第2話 初めての仕事
翌日、講義を終えて帰宅した要は、自室で黒のパンツと無地のシャツに着替えてから、一階の喫茶店へ向かった。
通勤時間、ほぼゼロ。
昨日ここで働くと決めた理由の半分くらいは、それだった。
「……楽だな」
少なくとも、満員電車に揺られて別の駅まで行くよりはいい。
扉を開けると、からん、と昨日と同じベルが鳴った。
「こんにちは」
「お、来たね」
カウンターの奥から善一郎が顔を出した。
昨日と同じように白髪の混じった髪を適当に撫でつけ、シャツの袖を肘までまくっている。その姿だけ見れば、長年ここで店をやっている店主にしか見えない。
昨日の朝まで、この店そのものがなかったことを除けば。
「何からやればいいですか」
「その前に、まずは格好からだね」
善一郎がカウンターの下から黒いエプロンを取り出した。
「制服とかあるんですか」
「制服というほど立派なものじゃないよ。これだけ」
要は受け取って広げた。胸元に小さく『むすびの杜』と刺繍されている以外は、ごく普通の黒いエプロンだった。
「これ着ければいいんですね」
「ああ。着けたら、店の中を一通り教えるよ」
「はい」
エプロンを身につけると、善一郎はカウンターの内側から説明を始めた。
食器の場所。水とおしぼり。伝票。レジ。客が帰ったあとの片づけ方。コーヒーは当面、善一郎が淹れる。調理も今日は見ているだけでいいらしい。
覚えることは多いが、特別変わったことはない。
「注文を取って、運んで、片づける。まずはそこからだね」
要は一通り教えられた店内を見回した。拍子抜けするほど、やることは普通だ。
「昨日聞いたまんまですね」
「だから言っただろう。普通の仕事だって」
「そうですね」
要は何気なくカウンターの奥を見る。
昨日、鳥の声が聞こえた扉は閉じたままだ。厨房のさらに奥。木製の、どこにでもありそうな扉だった。
「気になるかい?」
いつの間にか善一郎がこちらを見ていた。
「まあ、ちょっと」
「そのうちね」
善一郎はそれだけ言うと、何事もなかったように視線をカウンターへ戻した。
「何がそのうちなんですか」
要が聞くと、善一郎は肩をすくめる。
「そのうちは、そのうちだよ」
取りつく島もない。要は閉じた扉をもう一度見てから、聞くだけ無駄だと諦めた。
そのとき、窓際の客が手を上げた。
「ほら、仕事だよ」
「はいはい」
気のない返事をした要に、善一郎がすかさず言う。
「返事は一回」
要は一拍置いてから、言い直した。
「……はい」
昨日採用されたばかりなのに、妙なところだけ店主らしい。
要は伝票を手に客席へ向かった。
最初の注文は、ブレンドコーヒーのおかわりとチーズケーキだった。注文を善一郎へ伝え、出来上がったものを運ぶ。戻ってきた食器を下げ、洗い場へ持っていく。
それから一時間ほど、客は途切れながらも何組か入ってきた。
近所に住んでいるらしい主婦、ノートパソコンを開いた会社員、散歩の途中らしい年配の夫婦、客層はばらばらだったが、店内はほどよく賑わっていた。
仕事自体も、思っていたより忙しかった。
「三番、ブレンドとトースト」
「はいよ」
注文を伝えた直後、別の席の客が伝票を手に立ち上がった。要はそちらへ目をやる。
「二番のお客さん、会計です」
「レジやってみるかい?」
善一郎は調理の手を止めない。どうやら本気で任せるつもりらしい。
「いきなり?」
「押すところはさっき教えただろう?」
そう言われれば、断るほどでもない。
要はレジへ回り、教わった手順を思い出しながら会計を済ませた。
客を見送り、空いたカップを片づける。
気づけば、昨日感じていた店への警戒心より、目の前の仕事に意識を取られていた。
働き始めてみれば、喫茶店というのは案外やることが多い。
水が減っていないかを見る。空いた皿を下げる。テーブルを拭く。新しい客が来れば案内する。善一郎が料理を作っている間は、コーヒーを運ぶのも要の仕事になる。
ただ、忙しいといっても、大学のグループ課題よりはずっと気が楽だった。やることがはっきりしているし、終われば終わりだ。
誰かが何もしないぶんまで、黙って引き受ける必要もない。
「要くん、これ四番へ」
「はい」
差し出された皿を受け取り、要は一瞬手を止めた。
サンドイッチだった。昨日自分が食べたものと同じ、卵とハムと野菜を挟んだものだ。
要はそのまま客席へ運んだ。
客足が落ち着いたのは、それからしばらくしてからだった。
「要くん、腹減っただろう」
善一郎がカウンターの向こうから声をかけてきた。
「まあ、それなりに」
「まかないにしよう」
その言葉で、要は初めて空腹を自覚した。
「もうそんな時間ですか」
時計を見ると、働き始めてから三時間近く経っていた。
善一郎は冷蔵庫からいくつかの食材を取り出し、手早くサンドイッチを作り始める。
昨日とほとんど同じものだった。
違うのは、今日は目の前で作っているところを見ていることだ。
卵を割ってボウルへ落とす。善一郎は慣れた手つきで混ぜ、そのままフライパンへ流し込んだ。焼ける音とともに香ばしい匂いが立ち、要はカウンター越しにその手元を眺める。
しばらくして出されたサンドイッチを一口食べる。
「……うま」
昨日も同じことを言った気がする。
卵の味が濃い。野菜はしゃきっとしていて、噛むとわずかな甘みがある。特別な調味料を使っているようには見えないのに、妙に美味い。
「気に入ったかい?」
善一郎が向かいから尋ねる。要はサンドイッチの断面を見ながら頷いた。
「これ、昨日のと同じですよね」
「そうだよ」
昨日は空腹のまま夢中で食べたせいか、味わう余裕がなかったらしい。要はもう一口かじる。
「やっぱりうまいですね」
「そりゃよかった」
善一郎は満足そうにコーヒーを口へ運んだ。
要はしばらく咀嚼してから、手元のサンドイッチへ視線を落とす。
「材料、いいの使ってるんですか」
「まあねぇ」
相変わらず曖昧な返事だった。味の違いが材料によるものなら、少し気になる。
「どこから仕入れてるんです?」
善一郎はコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
「気になるかい?」
「ちょっとだけ」
要が答えると、善一郎はなぜか楽しそうに目を細めた。
「そのうち分かるよ」
またそれだ。
要はサンドイッチを食べながら、善一郎を見る。
この店主は、聞かれたくないことを誤魔化すのが上手いわけではない。
むしろ、誤魔化していることを隠す気がない。
そこが余計に胡散臭かった。
まかないを食べ終え、閉店までの仕事を済ませる。
客がいなくなった店内で、要はテーブルを拭き、椅子を整えた。善一郎はカウンターの中で明日の準備をしている。
初日の仕事としては、思っていたより普通だった。
「これで終わりですか」
「ああ。今日はね」
要はエプロンを外し、畳んでカウンターへ置いた。
「じゃあ、次も同じ時間でいいですか」
「ああ、それでいいよ」
善一郎がカウンターの上に残っていたカップへ手を伸ばした、そのときだった。
カウンターの奥から、細かな音が聞こえた。
ぱらぱらと、雨粒が地面を叩くような音。
要は窓の外を見る。
雨は降っていない。
「……雨?」
視線を戻す。音がするのは、昨日鳥の声を聞いたあの扉の向こうだった。
要はしばらく扉を見つめたあと、善一郎へ目を向けた。
「マスター」
「なんだい?」
「外、降ってないですよね」
「そうだねぇ」
善一郎はそれだけ答えて、カップを片づける。
要はもう一度、扉を見る。
雨音はまだ続いていた。
その扉の下から、ひやりと湿った空気が流れてきた。
「……この扉の向こう、何があるんですか」
善一郎はすぐには答えなかった。
「そのうち分かるよ」
まかないのときと同じ答えだった。
要は扉と善一郎を見比べたが、それ以上聞いても答える気はなさそうだった。
「……そうですか」
エプロンを置き、要は店を出た。
自室までは階段を上がるだけだ。
部屋に戻って鞄を開くと、明日の講義で使う教科書が目に入った。
大学に入ってまだ間もない。講義の場所にはようやく迷わなくなってきたが、知り合いらしい知り合いはまだいなかった。
別に、一人で困ることもない。
要は明日の教科書を鞄へ入れ、ベッドの脇に置いた。
喫茶店では、妙な店主と妙にうまいサンドイッチ。それに、晴れているのに雨音のする扉。
大学では、まだ名前も知らない同級生ばかり。
東京での生活は始まったばかりだった。




