第1話 今朝までなかった店
大学生活というものに、八神要はもう少し期待していた。
別に、映画やドラマに出てくるような青春を送りたかったわけではない。入学式で運命的な出会いをするとか、気の合う仲間と朝まで騒ぐとか、そういうものは最初から自分には縁がないと思っている。
ただ、高校までとは違って、他人の都合に付き合わされることくらいは減るものだと思っていた。
実際はそうでもない。
「……めんどくさ」
大学を出たところで、要は小さく呟いた。
午後から降り始めた雨はすでに止んでいたが、道路にはまだところどころ水たまりが残っている。湿った空気がまとわりついて、ただでさえ重い足取りをさらに重くした。
今日は朝からろくなことがなかった。
一限にはぎりぎりで滑り込み、昼に買おうと思っていた限定のパンは目の前で売り切れ、午後の講義では急に組まされたグループの学生がほとんど何もせず、なぜか最後には要が提出用のデータをまとめることになった。
ひとつひとつならどうでもいいが、全部まとめて来ると少し腹が立つ。
しかも、帰り際には次回までに追加の資料を作ってくれないかと頼まれた。
断った。
そこまで面倒を見る義理はない。
相手は意外そうな顔をしていたが、要にはそちらのほうが意外だった。どうして引き受けると思ったのだろう。
駅まで歩き、電車に揺られ、最寄り駅からさらに十分ほど歩く。
上京してまだそれほど経っていないが、この道にはもう慣れた。
大通りから一本入れば人通りが減り、住宅と小さな店が並ぶ。さらに進んだ先に、要の住むマンションがある。
大学から近いわけではない。ただ、家賃と間取り、それから駅までの距離を考えれば悪くない物件だった。
一階に空き店舗があるせいか、夜になると建物の入口付近が少し寂しく見えるのが欠点といえば欠点だが、住んでしまえば大した問題でもない。
そのはずだった。
マンションが見えてきたところで、要は足を止めた。
建物を見上げ、念のため周りも確かめる。いやいや、毎日帰ってきている自宅を間違えるほど疲れてはいない。間違いなく、自分の住んでいるマンションだ。
それなら、一階のあれは何なのか。
朝まで空き店舗だった場所に、喫茶店らしきものがある。
濃い色の木枠で囲まれた大きな窓。その向こうには柔らかな色の照明が灯り、木製のテーブルと椅子が見える。
入口の横には小さな黒板が立てられていて、白いチョークで、本日のコーヒーと書かれている。
その上、木製の看板には、少し癖のある文字で店名が刻まれていた。
『喫茶 むすびの杜』
「いや」
思わず声が出て、要は目を細めた。
「なかっただろ」
今朝ここを通ったときには、空き店舗のシャッターは閉まっていた。新しい店が入るという告知も見た覚えがないし、工事をしていた様子もない。それが大学へ行っている十時間ほどの間に、内装どころか外装まで変わって、一軒の喫茶店になっている。
「……居抜き?」
呟いてから、違うなと思った。居抜きだろうが何だろうが、一日でここまで仕上がるはずがない。
窓から見える店内に客の姿はなく、営業中、と書かれた小さな札だけが扉に掛かっている。
怪しい。……ものすごく怪しい。
だから関わらない。それが一番面倒がない。要は店から目を逸らし、マンションの入口へ向かった。
その途中、ガラス越しに店の奥が見えた。
カウンターの向こうに立つ店主らしき人物が、細口のポットからゆっくりと湯を注いでいる。
ふわりと白い湯気が上がり、少し遅れて、換気のために開けてあるらしい窓からコーヒーの香りが流れてくる。
「……あ」
要は無意識に息を吸った。
香ばしく、少し甘い。
朝からまともなものを口にしていなかったことを思い出す。
昼に買おうとしたパンを逃してから、適当な菓子で済ませていた。空腹のせいか、朝からずっと機嫌が悪い。
コーヒーくらい飲んでもいい。
家に帰っても、どうせインスタントしかない。
それに、今朝まで存在しなかった店が、どうやって半日で出来上がったのかが、少しだけ気になる。
「……コーヒー飲むだけだし」
誰に言い訳するでもなく呟いて、要は踵を返した。
扉を開ける。
からん、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がした。
店内に入った瞬間、外よりも濃いコーヒーの香りに包まれる。
外から見るより奥行きがあり、テーブル席の向こうに、椅子を並べたカウンターが続いている。
壁や床は落ち着いた木目で統一されていた。古い店のようにも見えるが、汚れているわけでもなく、長く使い込まれてきた家具だけが持つような、不思議な落ち着きがあった。
「好きなところに座っていいよ」
「あ、はい」
要は窓際の二人掛けの席を選んだ。
メニューを開くと、ブレンドコーヒー、カフェオレ、紅茶、トースト、サンドイッチ、ケーキなどが並び、特別変わったものはなく、値段も普通だった。
少なくとも、コーヒー一杯で大学生の財布を破壊するような店ではないらしい。
「決まったかい?」
「ブレンドとサンドイッチ」
「はいよ」
店主らしき人物はそれだけ答えると、カウンターへ戻った。
白髪の混じった髪に、細い目。年齢はかなり上に見えるが、背筋は思ったより伸びている。
要はなんとなく店内を見回した。
時計、本棚、観葉植物、壁には何枚か風景写真が飾られている。
特におかしなところは――。
「……ん?」
入口近くの壁に、一枚の紙が貼ってあった。
『アルバイト募集』
要は数秒、それを見つめた。
時給、勤務時間応相談、学生可、まかないあり。条件だけ見れば悪くない。むしろ、かなりいい。
「お待たせ」
声に振り向くと、店主がコーヒーを運んできた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
白いカップを手に取って一口飲むと、思わず「……うま」と声が漏れた。
苦みはあるのに妙に飲みやすい。コーヒーに詳しいわけではないし、豆の種類を当てろと言われても無理だが、それでも普段飲んでいるものよりずっと美味いことくらいは分かる。
店主がにやりと笑った。
「そうだろう?」
「自信あるんですね」
「そりゃあ、これで飯を食ってるからねぇ」
当然のように返され、要はカップを口元へ運びながら、店内を見回した。
「今日開店したばかりなのに?」
店主の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
「ここ、昨日まで空き店舗でしたよね。というか、今朝まで」
「ほう。よく見てるねぇ」
驚くでも否定するでもない反応に、要は少し眉を寄せた。
「毎日ここ通るんで」
「なるほど」
それだけ言って、店主は何事もなかったようにカウンターへ戻ろうとする。
「……それだけですか」
思わず呼び止めると、店主は振り返った。
「何がだい?」
「いや、別に」
どうやって一日もかけずに店を作ったのかと聞きたかったが、どうにもまともな答えが返ってくる気がしない。
内装業者がものすごく頑張ったのだろう。たぶん。
要はそういうことにして、コーヒーをもう一口飲んだ。
しばらくすると、サンドイッチも運ばれてきた。卵とハム、それに野菜を挟んだ、ごく普通のものに見える。
一つ手に取って齧る。
「……これも、うま」
「そうだろう、そうだろう」
さっきよりも嬉しそうな店主を見て、要は少し呆れた。
「なんで店主さんがそんな嬉しそうなんですか」
「自分の店の料理を褒められて嬉しくない店主がいるかい?」
「まあ、それはそうですけど」
昼をまともに食べていなかったこともあって、サンドイッチはあっという間になくなり、腹が満たされると、朝から続いていた苛立ちも多少はましになった気がする。
要は残ったコーヒーを飲みながら、再び壁の張り紙に目を向けた。
家から近い、というより自宅の真下。通勤時間はほぼゼロで、まだアルバイトも決めていない。条件も悪くないし、コーヒーも食事も美味い。
問題があるとすれば、店が少し怪しいことくらいだ。
……少しどころではない気もするが。
「アルバイト、探してるのかい?」
要は店主を見た。どうやら、さっきから張り紙を見ていたのに気づかれていたらしい。
「一応」
「大学生?」
「はい」
店主は要の格好を軽く眺めてから、さらに訊いてきた。
「近くに住んでる?」
「この上です」
要が天井を指すと、店主は目を丸くしたあと、愉快そうに笑った。
「そりゃあいい。遅刻する言い訳がなくなる」
「採用される前から遅刻する前提にしないでもらえます?」
「するのかい?」
からかうような調子で訊かれ、要は半眼になった。
「しませんけど」
「じゃあ問題ない」
何が問題ないのかよく分からない。
けれど、話を聞くくらいならいいかと、要は壁の張り紙を指した。
「……まだ募集してます?」
「してるよ」
「仕事内容は?」
店主は少し考えるように視線を上げた。
「注文を取って、運んで、片づけて。慣れたら簡単な調理も手伝ってもらうかな」
「普通ですね」
「喫茶店だからねぇ」
要は改めて店内を見回した。今朝まで存在しなかったことを除けば、確かに普通の喫茶店だ。
「それもそうか。履歴書、持ってきたほうがいいですか」
「いらないよ」
「じゃあ、面接は?」
店主は待ってましたとばかりに笑った。
「今してる」
「……これ面接だったんですか」
いつから始まっていたのだろう。そんなことを考えていると、店主が何でもないことのように名前を呼んだ。
「八神要くん」
「はい」
反射的に返事をしてから、要は眉を寄せた。
「……あれ。俺、名前言いましたっけ」
視線を落としたところで、テーブルの端に置いた大学のノートが目に入った。表紙には油性ペンで『八神 要』と書いてある。
「…………」
「どうしたんだい?」
「いや、なんでもないです」
危うく妙な勘違いをするところだった。
今日は疲れている。早く帰って寝たほうがいいかもしれない。
「それで、どうする?」
店主に訊かれ、要は残っていたコーヒーを飲み干した。
条件は悪くない。家から徒歩十秒どころか、階段を下りれば着く。店主は多少変だが、話が通じないほどではなさそうだ。
何より、また求人を探して、応募して、知らない店まで面接に行くほうが面倒だった。
「……やります」
「そうかい」
店主は満足そうに頷く。
「僕は久世善一郎。この店の店主だ。善一郎でもマスターでも、好きなほうで呼んでいいよ。よろしく、要くん」
「八神要です。……もう知ってますけど。よろしくお願いします」
差し出された手をどうするか一瞬迷ったあと、要も軽く握り返した。
「じゃあ、明日の講義が終わってから来られるかい?」
「大丈夫です」
こうして、話は驚くほどあっさり決まった。
面接らしい面接もなければ、履歴書すら渡していない。さすがに大丈夫なのかと思わなくもないが、嫌なら辞めればいい。
そう考えてしまうあたり、自分も大概適当なのかもしれない。
要は鞄を肩に掛け、会計を済ませて立ち上がった。
「じゃあ、明日からお願いします」
「ああ。待ってるよ」
善一郎に見送られ、入口へ向かいかけたところで、ふと足が止まった。
カウンターの奥に、もう一つ扉がある。
厨房へ続くものだろうと思っていたその扉の向こうから、微かに鳥の鳴き声が聞こえた。
澄んだ、高い声だった。
要は振り返る。
「……鳥、飼ってるんですか?」
善一郎はカウンターの中で、何事もなかったようにカップを拭いていた。
「いいや?」
「じゃあ、今の」
要が奥の扉へ目を向けると、善一郎もつられるようにそちらを見る。
「何か聞こえたかい?」
「鳥の声みたいなのが」
「へえ」
まるで他人事のような返事だった。
「へえって……」
善一郎は知らないと言わんばかりに首を傾げている。
要はしばらく奥の扉を見ていたが、二度目の声は聞こえてこなかった。
外から聞こえたのかもしれない。
そう思って店を出ようとしたところで、背後から善一郎の声が飛んできた。
「要くん」
「はい?」
振り返ると、善一郎は相変わらず、どこか楽しそうに笑っていた。
「明日は動きやすい格好で来るといいよ」
「……喫茶店ですよね?」
何をさせるつもりなのかと訝しんだが、善一郎は平然としている。
「もちろん」
「なら、別にいいですけど」
よく分からない店主だ。
要は扉を開けた。
からん、とベルが鳴り、外の湿った空気が頬に触れる。
ほんの少し前まで苛立ちながら歩いていたことを思えば、今はだいぶ気分がましになっていた。
コーヒーとサンドイッチのおかげだろう。
それに、アルバイトも決まった。
今日はろくな一日ではなかったが、最後くらいは悪くなかったらしい。
要はそんなことを考えながら、すぐ隣にあるマンションの入口へ向かった。
その背後で、喫茶店の扉がゆっくりと閉まる。
店内に一人残った善一郎は、要が置いていった空のカップを片づけると、カウンターの奥へ目を向けた。
先ほど鳥の声が聞こえた扉がある。
「さて」
善一郎は小さく笑った。
「明日は、どうなるかねぇ」
その声に答えるように。
扉の向こうから、もう一度だけ鳥が鳴いた。
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




