第19話 出雲の予定
康平と千織が帰る頃には、窓から入る光がテーブルの端まで伸びていた。
「お茶、ごちそうさま。また飲みに来るね」
会計を終えた千織が、要へ顔を向ける。
「次はマスターが淹れるかもしれないけど」
「要くんが淹れる日でもいいよ」
「俺はケーキがある日に来る」
康平が続けると、千織は呆れたように笑った。二人を見送った要は、空いたテーブルを片づけてから、残っていた仕事へ戻った。
その後も何人か客が来た。善一郎の淹れたコーヒーを運び、注文を聞き、食器を下げる。自分で茶を淹れたのは二人の分だけだったが、仕事が終わる頃には、足にも少し疲れが出ていた。
「今日はここまででいいよ。お疲れさま」
善一郎に声を掛けられ、要は時計を見た。
「お疲れさまです」
店にはもう客がいなかった。要が鞄を取りに厨房へ入ると、善一郎はカウンターの下から一冊の手帳を出した。
仕入れの予定でも確かめているのかと思ったが、開いたページを見たまま、しばらく動かない。
「何か忘れたんですか」
「いや。まだ少し先の予定を見ていてね」
善一郎はペンを持ち、余白へ何か書き込んだ。
「秋に、何日か店を休むことになると思う。日が決まったら、要くんにも早めに伝えるよ」
「旅行ですか」
「出雲へね」
要は鞄を肩へ掛けかけ、手を止めた。
出雲という地名は知っている。大きな神社があるところだったはずだが、場所を聞かれたら、地図を見ないと少し怪しい。
「神社に行くんですか」
「うん。挨拶をしに」
「マスターもお参りとかするんですね」
言ってから、妙な聞き方だったかもしれないと思った。喫茶店の店主がお参りをしてはいけない理由はない。
善一郎は手帳から顔を上げた。
「するよ。顔を合わせておきたい方もいるしねぇ」
「……大国さんとか?」
「そう。あの方にも会うよ」
要は鞄をカウンターの椅子へ置いた。
観光旅行の話ではないらしい。
「そこ、もうちょっと普通に説明してもらっていいですか」
「座るかい?」
「話、長いんですか」
「要くんがどれだけ聞くかによるかな」
前にも聞いたような返事だった。要は鞄を隣へ移し、椅子に座った。
善一郎は手帳を脇へ置く。
「神無月って、聞いたことはある?」
「月の呼び方ですよね。神様がいないって書くやつ」
「うん。その頃、神々が出雲へ集まるんだよ」
要は少し考えた。学校でそんな話を聞いたことがあるような気もする。詳しく覚えてはいなかったが、神様がどこかへ集まるという話自体は、まったく初めてでもなかった。
「それ、本当に集まるんですか」
「集まるよ」
善一郎は、店に常連客が来る話と変わらない調子で答えた。
要はカウンターへ目を落とした。昨日、ここで味噌天神様が茶を飲んでいた。その前には大国主様がケーキを食べていた。今さら集まりだけを否定しても、あまり意味がないのかもしれない。
「……じゃあ、大国さん以外も?」
「もちろん」
「味噌天神さんも行くんですか」
「今年の予定は、本人に聞いてみないとね」
何でも善一郎が知っているわけではないらしい。要は頷いてから、改めて手帳へ目を向けた。
「それに、マスターも行くんですよね」
「そうだよ」
「神様じゃないのに?」
善一郎が目を細めた。要はその顔を見て、余計な質問をした気がしたが、もう遅い。
「長い付き合いだからね。店のことも、ご挨拶しておきたいんだ」
「店のこと?」
「こちらも変わりなくやっています、って」
コーヒーを売って、ケーキを焼いているという報告なのだろうか。
要は厨房の奥へ目を向けた。あの扉のことも知っている大国主様へ挨拶に行くなら、ほかの神様にも、同じように店の事情を知る人がいるのかもしれない。
「バイトを雇いました、とかも?」
「それは話すと思うよ」
「俺の話、どこまでしてるんですか」
「一緒に仕入れに行ったことは、大国さんに話したね」
「聞きました」
善一郎は笑った。
「昨日はお茶を淹れてくれたし、今日はお友達にも飲んでもらった。そういう話もできるねぇ」
「全部報告しなくていいです」
「そうかい? 要くんが手伝ってくれるようになって、僕は助かっているんだけど」
要は返事をせず、椅子の横に置いた鞄の持ち手を直した。
窓の下で猫が体を起こした。こちらが仕事を終えたことまで分かるわけではないだろうが、もう帰るつもりで待っているように見える。
要は善一郎へ視線を戻した。
「出雲に行ってる間、店はどうするんですか」
「休みにするよ」
答えを聞いて、要は肩の力を少し抜いた。
「よかった」
「一人でやってみたいかい?」
「無理です」
今は茶を淹れるだけでも見てもらっている。コーヒーも料理も、善一郎がいなければ出せない。
「返事が早いねぇ」
「できないことを、できるって言うほうが困るでしょう」
「その通りだね」
善一郎は頷き、手帳を閉じた。
「日程が決まったら、入口にもお知らせを出そう。要くんにも手伝ってもらえるかな」
「それなら、店番よりはできます」
要が答えると、善一郎は声を出して笑った。
休みの知らせなら、自分にも作れる。何日から何日までと分かれば、客に聞かれても答えられる。神様へ挨拶に行くという事情まで、張り紙に書く必要はないだろう。
「客に聞かれたら、何て言います?」
「店主の都合で、お休みします、でいいよ」
「そこは企業秘密じゃないんですね」
「それがいい?」
「都合で、でいいです」
善一郎はまだ笑っていた。要は鞄を取り、椅子から立った。
秋の予定が決まるまで、まだ時間はありそうだった。明日の勤務が急に変わるわけでもない。ただ、これからもずっと善一郎がカウンターに立っているものだと、何となく思っていたことに気づく。
善一郎には、店を休んででも会いに行く相手がいる。
「神様が集まるって、何するんですか」
鞄を肩へ掛けながら尋ねると、善一郎は手帳をカウンターの下へ戻した。
「それは、大国さんに聞いてみるといいよ。僕は挨拶に行く側だからね」
「また縁の話にされそうですけど」
「そこも含めて、何を聞くか考えておこうか」
「含めたくないです」
善一郎の笑い声を背に、要は扉を開けた。
外の猫が立ち上がり、足元へ来る。要は頭を一度撫でてから、マンションの入口へ向かった。
まだ聞いていないことは、店の裏側だけにあるわけではないらしい。
鞄の中には、茶の淹れ方と感想を書いたメモ帳がある。次に大国主様が来たら、出雲で何をするのか聞いてみよう。
縁の話を始められる前に、自分から聞けばいい。




