第18話 友人に出すお茶
翌日、講義が終わってノートを閉じたところで、康平が要の机へ身を寄せた。
「で、猫は?」
要は顔を上げた。康平の後ろでは、千織が鞄へ筆記具をしまっている。
「部屋」
「お前の?」
「ほかに誰の部屋があるんだよ」
「いや、まだ外にいるのかと思ってた。あの写真、店の前だったろ」
写真を送った日から、猫は要の部屋で寝ている。朝、要が出掛けるときには善一郎へ預けてきた。帰れば、また一緒に階段を上ることになるのだろう。
「ひとまず預かってる。マスターにも相談して」
「そうなんだ。見に行っていい?」
千織が鞄を肩へ掛けた。康平も、もう行くつもりの顔で要を見ている。
「店に来れば会えると思う」
「じゃ、今日行くか」
「お前、暇なの」
「猫を見るくらいの時間はある」
康平が胸を張ったので、要は鞄を持って立ち上がった。
「ケーキも食べるくせに」
「そこは否定しない」
千織が笑い、教室の出口へ向かう。要と康平もそのあとに続いた。
廊下へ出ると、別の教室からも学生が流れてきていた。三人は人を避けながら階段へ向かう。途中で康平が昼を食べてから行こうと言い出し、結局、学食へ寄ることになった。
ケーキのために昼食を抜くつもりまではなかったらしい。
食事を受け取って席につくと、千織は鞄を隣へ置いた。康平がその向かいへ座り、要は空いている椅子を引く。
「今日もバイト?」
千織に聞かれ、要は頷いた。
「このあと」
「じゃあ、私たちが行っても、要くんは働いてるんだ」
「いつもそうだろ」
「前は一緒にケーキ食べたじゃない」
「あのときは、まだ入る前だったから」
要は箸を取った。昨日も店へ行ったが、ほとんどの時間を市場と茶の試飲に使っている。普通に仕事をしていたと言っていいのか、少し迷った。
「昨日も店にいたの?」
康平が聞く。
「仕入れに行ってた」
「また変わった果物?」
「果物も。あと、お茶」
茶葉を買う予定ではなかったのに、帰りには小さな袋が増えていた。善一郎は、リリアに勧められた茶を断る気が最初からあまりなかったのかもしれない。
「どんなお茶?」
千織が顔を上げた。
「青いやつ。花みたいな香りがする」
「青い?」
康平も箸を止めて要を見た。
「そう。淹れると青くなる」
「それも仕入れ先は秘密なの?」
千織が少し笑った。
「そこはマスターに聞いて」
要は水を飲み、初めてあの茶を飲んだときのことを思い出した。
「昨日、淹れ方を教えてもらった」
何気なく言うと、千織がこちらを向いた。
「要くんが淹れるの?」
「マスターに見てもらいながらなら」
「じゃあ、今日それ頼もうかな」
要の箸が止まった。
「まだ一回教わっただけなんだけど」
「マスターもいるんでしょ?」
「いるけど」
「飲んでみたい。ケーキのときも、要くんが手伝ったって聞いたら、ちょっと違って見えたし」
千織はそう言って、また食事へ目を戻した。康平が横から要を覗き込む。
「俺もそれにしようかな」
「お前はコーヒーじゃないの」
「たまには変える。お前の初仕事を見届けないとな」
「初仕事じゃない」
昨日は、神様にも飲んでもらった。
そこまで言いかけ、要は食事へ視線を落とした。口に出してから説明を考えるには、向いていない話だった。
「もう客に出したの?」
「昨日、一杯」
「なんだ。先越された」
「競争してないだろ」
康平は笑いながら、残っていたご飯を口へ運んだ。
◇
店に着くと、猫は窓の下で丸くなっていた。
康平が近づくと顔を上げたが、立ち上がりはしない。千織が少し離れたところへしゃがみ、手を差し出す。猫は指先へ鼻を近づけてから、頭を下げた。
「撫でていいってことかな」
「嫌なら離れるんじゃない」
要が答えると、千織はそっと頭へ触れた。康平も隣へしゃがみかけたが、入口から出てきた善一郎が三人を見て笑った。
「いらっしゃい。今日は外が人気だねぇ」
「マスター、猫に会いに来ました」
康平が言う。善一郎は猫へ目を向けてから、扉を押さえた。
「それは残念だな。ケーキもあるんだけど」
「それもお願いします」
「早いな」
要が言うと、千織が立ち上がりながら笑った。
康平と千織は客として席へ向かい、要は厨房へ入った。鞄を置き、手を洗って戻ると、善一郎が二人のテーブルへ水を運ぶところだった。
「お茶、要くんが淹れたのを飲んでみたいんだって」
戻ってきた善一郎が言う。
「さっき聞きました」
「どうする?」
要はテーブルへ目を向けた。康平がこちらに気づき、片手を上げる。その向かいで千織はメニューを閉じていた。
昨日のメモ帳は、鞄に入っている。
「……見ててもらっていいですか」
「もちろん」
善一郎はポットを取り出した。要もメモ帳を持ってきて、昨日のページを開く。
葉を量るときには、善一郎へ一度確かめた。湯を注いでタイマーを動かすところまでは、昨日より迷わずできたが、二つのカップを並べると、量が揃わなかったことを思い出す。
「昨日と同じくらいなら、大丈夫だよ」
善一郎がカップへ目を向けて言った。
「分かってます」
「そんなに睨まなくても」
「睨んでないです」
要はポットを見た。背後で善一郎がケーキを切り分けている。テーブルのほうから康平の笑い声が聞こえたが、何を話しているのかまでは分からなかった。
タイマーが鳴ると、要は持ち手を握った。
片方へ少し注いでから、もう一方へ移す。もう一度見比べ、足りないほうへ足した。昨日よりは揃っているように見える。
「はい。持っていこうか」
善一郎がケーキの皿を盆へ載せた。要は茶を二つ添え、テーブルへ向かった。
「お待たせしました」
「お。ほんとに青い」
康平が身を乗り出した。
「要くんが言ってたでしょ」
「聞くのと見るのは違うだろ」
千織はカップを持ち上げ、香りを確かめた。要が盆を脇へ下げると、まず一口飲む。
「……うん。おいしい」
要は、手元の盆を持ち直した。
「渋くない?」
「うん。飲みやすいよ」
「なんで渋い前提なんだよ」
康平も飲んでから言った。
「昨日、置く時間で違うって教わったから」
「ああ、そういうことか」
康平はカップを置き、すぐにフォークを取った。千織もケーキへ手を伸ばす。要が立ったまま二人を見ていると、康平が顔を上げた。
「感想、もうちょい待つ?」
「いや。仕事戻る」
「うまいぞ」
「……なら、よかった」
要は盆を持ってカウンターへ戻った。善一郎がこちらを見ていたが、何か言われる前に盆を置く。
「大丈夫そうです」
「よかったね」
要はメモ帳を閉じた。二人のところへ戻って、もっと聞こうかとも思ったが、千織はちょうどケーキを口へ運んでいた。
そのまま食べてもらえばいい。
入口のベルが鳴り、要は水を用意した。今度の客は窓際の席へ座り、コーヒーを頼んだ。注文を善一郎へ伝え、用意されたカップを運んでいるうちに、康平たちの皿も少しずつ空になっていった。
店内が落ち着いた頃、千織がこちらへ軽く手を上げた。
要がテーブルへ向かうと、千織はカップの中を示した。
「冷めたら、ちょっと甘くなるね」
「そう。昨日もそうだった」
「砂糖、入ってないよね?」
「入れてない」
「不思議。温かいときより、こっちのほうが好きかも」
千織はもう一口飲んだ。康平が自分のカップへ目を落とす。そちらは、ほとんど空だった。
「残しとけばよかった」
「少し飲む?」
千織がカップを持ち上げかけたところで、康平が顔を向けた。
千織の手が、途中で止まった。
千織はカップを戻し、カウンターへ目を向けた。
「……もう一杯頼めば?」
「そうする」
康平の返事が、さっきより少し早かった。
要は二人から視線を外した。注文を書こうとメモを出しかけると、康平が指を一本立てる。
「今度はコーヒーで」
「茶じゃないのかよ」
「ケーキの残りと飲みたいんだって」
皿には、一口分ほど残っていた。千織はそれを見て口元を緩めたが、何も言わずに茶を飲んだ。
要はカウンターへ戻り、追加の注文を伝えた。
善一郎がコーヒーの用意を始める。その横で要はメモ帳を開き、昨日書いた「冷めたら甘かった」の下へ、千織の言葉を短く書き足した。
冷めたほうが好き、という人もいる。
リリアに伝えたら、自分の感想だけを話すより喜ぶかもしれない。
「何か増えた?」
善一郎が手元を見ずに尋ねた。
「感想です。千織が、冷めたほうが好きだって」
「そう。リリアに話せるね」
要は頷いた。ペンをしまおうとして、昨日、聞かずに終わったことを思い出す。
「マスター。向こうで店の客の話をしてもいいんですか」
声を落とすと、善一郎がこちらを向いた。
「どんな話?」
「お茶がおいしかったとか。昨日の人にも、飲んでもらったんで」
「感想は伝えていいよ。喜ぶだろうね。ただ、あの方が神様だという話は、しないでおこうか」
「普通に、お客さんに飲んでもらった、でいいですか」
「うん。それなら、その通りだからね」
要はメモ帳を閉じた。昨日の一杯と、今日の二杯。リリアに話すことは、思っていたより増えている。
善一郎からコーヒーを受け取り、要は二人のテーブルへ運んだ。
康平は皿に残したケーキを、まだ食べずに待っていた。カップを置くと嬉しそうにフォークを取る。
「よく残してたな、それ」
「コーヒー来るまでって決めたから」
千織が笑った。カップに残っていた青い茶は、もうわずかだった。
要が空いた皿を下げようとすると、康平がふと思い出した顔でこちらを見た。
「そういえば、猫の名前は?」
「まだない」
「ずっと猫って呼ぶのか?」
要は窓へ目を向けた。壁際で寝ていた猫が顔を上げ、こちらを見ている。
今夜も、自分の部屋へついてくるのだろう。
「……そのうち考える」
康平は何か言いたげに笑ったが、要が皿を持ち上げると、口を開く代わりにコーヒーを飲んだ。
要はカウンターへ戻り、窓の下をもう一度見た。
部屋へ戻ったら、少し考えてみるか。
猫は目を細め、また前足の間へ顔を戻した。




