第1章 文字のない世界で 第1話「ふみみ」と文字だけの世界
幼稚園のプレイルームの片隅に差し込む午後の光は、時間の経過とともに、少しずつオレンジ色を帯びはじめていた。
おもちゃのブロックが崩れ落ちる乾いた音と、子どもたちの弾けるような笑い声が、天井の高い部屋のあちこちで跳ね返っている。
おもちゃ箱の周りにはいつも楽しげな人の輪ができていて、おにごっこをしようと誰かが大きな声を上げれば、それに釣られて次々と小さな足音が廊下を駆けていく。
その圧倒的な熱気とスピード感から少しだけ外れた場所――窓際の、光がよく差し込む畳のスペースに、相沢文美はぽつんと座っていた。
「ねえ、文美ちゃん。またそれ読んでるの?」
唐突にかけられた声に、文美はびくっと肩を跳ねさせた。
目の前に立っていたのは、同じクラスの女の子だった。手にはお気に入りのプラスチックの人形をぎゅっと握りしめている。悪意の欠片もない、純粋な好奇心だけの瞳が、文美の手元をじっと覗き込んでいた。
「うん……これ、面白いから」
文美は小さく答えて、表紙の端を指先でそっと押さえた。
「それさ、絵が全然ないじゃん。文字ばっかりで、難しそう。絵本ってさ、もっとこう、可愛い動物とかお姫様がいっぱい載ってなきゃつまんないよ」
「絵がなくてもね、頭の中で動くんだよ。……ほら、ここにね、主人公の男の子が冒険に出るお話が書いてあって……」
文美は一生懸命説明しようとした。大好きなこの本の魅力を、誰かに分かち合えたらどんなにいいだろうと、心のどこかで期待していたのかもしれない。
しかし、女の子は退屈そうに小さく首を傾げたふりをして、「ふーん、よくわかんないの。文美ちゃんって、なんか変なものばっかり好きだよね」と言い残すと、友だちの輪の中へとトコトコと走っていってしまった。
取り残された文美の胸に、冷たいすきま風が吹き抜けたような感覚が広がった。
(やっぱり、変なんだ……)
みんなは絵のたくさんある綺麗な絵本が好きだ。動物たちが仲良く手をつないで歌うお話や、魔法の呪文で世界がパッと明るくなるようなお話。
だけど、文美が惹かれるのは、どこか影があって、登場人物たちが不安に震えながらも一歩を踏み出すような、ちょっぴり難しくて分厚い、少し背伸びをしたジュニア文庫の物語だった。
『こんな難しい本を読んでるなんて、やっぱり変わってる』
『名前も変だし、いつも一人で暗い顔をしてる』
誰も直接そんな言葉を口に出したわけではない。けれど、クラスの輪に入れない自分と、みんなの輪の中心で楽しそうに笑っている子どもたちの間には、越えられない高い壁があるような気がしてならなかった。
文美はキュッと唇を引き締め、持っていた本のページをそっと閉じた。
「……ねえ、聞いてる?」
別の方向から、別の男の子の声が飛んできた。
さっきの女の子とは違う、少しいたずらっぽい顔をしたクラスメイトの男の子が、砂まみれの手でひざを叩きながら近づいてくる。
「なになに、その本。また文字ばっかりのやつ? ねえ、文美ってさ、名前もなんか変だよね。『ふみみ』だっけ?」
「ちがう、『ふみ』だよ……!」
文美は小さく言い返した。
「えー、でもさ、『ふみ』ってなんかおばあちゃんの名前みたいじゃん! うちのおばあちゃん、ふみえって言うもん。子どもなのに、おばあちゃんみたいな名前で変なの!」
「そうそう、おばあちゃんみたい! ふみみ、みーみー!」
別の男の子も調子に乗って囃し立てる。悪意があったわけではないのだろう。子どもというのは、自分と少しでも違う響きや、珍しいものを見つけると、それだけで面白がって飛びつく残酷さを持っている。
文美はぎゅっと唇を噛みしめ、自分の小さな膝に額を押しつけた。
(私の名前は、そんなにおばあちゃんみたいで、変なのかな……)
お父さんとお母さんが、「心豊かな人間に育つように」「言葉や物語を愛する子になるように」と、たくさんの願いを込めてつけてくれた大切な名前だと、お母さんは優しく教えてくれた。頭では分かっている。知っているはずなのに、クラスメイトの冷やかされる声を聞くたびに、その綺麗なはずの文字が、自分の体を窮屈に縛り付ける鎖のように感じられてしまうのだ。
みんなみたいに、もっと普通の名前だったらよかったのに。
「りお」とか、「ゆい」とか、どこにでもあって、誰も笑ったりしない名前だったら、こんなふうに一人で本を抱えて縮こまっていなくてもすんだのに。
文美は自分の名前の由来を思い出すたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような、言いようのない孤独に襲われた。
プレイルームのざわめきを聞きながら、文美は小さな指で、畳の目をそっとなでた。
形のないものは、すぐに消えてしまう。私という存在も、みんなの笑い声にかき消されて、いつか風に飛ばされてどこかへ消えてしまうんじゃないか。そんな子供らしい、けれど底冷えするような不安が、まだ五歳の文美の小さな胸を支配していた。
視界が急にぼやける。
鼻の奥がツンと痛み、喉のあたりが熱くなった。
泣きたくない。ここで泣いたら、本当に「めそめそした暗い女の子」になってしまう。そう分かっているのに、一度溢れかけた涙は、まばたきをするたびにポロリと畳の上に落ちて、小さなシミを作っていった。
誰も私を分かってくれない。
この本の中に広がっている素晴らしい世界も、私が感じているワクワクも、誰一人として共有してくれない。
私はこの広い世界のどこにも居場所がなくて、ただ一人、冷たい暗い森の奥でひとりぼっちで迷子になっているみたいだ。
頭の中に浮かんだ『ヘンゼルとグレーテル』の森の景色が、今の自分の惨めな姿と重なって、胸が締め付けように痛んだ。
「……っ、ぐすっ……」
我慢しきれず、小さな嗚咽が喉から漏れた。
文美は両手で顔を覆い、膝をぐっと抱え込んだ。誰にも見られないように、できるだけ小さく、できるだけ気配を消そうとした。畳の匂いと、自分の流した涙の湿った匂いが混ざり合って、どうしようもなく孤独感を深めていく。
プレイルームの喧騒が、遠くの波音のように聞こえる。
誰も私になんて気づかない。気づいてほしいわけじゃないけれど、こんなふうに一人で泣いているところを見られたら、きっと変に思われるか、あるいは気味悪がられるだけだ。
「おい、こんなところで何やってんだよ」
突然、頭の上から降ってきた声に、文美は全身をびくっと硬直させた。
予想外の方向からの声に驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは神崎天馬だった。
額に汗をにじませ、腕まくりをしたシャツは少し泥がついている。外でサッカーか砂遊びでもしてきたのだろう。天馬は両手を腰に当て、少し呆れたような、だけどどこか心配そうな顔で文美を見下ろしていた。
「……ほっといてよ」
文美は慌てて手の甲で目の端を乱暴に拭い、そっぽを向いた。
声が震えているのが自分でも分かった。泣き顔なんて見られたくない。早くどこかに行ってほしかった。
「ほっとけるわけないだろ。だって、すっげえ変な顔して泣いてるじゃん」
「変な顔って言わないで……!」
「だって、本当に泣き虫の顔になってるもん」
天馬はそう言うと、文美の返事を待たずに、その場にドスンと遠慮なく腰を下ろした。
畳の上に座った天馬の膝が、文美のスカートの裾に触れそうなほど近い。こんなに近くに寄られたら、自分の情けない顔が隠せないじゃないか。文美はさらに体を小さくして、顔を腕の中に埋めようとした。
「あのさ」
天馬のトーンが、少しだけ真面目になった。
「さっき、あっちの男の子たちと何話してたんだよ。遠くから見てたら、文美がなんか困った顔してたからさ」
「……なんでもない。私、本読んでただけだもん」
「本? またあの絵がないやつ?」
「そうだよ! 絵がなくても面白いもん! みんなは絵本しか読まないし、私の名前もおばあちゃんみたいだって言われるし、こんな難しい本読んでるから変だって思われてるんだもん!」
堰を切ったように、文美のなかから言葉が溢れ出した。
自分でも抑えきれなかった。ずっと胸の奥に溜まっていた澱のような感情が、言葉になって零れ落ちていく。
「誰も私の話なんて聞いてくれないし、誰も私のことなんて分かってくれないんだもん……!」
声を荒らげながら、文美はまたポロポロと涙をこぼした。
自分の名前が嫌いだということ。みんなと同じように笑えないということ。大好きな本を読むことが、どこか恥ずかしくて、後ろめたいことのように感じてしまうこと。
五歳の女の子にとって、それは世界が自分を拒絶しているように感じられるほどの絶望だった。
天馬は、そんな文美の姿をじっと見つめていた。
普段は元気いっぱいに走り回っているこの男の子が、これほど真剣な顔をして人の話を聞いているのを、文美は初めて見た。
天馬の黒い瞳には、泣きじゃくる文美の姿がまっすぐに映り込んでいる。
少しの沈黙が流れた。
プレイルームのざわめきだけが、遠くでぼんやりと響いている。
「……変なんかじゃないよ」
不意に、天馬がぽつりと言った。
その声は、いつもみんなの前でふざけているときのような大きな声ではなく、どこか低くて、落ち着いた響きを持っていた。
「え……?」
文美は涙で濡れた目をしばしばたかせた。
「おばあちゃんみたいとか、何言ってんだよあいつら。名前だってかっこいいじゃん。『ふみ』ってさ、なんかこう、かっこいいお話の主人公みたいな響きだぞ」
「嘘……そんなの、慰めるために言ってるんでしょ」
「嘘なんかつくもんか!」
天馬はムッとしたように胸を張った。
「オレは思ったことしか言わないもん。それにさ、みんなが読んでる絵本だって面白いかもしれないけどさ、文美が読んでる本の話を聞くと、なんか……すごい冒険してるみたいで、こっちまでワクワクするもん」
ワクワクする、と言った。
文美が誰にも理解されず、自分だけの秘密だと思っていたその世界を、このお調子者の男の子は「すごい冒険」だと言ってくれたのだ。
「それにさ」
天馬は少し照れくさそうに頭をボリボリと掻いた。
「文美がそんなふうに一人でメソメソ泣いてたらさ……なんだか、オレまで変な気持ちになるんだよ。胸のあたりがチクチクして、落ち着かないんだもん」
それは、天馬なりの精一杯の告白だった。
誰かが泣いていると、自分もなぜか悲しくなる。文美の笑顔が見たいから、自分はこうして変なものまねをしたり、ふざけたりしているんだという子供なりの理屈が、その言葉の裏に隠れていた。
「だからさ」
天馬は立ち上がり、文美の目の前にパッと両手を差し出した。
その手のひらには、さっきまで外で遊んでいたときの砂が少しだけついている。だけど、その手のひらは驚くほど温かそうだった。
「ここで一人でいじけてても、おもしろいことなんて何もないぞ。行くぞ、文美」
「どこに行くの……?」
「どこでもいいよ。図書室の奥の席に行こうぜ。そこなら誰も来ないし、静かだしさ。そこで文美のその本の話、続きを聞かせてよ。オレがちゃんと言い出しっぺになって聞いてやるからさ」
文美は、差し出されたその温かい手と、天馬のまっすぐな顔を交互に見つめた。
ひとりぼっちの文学少女として、冷たい壁の中に閉じこもっていたはずの心が、ほんの少しだけ、音を立ててひび割れた。そこから、あたたかな光がスーッと差し込んでくるような気がした。
「……ほんとに、聞いてくれるの?」
「当たり前だろ! オレは文美の専属の……なんだっけ、あれだ、物語の聞き役なんだからさ!」
適当な言葉を思いついたように笑う天馬を見て、文美の唇から、さっきまでの涙が嘘のように引っ込むほどの小さな笑い声が漏れた。
「なにそれ、聞き役って……」
「いいからいいから! ほら、立ってよ、文美」
文美は、差し出された天馬の手を、おそるおそる自分の小さな両手でぎゅっと握りしめた。
天馬の手は、少し汗ばんでいて、子どもらしくて、そしてとても温かかった。
その日、二人は誰にも邪魔されない図書室の片隅で、古い本のページを並んでめくった。
文美が読む小さな文字の物語を、天馬は相変わらず少し退屈そうにしながらも、それでも時折「うわ、それからどうなるの?」と身を乗り出して聞いてくれた。
一人で読むのとは違う、誰かと世界を分かち合うという初めての温もりを、文美はこのとき胸の奥深くにしっかりと刻み込んだ。
入園式の時は天馬よりも文美の方が活発だったのですが。読書という自分が好きなことを文美はしていただけですが、それが周囲の子どもたちから浮いてしまうことが分からなかったのです。子どもあるあるだと思います。




