言うよ」
天照様は小さく笑った。
「悪い出会いではなかったようじゃな」
要はすぐに返せず、カウンターへ置いていた盆を持ち上げた。
「……皿、下げてきます」
先ほどの客が使っていたテーブルには、まだグラスが二つ残っていた。
食器を下げ、テーブルを拭く。窓の外の猫は、前脚を伸ばして座り直した。こちらを見ていたが、要が近づいても立ち上がらない。
厨房でグラスを洗っていると、カウンターから茶の話が聞こえてきた。
「これは要くんも淹れるようになったんですよ」
「ほう。では、次はそなたに頼もうか」
要は水を止め、顔を出した。
「マスターほど上手くはないです」
「善一郎の茶とは、今比べられる。次に飲めば、そなたの茶とも比べられよう」
「結構、緊張するんですけど」
「ならば、味の違いを当てる役は大国主に任せよう」
「俺に振るのか」
「気になるのは、縁ばかりでもあるまい?」
大国主様は手元のカップを見た。
「俺はコーヒーを飲みに来たんだがな」
要は少し笑った。
そのあと、奥の客がコーヒーのおかわりを頼んだ。要が空のカップを下げ、善一郎が新しい一杯を淹れる。天照様と大国主様は、急ぐ様子もなくケーキを食べていた。
神様だからといって、注文が違うわけではない。おかわりが欲しくなれば頼むし、皿が空けば、こちらが下げる。
要は二人の皿を盆へ載せた。
「おいしかったぞ」
天照様が言った。
「マスターに伝えます」
「そなたは運んでくれた。礼くらい受け取るがよい」
「……ありがとうございます」
皿を下げたあと、善一郎に頼まれ、予備のソーサーを棚から出した。次の客が来てもすぐに使えるよう、カウンターの内側へ重ねる。
そのうちの一枚を手に取ったとき、かすかな音がした。
棚のカップが触れ合っている。
要が顔を上げるより先に、足元が揺れた。
「地震――」
重ねたソーサーが横へずれた。押さえようと伸ばした手を、善一郎が止める。
「要くん、棚から離れて」
低い声だった。
要はソーサーを置き、カウンターの端から離れた。床がもう一度、大きく動く。背後で食器が鳴り、吊り下げられた照明が左右へ振れた。
奥の男性が立ち上がりかけていた。
「そのまま、頭を守ってください」
善一郎が声を掛ける。男性は椅子へ戻る代わりに、テーブルの下へ身をかがめた。
要もしゃがみ、腕で頭を覆った。
窓の外で猫が塀の際へ走るのが、一瞬だけ見えた。続いて何かが割れた。音がしたのは、店の中だった。
揺れはすぐには収まらない。
カウンターの向こうに、大国主様の足元が見える。椅子から降り、天照様の隣に身を低くしていた。
「要くん、大丈夫?」
「はい」
返事をした声が、自分で思ったより硬かった。
ようやく床の動きが弱まっても、要はしばらく立ち上がれなかった。棚の食器が鳴る音も止み、今度は奥の席で携帯電話の音がした。
善一郎が先に顔を上げる。
「怪我はありませんか」
男性が、テーブルの下から頷いた。
要は足元を確かめながら立った。棚から落ちたカップが、厨房の入口で割れている。さっきまで自分がいた場所に、白い破片が散っていた。
「動かなくていいよ。足元に気をつけて」
善一郎はそう言ってから、二人へ目を向けた。
天照様は椅子に手を添えて立ち上がっていた。大国主様も身を起こす。二人のケーキの皿を下げておいてよかった、と要は場違いなことを思った。
天照様のカップでは、こぼれた茶がソーサーに溜まっていた。
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