第9話 血の追憶と九尾の怒り
九十九が腰の黒刀へ手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。
「遅い」
耳元で、冷ややかな声が低く響く。
「っ!?」
視界が追いつかない。気づいた時には、鵺はすでに九十九の懐へと足を踏み入れていた。
黒いコートの内側から滑り出た一斉の呪符が、吸い込まれるように九十九の胸元へと叩きつけられる。
「――『禁』」
バチィィィィンッ!!
呪符が紫紺の光を放った瞬間、雷撃に打たれたような激痛と衝撃が九十九の全身を貫いた。
「ぐぁぁっ!?」
「が……はっ……!?」
身体中の神経が麻痺し、一気に全筋力が奪われる。
膝から力なく崩れ落ち、指先一本すら動かすことができない。
「な、なんだよ……これ……っ!」
九十九は歯を食いしばり、必死に身体に力を込めようとするが、地を這う虫のように痙攣するばかりだ。
鵺はゆっくりと膝を折り、動けない九十九の目元を静かに覗き込んだ。
その左目――赤黒く染まった獣の如き瞳孔が、不気味な光を宿して九十九を射抜く。
「余計な苦しみを味わいたくなければ……答えろ」
感情の欠落した、冷え切った声だった。
「あの女を……どこで見た」
九十九は血の混じった唾を吐き出し、必死に首を横に振った。
「だから……知らないって……言ってるだろ……っ! 本当に……初めて見た顔なんだ……っ!」
鵺はしばらく無言のまま九十九を見つめていたが、やがてフッと小さく溜め息を吐いた。
「……ならば、ひとつ『昔話』をしてやろう」
鵺の真紅の瞳が、焦点を外し、遠い遠い過去の闇を見つめ始める。
「何百年も昔のことだ。場所は中国の海南島――」
夕焼けに茜色に染まる古い街並みを、一人の男が鮮やかな花束を抱えて走っていた。
今日は結婚十周年の記念日。
愛する妻へと贈る大輪の花を大切に胸に抱き、男は満面の笑みで我が家の扉を開けた。
『美麗、ただいま! 十周年おめでとう!』
しかし、返事はない。
家の中はシーーンと静まり返り、薄暗い部屋には灯りひとつ点いていなかった。
『……美麗? 小龍?』
妻と、幼い息子の名を呼ぶ。
胸を嫌な予感が締め付けた。靴を脱ぎ、焦る足取りで奥の部屋へと進んだ男の視界に……床に投げ出された小さな影が映る。
『……小龍?』
抱えていた花束が、ハラハラと床へ落ちた。
男は狂ったように駆け寄り、ぐったりとした我が子を抱き起こした。
幼い服はドス黒い血で真っ赤に染まり、その身体はすでに氷のように冷たくなっていた。
『おい……嘘だろ、小龍……っ! 目を開けろ! 小龍っ!!』
震える声で何度も何度も叫ぶ。
その時だった。
――ギィィ……。
奥の部屋の扉が、ゆっくりと隙間を開けた。
そこに、一人の女が立っていた。
長い黒髪。見慣れた華奢な後ろ姿。
『……美麗?』
女が、ゆっくりと振り返る。
顔立ちには確かに愛する妻の面影があった。……だが、その「目」だけが違っていた。
真紅に染まった獣の瞳孔。口元からは、人間のものではない鋭い牙が覗いている。
『美麗……なのか……?』
信じられないものを見る男の懐へ、女は一瞬で滑り込んだ。
そして、戸惑う男の首筋へと、容赦なくその牙を突き立てた。
激痛。視界が真っ赤に染まり、意識が深い暗闇へと沈んでいく。
やがて目を覚ました時、妻の姿は消えていた。
血の海のなか、男は這うようにして鏡を覗き込む。
そこには……もはや『人間』ではなくなった己の姿が映っていた。
左目だけが異常に裂け、赤黒く爛々と輝いている。
「どうやら……」
鵺は淡々と過去を語り終え、静かに呟いた。
「私の身体には、吸血鬼の毒に対する奇跡的な耐性があったらしい」
完全な吸血鬼にもなれず、かといって人間にも戻れない。
死ぬことすら許されず、生き残ってしまった呪われた存在。
「その日から……私の生きる目的はふたつ」
鵺の瞳の奥に、渦巻くような漆黒の憎悪が宿る。
「吸血鬼という種族を滅ぼすこと」
「そして――……美麗を、この手で殺すことだ」
語りが終わると、山奥の森は再びしんと静まり返った。
九十九は何も言えなかった。
胸が強く締め付けられる。
愛する妻と、幼い息子を同時に奪われた男。その絶望と悲しみは、想像することすら恐ろしい。
しかし、いま眼前にいる鵺の瞳からは、いかなる同情や哀れみすらも拒絶する、冷酷な鉄の意志だけが漂っていた。
「……さて」
鵺が静かに立ち上がる。
「昔話は終わりだ」
倒れ伏す九十九の前まで歩み寄る。
「そろそろ、知っていることを吐いてもらおう」
言い落とすと同時に、鵺の拳が振り抜かれた。
ドガッ!!
鈍い打撃音が響き、九十九の顔面が弾け、血飛沫が舞う。
「ぐっ……!?」
ゴッ! ガンッ!!
容赦のない拳が二発、三発と九十九の顔面へ叩きつけられる。
やがて九十九は力なくダラリと地へ伏し、動かなくなった。
鵺は無表情のまま腰の水筒を取り出すと、意識を失いかけた九十九の顔面へ冷水を豪快に浴びせた。
「ガハッ……!? けほっ……っ!」
冷水で強引に意識を引き戻される九十九。
鵺は九十九の濡れた髪を乱暴に掴み上げ、己の顔の前まで引き寄せた。
「……私は、子供を無駄に殺したくはない」
真紅の左目が、九十九の瞳を至近距離で射抜く。
「だから話せ。あの女はどこだ」
九十九は口の中に溜まった血をペッと吐き捨て、腫れ上がった目で鵺を睨み返した。
「……だから……っ」
「知らないって……言ってるだろぉぉがっ!!」
叫んだ瞬間。
鵺は九十九の頭を掴んだまま、無造作に地面の岩へ叩きつけた。
ドカァンッ!!
土と砕けた岩が舞い上がる。
視界が急激に暗転し、九十九の意識が今度こそ完全に遠のきかけた――その時だった。
「ク、クラマ様ぁぁぁっ!」
森の奥から、悲鳴のような情けない声が響いた。
木々の隙間から飛び出してきた一匹の妖魔が、ガタガタと震える指で鵺を指差す。
「あいつです! あいつが仲間を狩っている退魔師です!」
追いついたクラマは、「なんじゃ、騒々しい」とでも言いたげに何気なくその先へ視線を向けた。
そして――思考が完全に停止した。
血の海の中で地面へ倒れ伏す、九十九の姿。
赤く染まった顔。
ピクリとも動かない、ボロボロの身体。
「……九十九……?」
由香の身体の瑠璃色の瞳が、限界まで見開かれる。
次の瞬間――。
ドクン――――――ッ!!
「な……っ!?」
鵺が思わず息を呑んだ。
クラマの華奢な肉体から、空間そのものを圧砕するような凶絶な妖気が爆発したのだ。
ドオォォォォンッ!!
怒号のような爆風が森を駆け抜け、大木たちがメキメキと悲鳴を上げて激しく軋む。
大地が激しく揺れ動き、案内してきた妖魔たちはその圧倒的な神威の前に失禁しそうになりながら後ずさった。
クラマは幽鬼のような足取りで一歩を踏み出し、ゆっくりと鵺を睨みつけた。
その美しい顔は激しい激怒で歪み、声は怒りで震えていた。
「……お前」
瑠璃色の瞳が、メラメラと禍々しい炎を宿して輝く。
「わらわの……九十九に……何をしたぁぁぁっ!!」
鵺は静かに振り返り、その瑠璃色の瞳と真っ向から視線を交わした。
あまりの圧力を前にしながらも、彼の口元がゆっくりと凶悪に吊り上がっていく。
「なるほど……」
鵺は冷たく笑い、低く呟いた。
「……お前が、あのガキの隠していた『吸血鬼』か」
張り詰めた空気の中、伝説の大妖と、憎悪に生きる退魔師――二人の規格外の強者が、真っ正面から対峙する。




