↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近くて遠い虹  作者: 村松希美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/4

プロローグ 虹の向こうの声




放課後の教室には、夕日のオレンジ色が粘りつくように溶け込んでいた。


西の空に広がる雲の切れ間から、数本の光の筋が地上へまっすぐに伸びている。その現象の名前を、神崎天馬は知らなかった。ただ、窓の外の景色を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、言いようのない切なさに襲われる。


「……ねえ、神崎くん。聞いてる?」

名前を呼ばれて、天馬はハッと意識を現実に引き戻した。


目の前には、スマートフォンの画面を覗き込みながら、少し呆れたような顔をしているクラスメイトの女子生徒がいる。ここは高校の教室だ。演劇部の買い出しの相談をしていたはずだった。


「ごめん、ちょっとぼうっとしてて。今の、もう一回いい?」

「もう。先輩への差し入れの件だってば。マドレーヌでいいと思う?」

「あ、うん、それでいいと思う。定番だし、みんな好きだよ」

適当に返事をしたつもりだったが、相手は満足したらしく「じゃあ決まりね」と笑って去っていった。


教室から生徒たちのざわめきが消えていく。やがて、当番の掃除をする生徒たちの足音や、廊下を駆ける部活生の声も遠ざかり、室内に静寂が戻ってきた。

天馬は自分のデスクの引き出しから、台本を取り出した。


表紙には、鉛筆の書き込みで汚れたタイトルが書かれている。今度、深夜枠で放送される小規模なアニメ作品の、端役の台本だ。


高校生の声優スクール生である天馬にとって、スタジオの収録ブースは、まだ気圧の変化で耳抜きが追いつかないほど遠くて、(まぶ)しい場所だった。プロの先輩たちの背中に圧倒され、自分のマイクの前に立つだけで心臓が(のど)まで飛び出しそうになる。それでも、オーディションを勝ち抜いて手に入れた「声の仕事」だ。嬉しくないはずがない。


だけど。

天馬はふと、教室の反対側の窓際を――相沢文美の席を見た。

そこにはもう誰もいない。文美は放課後になると、誰よりも早く教室を出ていってしまうか、あるいは自分の世界に没頭して、周囲の気配を完全にシャットアウトしている。


「……文美」

小さく呟いたその名前は、夕暮れの空気に溶けて消えた。


いつからだろう。こんなふうに、お互いの背中が少しずつ離れていくように感じ始めたのは。

いや、離れているわけではない。二人は今でも、クラスの端っこで誰にも言えない秘密を共有している。お互いの夢を、誰にも知られないように隠し合っている「同志」だ。

だけど、天馬の耳には、今でもあの日の声がこびりついて離れないのだ。


それは、幼稚園で聞いた、泣きじゃくるような、でもどこか硬質な少女の声だった。



「ねえ、天馬くん、これ読んでみてよ」

幼稚園の小さな木製の椅子に座りながら、文美はボロボロになった絵本を差し出してきた。

当時の文美は、今よりもずっと小さくて、細くて、まるで折れてしまいそうな小鳥の(ひな)のようだった。周りの子どもたちが鬼ごっこや砂遊びで走り回っているというのに、文美はいつも絵本のページに指を()わせていた。


「えー? またこれ? 文字ばっかりじゃん、絵がないよ」

「絵なんてなくても、頭の中にすごい世界が広がるんだから。ほら、ここ、読んでみて」

文美が指さしたページには、文字がびっしりと並んでいた。


当時の天馬にとって、文字を読むことは苦行に近かった。お母さんに絵本を読んでもらうのは好きだったけれど、自分で一文字ずつ追っていくのは退屈で仕方がなかった。


だのに、文美の目を(のぞ)き込むと、そこにはいつも深い深い泉のような寂しさが(こら)えられている気がした。


文美は、名前のことでよくからかわれていた。

少し変わった響きのその名前を、他のクラスメイトたちは面白半分に(はや)し立てた。


『文美、文美、お勉強ばかりの文美!』

子どもというのは残酷だ。悪意の有無に関係なく、自分たちと違う人間を指さして笑う。文美はそれに言い返すこともできず、ただ唇を噛みしめて、砂をいじっていた。


ある日、文美はめずらしく大きな声をあげた。

それは、園の図書室にあった古い外国の童話の本を読んでいたときのことだ。


「天馬くん、知ってる? ヘンゼルとグレーテルのお話」

「知ってるよ。お菓子の家でしょ?」

「そう。でもね……私、思うの。天馬くんは、いつかきっと、あの物語のヘンゼルになれる。どんなに暗い森の中でも、迷子になっても、きっとパンくずを落として、おうちに帰る道を自分で見つけられる男の子だから」

文美は、自分の手元にあるページをぎゅっと握りしめ

た。その小さな肩が微かに震えていた。


「じゃあ、文美は? グレーテルになるの?」

「ううん、違うよ」

文美は首を横に振った。その瞳には、すでに子どもとは思えないほどの冷たい自己否定の色が浮かんでいた。


「私は、グレーテルにはなれないの。私は……あの森の奥にいる、子どもを食べる年老いた魔女なのよ。みんなが嫌がる、意地悪で、誰も近づきたくない、黒いお鍋をかき混ぜてる魔女なの」


――そんなこと、ないよ。

当時の天馬は、そう言い返したかった。だけど、言葉がうまく見つからなかった。


文美が悲しそうな顔をしていると、胸の奥がチクチクと痛む。まるで、自分のなかに小さなトゲが刺さったかのように、どうしようもなく居心地が悪くなる。

文美を泣かせたいわけじゃない。困らせたいわけでもない。ただ、その白い頬に浮かんだ涙を、笑みに変えたかった。


そのとき、天馬の頭に浮かんだのは、テレビで見たばかりのおちゃらけたヒーローアニメのキャラクターだった。


「――フハハハッ! よくぞ聞いた、小さき乙女よ!」

天馬は急に立ち上がり、椅子の上で大げさに腰を落とした。そして、テレビの真似をして両手を大きく広げ、わざと裏返った声を出した。


「わしは宇宙の果てからやってきた、愛と平和と正義のおたすけマンなのだ! その黒いお鍋というものは、スープを煮込むためのものではなくてだな、宇宙一美味しいプリンを作るための鍋なのだー!」


しーん、と周囲の空気が少しだけ静まり返った。

何をやっているんだ、と他の男の子たちが遠巻きに見ている気配がした。少しだけ恥ずかしさが込み上げてきて、天馬の耳たぶが熱くなった。

それでも、天馬はやりきった。文美の顔を見たかったからだ。


「……ぷっ」

小さな、本当に小さな音が聞こえた。

顔を上げると、文美の口元がわずかに緩み、そして――くすっと笑い声が漏れた。


「なんだそれ……変なの」

「変じゃないもん! 宇宙一のプリンだもん!」

「魔女がプリンなんて作らないよ」

「作るの! 今日からお菓子の魔女じゃなくて、プリンの魔女に改名するの!」

文美はその日、初めて天馬の前で声を上げて笑った。

その笑顔を見た瞬間、天馬の胸にあったチクとした痛みは消え、代わりに奇妙な熱が広がっていった。


――あ、笑わせられた。

あの瞬間、天馬のなかで何かが決定的に変わった。人の心を救うのは、難しい勉強でも、強い力でもなくて、この「声」と「お芝居」なのだと、幼い心で直感を抱いたのだ。


それから、二人だけの秘密が始まった。

みんなの前では普通の男の子として振る舞う天馬だったが、文美と二人きりになると、絵本や図鑑のページをめくりながら、登場人物のモノマネをして見せた。

「天馬くん、このセリフ、すごくかっこいいんだよ」

文美が指さした児童文学の挿絵の横の文字を、天馬は少し気恥ずかしそうに、だけど真剣に朗読してみせた。


「……おのれ、闇の軍勢よ。我の光の剣を受けてみよ!」

「そうそう、もっと声を低くして、こう……」

「おのれ、闇の軍勢よ……ってか?」

「うん、いまのすごくかっこいい!」

文美の目がキラキラと輝く。その顔が見たくて、天馬は何度も練習した。

そして、いつしか約束したのだ。


「いつかさ、文美がすごい物語を書いたらさ」

砂場で泥だらけになりながら、天馬は言った。

「そのときは、俺が全部、声にして演じてあげるからさ。主人公のカッコいいセリフも、全部俺が言ってあげる」

「ほんとう?」

「ほんとう! 約束!」


その直後、幼稚園のスピーカーから、お昼の歌の時間が始まったことを知らせるメロディが流れてきた。

みんなで並んで歌ったのは、「大きな栗の木の下で」だった。

だけど、天馬と文美は、その歌の途中で自分たちだけの替え歌を口ずさんだ。


――大きな夢を、大きく育てましょう♪


まだ何者でもなかった幼い二人は、その歌詞の意味もよく分からないまま、お互いの手のひらをぎゅっと握りしめた。あの頃の夢は、無限に広がっているように思えたのに。



「……現実は、そう甘くないよな」

教室の窓から夕日が完全に沈み、空が群青色(ぐんじょういろ)に染まり始めるころ、天馬は小さくため息をついた。

高校生になった今の自分たちは、あの頃描いた「大きな夢」の途中にいる。


天馬は声優スクールで基礎を学び、アニメの端役をもらえるようになった。少しずつ、本当に少しずつ、声優というプロの世界の入り口に立っている。

だけど、それはまだ「スタートラインに立った」というだけで、世間から見れば何者でもないただの高校生だ。


そして――相沢文美は。

天馬は自分のバッグを肩にかけ、教室を出ようとした。その足が、ふと廊下の端にある図書室の前で止まった。

明かりが漏れている。窓ガラスの向こう側に、見慣れた黒髪のシルエットが見えた。


文美だ。

彼女は今、ジュニア文庫の新人賞を目指して、夜遅くまで小説を書き続けている。

学校では決して口に出さない。周りの友達には「普通の女子高生」を装いながら、家や図書室の隅で、ノートパソコンのキーボードをカタカタと叩き続けている。


天馬は、そっと窓の外からその横顔を盗み見た。

真剣な表情で画面を見つめる文美の横顔は、幼稚園の頃の面影を残しながらも、驚くほど大人びて見えた。同時に、その眉間には深く険しいシワが刻まれている。

書いんでは消し、消しては書き直し、画面に映る文字の海で溺れそうになりながら、それでも必死に自分の言葉を探している。


――文美は、苦しんでいる。

天馬には分かっていた。

自分が声優として少しずつ前に進むたびに、文美のなかの焦りが広がっていくことを。天馬がアフレコ現場で経験を重ねる姿が、文美にとっては「取り残されている自分」を突きつける鏡のように映ってしまうことを。


二人で交わしたはずの「同志」という絆が、いつしかお互いを縛り付ける鎖に変わり始めていることも、天馬の胸には痛いほど突き刺さっていた。


(俺が……もっとすごければよかったのか?)

(いや、違う。俺が先に進めば進むほど、文美は……)

言葉にできないざわめきが、天馬の胸をかき乱す。

かつて、文美を笑わせるために始めたお芝居が、今や文美を苦しめる原因の一つになっているとしたら、それはあまりにも皮肉だった。


「文美」

声に出さず、ただ唇だけでその名前を呼ぶ。

夕闇のなか、窓ガラスに映る自分の顔は、かつての「おたすけマン」のように無邪気には笑っていなかった。


遠くに見える虹は、綺麗だけど、手を伸ばしても絶対に届かない場所にある。

今の自分たちにとって、その虹はどこにあるのだろう。


天馬はぎゅっと拳を握りしめ、音を立てないようにその場を離れた。放課後の冷たい風が、少年の焦る心を冷やすように、静かに吹き抜けていった。









天馬と文美の2人の夢追い物語のスタートです。


最近の若者たちはやりたいことがない、夢をもてないなんていわれていますが、WEB小説などネットを見たらそうでもないような気がします。


でも、小説の投稿とかYoutuberになっても友人には言ってないという方たちもいるようですね。


この物語は、夢を語れる人がいたら楽しいかな?と思いつきました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。