第1章 文字のない世界で 第2話 トロッコと迷子の森
幼稚園の小さな図書室の片隅は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
おもちゃのブロックがカチャカチャとぶつかる音や、鬼ごっこではしゃぐ子どもたちの黄色い歓声は、分厚い木の扉と廊下を挟んだ向こう側で、まるで遠い海の波音のようにぼんやりとしか聞こえない。
窓際のひんやりとした畳の上に座り、相沢文美は両手で古いジュニア文庫の本をしっかりと抱え込んでいた。
表紙の茶色い紙はあちこちが日焼けして擦れ、ページの角は何度もめくられすぎて柔らかく丸まっている。
プレイルームの真ん中でみんなと一緒に走り回るのではなく、こうして誰もいない図書室の片隅で文字を追っているときだけが、文美にとって世界で一番安心できる時間だった。
いや、安心しているというよりも、そこにしがみつかなければ、自分の居場所がどこにもなくなってしまうような気がしていたのだ。
(また、あそこに行こう……)
文美はそっと表紙を開き、指先でページをめくった。
今読んでいるのは、日本の古いお話を集めた子ども向けの短編集だ。その中の一編に、どうしても目が釘付けになってしまう物語があった。
タイトルは、『トロッコ』。
主人公は、土工という大人たちに混じって線路の敷設工事を手伝う、まだ幼い「良平」という少年だった。
良平は、家から遠く離れた工事現場で、トロッコに揺られる大人たちを羨ましく見つめている。トロッコとは、重い石や土を乗せてレールの上を走る小さな貨車のことだ。ある日、良平は出来心のようについにそのトロッコに飛び乗ってしまう。
ページをめくっていく文美の指先が、わずかに震えていた。
『ガタゴト、ガタゴト』
頭の中の想像力が、文字の隙間から音を引っ張り出してくる。
トロッコは軽快に、そして容赦なく、少年を知らない世界へと運んでいく。家からどんどん離れていく。景色が見慣れない山奥へと変わっていく。
当時の文美には、そのトロッコがとても恐ろしく、そしてどこか抗えない魅力を持った魔物のように感じられた。
(このまま進んだら、お母さんのところに戻れなくなっちゃうのに……どうして乗っちゃったんだろう)
物語の中の良平は、最初は好奇心から飛び乗ったものの、次第に自分がとんでもない遠くへ来てしまったことに気づき、激しい後悔と恐怖に襲われていく。
『あんな遠くへ来てしまった。もうお母さんのいる家には帰れないかもしれない』
良平の心の中に芽生えた焦りと、言いようのない孤独感。それは、いつもクラスの輪に入れず、名前をからかわれて縮こまっている文美自身の姿と、恐ろしいほど重なっていた。
文字を追うたび、文美の胸の奥がキュッと締め付けられる。
「早く……先が読みたい。でも、怖い……」
続きが気になって気になって、心臓がトクトクと早く脈打つ。
ただ文字の波に飲み込まれるように、文美は夢中でページをめくった。
もし自分がこのトロッコに乗ってしまったら、どうなるだろう。もし誰も自分を見つけてくれなかったら。冷たい夕闇の迫る線路の上で、たった一人で泣きながら歩くことになったら――。
想像するだけで、喉の奥がキュッと詰まり、呼吸が浅くなる。
絵本であれば、綺麗な挿絵が安心させてくれるかもしれない。けれど、このジュニア文庫には絵がほとんどない。あるのは黒い文字の塊だけだ。だからこそ、文美の頭の中には、現実よりも生々しく、暗く冷たい「迷子の世界」が鮮やかに描き出されてしまう。
誰も私を迎えに来てくれない。
私はこの物語の主人公みたいに、いつまでも暗い森の奥でひとりぼっちで震えているんだ。
「……っ」
鼻の奥がツンと痛み、視界が急ににじんだ。
せっかく図書室の隅っこで落ち着いていたはずなのに、物語の恐怖と、現実の自分の孤独が混ざり合い、とめどなく不安の波が押し寄せてくる。
そのときだった。
「おい、文美! またそんな真面目な顔して、なに難しい本読んでんだよ」
突然、背後からかけられた明るい声に、文美は全身をびくっと跳ねさせた。
慌てて手の甲で目の端を乱暴に拭い、振り返る。そこには、額にうっすらと汗をにじませ、シャツの裾に少し泥をつけた神崎天馬が立っていた。
外でサッカーか砂遊びでもしてきたのだろう。天馬は両手を腰に当て、少し呆れたような、だけどどこか楽しそうな顔で文美の手元を覗き込もうとしている。
「……びっくりさせないでよ」
文美は慌てて本を胸に引き寄せ、表紙をパタンと閉じた。
「なんだよ、そんなに隠さなくてもさ。またその、分厚い本?」
「そうだけど……何か用?」
「用っていうかさ、みんなでプレイルームでおもちゃ広げて遊ぼうぜって話になってさ。文美も行こうよ、みんな待ってるからさ」
天馬のまっすぐな誘いに、文美は小さく首を横に振った。
「いかない。私、みんなみたいに上手に遊べないし……こういう静かなところにいたいもん」
「静かなところって、お前、さっきからずっと一人でそんな暗い顔してさ。またなんか難しい本読んでたんだろ」
「難しい本じゃないもん! これ、面白いもん!」
「面白いって、絵が全然ないじゃん。文字ばっかりで、見てるだけで眠くなっちゃうよ」
悪気のない天馬のその一言が、ささくれ立った文美の心にチクリと刺さった。
「文字ばかりで何が悪いよ!」
文美は少し声を荒らげた。自分でも、必要以上に強い口調になってしまったのが分かったが、引っ込みがつかなかった。
「みんなは絵本しか読まないし、私の名前も変だって笑うし……! 私だって、好きでこんな難しい本ばかり読んでるわけじゃないのに!」
声が震えていた。
さっきまで感じていた『トロッコ』の孤独感と、クラスメイトから向けられた視線への恐怖が混ざり合い、せっかく引っ込んだはずの涙が再びあふれそうになる。
「絵がなくてもね、この中にはすごい世界があるの。主人公の男の子がトロッコに乗って、どんどん遠くに行っちゃって……帰れなくなって、すごく怖いの! 誰もそんなこと、分かってくれないくせに……!」
文美の目から、大粒の涙がポロリと畳の上に落ちた。
突然声を荒らげ、目を真っ赤にして泣き出した文美を見て、天馬は目を丸くして固まった。
いつもはただ静かに下を向いているだけの文美が、自分に向かって泣きながら訴えている。天馬の胸の奥で、チクッと鋭い痛みが走った。
それは、誰かに針で突かれたような、どうしようもなく不快で、切ない痛みだった。
文美が泣いている。
自分のせいで、いや、目の前でこの女の子が悲しそうな顔をしている。
その事実が、天馬のなかに奇妙な焦りをもたらした。文美を泣かせたいわけじゃない。困らせたいわけでもない。ただ、その白い頬を伝う涙を止めたい。笑わせたい。その一心だけが、当時の幼い天馬の頭を真っ白に染め上げた。
「……っ、ご、ごめんって!」
天馬はあわてて両手をブンブンと振った。
「オレ、そんなつもりで言ったわけじゃ……その、難しい本がダメだとか、そういうのじゃないし!」
「嘘……どうせ、変だって思ってるくせに」
「思ってないって! それにさ、そのトロッコって何だよ。そんなに怖いのか?」
「怖いよ……! どんどん遠くに行っちゃって、お母さんのところにも帰れなくなって、辺りが暗くなって……すごく心細くて、ひとりぼっちになるの」
文美は両手で顔を覆い、自分の膝に額を押しつけた。
頭の中に、絵のない物語の冷たい線路と、誰もいない暗い森の情景が広がり、どうしようもなくなっていた。
天馬は、そんな文美の姿をじっと見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、天馬はため息をつくように小さく息を吐くと、文美の隣にドスンと遠慮なく腰を下ろした。
子どもの体温というのはどうしてあんなに温かいのだろう。天馬の腕が触れそうなほどの距離に座られただけで、文美の硬くなっていた心が少しだけ揺らいだ。
「ねえ、文美」
天馬のトーンが、少しだけ優しくなった。
「そんなに怖いならさ、オレがそのトロッコを止めてやるよ」
「……え?」
文美は顔を上げ、涙に濡れた目をしばしばたかせた。
「だってそうだろ? その男の子が一人で困ってて、帰れなくて泣きそうになってるんだろ? だったら、オレがおたすけマンになって、そこまで走っていってさ、『おい、こっちだぞ! おうちこっちだろ!』って、でっかい声で教えてやるんだよ」
「なにそれ……物語の中に勝手に入り込まないでよ。これは昔のお話なんだから」
「昔だって関係ないもん!」
天馬はムッとしたように胸を張った。
「オレがそのトロッコを止めて、男の子の手を引っ張って、お母さんのところまで連れてってやるんだ。そしたら誰も怖くないだろ?」
その言葉を聞いたとき、文美の胸の奥で、凍りついていた何かがスッと溶けていくような気がした。
トロッコの物語は恐ろしい。どこか知らない遠くへ連れ去られてしまうような絶望感は、現実の自分の孤独と重なって仕方がなかった。
だけど、この目の前の男の子は、「自分が助けに行ってやる」と言ってくれる。たとえそれが子ども特有の突飛な空想だとしても、その力強い言葉とまっすぐな瞳は、どんなお守りよりも心強く感じられた。
「ねえ、文美」
天馬は少し照れくさそうに頭をボリボリと掻きながら、文美の手元にある本を覗き込んだ。
「そのトロッコのお話さ、続きはどうなるの?」
「……え?」
「オレ、文字ばっかりの本はちょっと苦手だけどさ、文美が読んで、どんなふうに怖いのか、教えてよ。オレがちゃーんと聞いてやるからさ」
それは、天馬なりの精一杯の優しさだった。
一人で閉じこもって暗い顔をしている文美を、どうにかして外の世界へ連れ出したい。でも、みんなと一緒に遊ぶのが嫌なら、文美の好きな「お話」の世界に、自分が歩み寄ってみよう――そんな子どもなりの不器用な思いやりが、天馬の瞳にはしっかりと宿っていた。
「……しょうがないなあ」
文美は恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、閉じていた本をもう一度そっと開いた。
「じゃあね、ここからだよ。男の子がトロッコに揺られて、どんどん山奥に入っていくところ……」
文美が小さな声で読み始めると、天馬は驚くほど真剣な顔でそれに耳を傾けた。
最初はただ文美を元気づけようとしただけだったかもしれない。けれど、文美が紡ぐ言葉の響きや、登場人物の焦る様子を聞いているうちに、天馬のなかにも不思議な感情が芽生えていた。
ただの文字の羅列だったものが、文美の声を通すことで、まるで目の前で起きているドラマのように鮮やかに立ち上がってくる。
「……でね、夕方になっちゃって、男の子はひとりで泣きそうになりながら歩いて帰るの。すごく心細くて、足がガクガクして……」
文美がそこまで話すと、天馬は突然立ち上がり、両手を腰に当てて大きく胸を張った。
「よしっ!」
「っ、びっくりした……また急に大きい声出して」
「だってさ、そいつがもし泣きそうになってたらさ、オレが助けに行ってやるって決めたんだもん!」
天馬は大げさに腕を回し、力こぶを作ってみせる。
「オレがそのトロッコの先頭に立って、『もう大丈夫だぞ! オレについてこい!』って言ってやるんだ!」
その天馬のバカバカしくも力強いポーズに、文美の唇から、さっきまでの涙が嘘のように引っ込むほどの小さな笑い声が漏れた。
「なにそれ、トロッコの先頭に立ったら危ないでしょ」
「危なくないもん! オレはおたすけマンだもん!」
「おたすけマンって何なの、さっきから」
「オレだよ! 文美専属の、愛と平和と正義のおたすけマン!」
文美は袖で自分の目を軽く拭い、ふわりと柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、天馬の胸にあったチクチクとした痛みは、嘘のようにスッと消え去っていた。
――あ、笑わせられた。
文美が笑ってくれた。そのことが、なぜだか当時の天馬にとって、世界で一番誇らしく、嬉しいことに思えたのだ。
図書室の窓から差し込む夕日が、二人の小さな影を長く伸ばしていく。
遠くで鳴るチャイムの音が、今日はなぜか優しく聞こえた。
本を閉じた文美の胸には、もう孤独の冷たさはなかった。代わりに、未知の物語へと飛び出すワクワクと、隣にいる少年への小さな信頼が、しっかりと根を張りはじめていた。
「ねえ、天馬くん」
「ん?」
「もし私が、またトロッコみたいに変なところに迷子になっちゃったらさ……本当に助けに来てくれる?」
文美の問いかけに、天馬は少しだけ目を丸くしたあと、どこまでも頼もしく、力強くうなずいた。
「当たり前じゃん! オレはおたすけマンだもん。文美がどこに行ったって、絶対に見つけてやるよ」
その言葉は、子ども特有のその場しのぎの約束だったかもしれない。
それでも、そのときの天馬の真っ直ぐな瞳は、幼い文美にとって、どんなに分厚い本に書かれているどんな言葉よりも、温かくて心強いお守りになった。
◇◇◇
二人は小さな手を並べたまま、図書室の窓の外を見ていると、雨上がりだからか、大きな虹が輝いていた。
「きれい、大きな虹!」
文美は思わず声を上げる。
「虹ってこんなに近くに見えるけど、本当はとても遠いところにあるんだ」
天馬は文美の前で背伸びして、昨日アニメで聞いたばかりのセリフを口にした。
「そうなんだ…」
文美は天馬の言葉に感心した。
2人の希望を象徴しているような虹をいつまでも眺めていた。
後半の◇◇◇から下は、私が書き加えました。




