第10話 刃の境界と新たな影
「――殺す」
地獄の底から響くような低い呻きとともに、クラマの瑠璃色の双眸が血の色の如く禍々しく輝いた。
両腕からドス黒い凶悪な妖気が吹き上がり、一瞬で鋭利な爪となって由香の華奢な指先を覆い尽くす。
次の瞬間――その姿が掻き消えた。
「速――っ!?」
九十九が薄れゆく意識のなかで目を見開く。
クラマは音もなく鵺の懐へと踏み込み、閃光の速度で左の爪を振り下ろした。
空間そのものを切り裂く、必殺の一撃。
だが――鵺の表情は微動だにしなかった。
コートの内側から滑り出た一枚の呪符を、静かにクラマの爪の前へと掲げる。
「――『禁』」
バリィィィィンッ!!
淡い紫紺の光が放たれた瞬間、クラマの左腕を包んでいた禍々しい妖気が、まるで爆発するように弾け飛んだ。
「なっ!?」
鋭い爪が一瞬で霧散し、クラマの左腕からすべての力が抜け落ちる。
「なんじゃ……これは!? 腕が……動かん!?」
困惑し、目を見開くクラマの懐へ、鵺は機械のような正確さで一歩踏み込んだ。
無防備なクラマの胸元へと、静かにその掌を当てる。
「――『発』」
ドガァァァンッ!!
無音の衝撃波が炸裂した。
クラマの華奢な身体はボールのように宙を舞い、そのまま背後の巨大な大木へ激しく激突した。
「がぁっ……!?」
メリメリと音を立てて木が歪み、クラマの口元から鮮血がひと筋零れ落ちる。
それでも彼女は折れぬ意志で、立ち上がり鵺を激しく睨み返した。
鵺は無情な眼差しを向けたまま、コートの内側へと手を伸ばす。
引き抜かれたのは、鈍く光る一本の純銀のナイフ。
鵺は一切の躊躇もなく、それを手首のスナップだけで投擲した。
ヒュンッ――ザシュッ!!
「く……っ!?」
銀のナイフはクラマの肩深々と突き刺さった。
瞬間、激痛とともに身体中の妖気が急速に霧散していく。
「それは『純銀』のナイフだ」
鵺は静かに、粛々と告げる。
「吸血鬼の肉体再生と妖力を著しく封じる。……もう終わりだ」
鵺は二本目のナイフへと手を伸ばした。
止めを刺すべく、クラマの喉元を見据える。
――その時だった。
「やめて……くれぇぇっ!!」
九十九の悲痛な叫びが、静まり返った森に響き渡った。
「鵺さん……っ! こいつは……クラマは人間を襲ったりしない! 悪い奴じゃないんだ……っ!!」
鵺は視線だけをゆっくりと九十九へ向けた。
「……今は、な」
氷のように冷たい声だった。
「だが、いつか人を喰らう日が必ず来る。私は……その可能性を絶対に見逃さない」
その一瞬。
九十九へのわずかな視線のブレ――それこそが、クラマの狙いだった。
「隙ありじゃぁっ!!」
突き刺さるナイフの痛みを力でねじ伏せ、クラマの姿が消えた。
残された右腕の黒い爪が、一直線に鵺の胸を貫く。
ドスッ――!!
鮮血が激しく飛び散った。
「はぁ……はぁ……っ!」
クラマは血を吐きながら、勝ち誇ったように不敵に笑う。
しかし――。
胸を貫かれた鵺の表情は、眉一つ動いていなかった。
「……終わったか?」
あまりに静かな声。
鵺は胸に爪を刺された状態のまま、コートの中から紐で結ばれた二本のナイフを抜き放ち、至近距離から同時に投擲した。
ガッ!! ガッ!!
「な……っ!?」
二本のナイフがクラマの両足へと深く突き刺さる。
同時に、結ばれていた呪導の紐が生き物のようにほどけ、クラマの全身へと複雑に絡みついた。
「身体が……束縛される……っ!?」
完全に動きを封じられたクラマの前で、鵺は胸に刺さっていた爪を自ら無造作に引き抜いた。
大量の血が傷口から流れ出す。
……だが、次の瞬間。
肉が蠢き、裂けた皮膚と肉芽がみるみるうちに繋がり、元通りに塞がっていった。
クラマは息を呑み、金縛りに遭ったように固まる。
「再生……じゃと!? お前……人間ではないのか……!?」
鵺はその問いに答えず、一本のナイフを静かに構えた。
その刃に、最後の一枚の呪符を貼り付ける。
「終わりだ」
静かにナイフを振りかぶる鵺。
「やめろぉぉぉぉぉっ────っ!!」
九十九が絶叫した。
キィィィィン――――――……。
その瞬間、九十九の腰にある黒刀が、まるで意思を持ったかのように高らかで甲高い音を響かせた。
鵺の動きが一瞬だけ止まる。
だが、鵺は迷いを捨て、容赦なく刃を振り下ろした。
次の瞬間――。
バキッ!!
重い打撃音が響き渡った。
クラマの目の前に立っていたのは……一人の少年だった。
「……九十九……!?」
クラマの瞳が大きく揺れる。
鵺の投げ放った刃は、九十九の肩へと深く深く突き刺さっていた。
「……小龍……?」
鵺の真紅の左目が息を呑む。
ボロボロになりながらも身を挺して大切な者を守ろうとする少年の姿に、かつて幼くして命を奪われた己の息子の面影が、一瞬だけ重なって見えたのだ。
ダラダラと赤い血が溢れ出し、地面を濡らしていく。
それでも、九十九は倒れなかった。
歯が砕け散らんばかりに食いしばり、血走った眼で鵺を真っ向から睨みつける。
「……この……分からず屋が……っ!」
九十九は吐き捨てると、体に残された最後の力を振り絞り、渾身の拳を振り抜いた。
ゴッ!!
鈍い拳の衝撃が、一瞬の動揺に固まっていた鵺の頬を直撃する。
鵺の巨躯が、その衝撃で数歩後ろへと後退した。
だが――それが九十九の限界だった。
九十九は糸が切れた人形のように静かに崩れ落ち、そのまま意識を失った。
――どれほど眠っていただろうか。
九十九が重い瞼をゆっくりと開くと、最初に視界に入ってきたのは、半泣きの顔で心配そうに自分を覗き込むクラマの顔だった。
「九十九……っ!」
クラマは九十九の意識が戻ったのを確認すると、心底安堵したように可憐な笑みを浮かべた。
九十九は起き上がろうと身体を起こしかける。
「いっ……!?」
肩に走る激痛に、思わず激しく顔をしかめた。
「まだ無闇に動くな」
聞き覚えのある低い声。
振り向くと、少し離れた巨岩に腰掛け、傷口を手当てしている鵺の姿があった。
九十九は反射的に腰の黒刀へ手を伸ばしかけたが、鵺は静かに首を横に振った。
「安心しろ。今は……お前たちと戦うつもりはない」
鵺の声には、先ほどまでの刺々しい殺気が消えていた。
「その肩の傷の応急処置はしておいた。……礼はいらん」
九十九は何も言えず、黙って鵺を見つめ返した。
鵺はゆっくりと立ち上がると、今度は拘束の解けたクラマへ視線を向ける。
「……今回は見逃してやる」
その瞳に迷いはなかった。
「だが……お前が一度でも人を喰らおうとした時は。その時こそ、私が全力でお前を滅ぼす」
クラマもまた、逃げることなく真っ直ぐに鵺の真紅の左目を見返した。
「……好きにせい」
短く、気高く答えた。
鵺はコートの懐から一枚の折りたたまれた紙を取り出すと、九十九の足元へと投げ渡した。
「それは私の『式神』だ。もし……あの女を見つけることがあれば使え。どこにいようと、必ず駆けつける。……それとその刀、今のお前には呪力が強すぎる。退魔の紐をつけておいた……多少は役に立つだろう」
それだけを言い残すと、鵺は一度も振り返ることなく、森の奥深くて静かに姿を消していった。
九十九が思わず自分の腰元を見やると、黒刀の柄には、まるで黒い髪の毛のようにしなやかで繊細な紐が、幾重にもきつく巻きつけられていた。かすかに温かい妖気が宿っているのを感じる。
「……ありがとうっ!!」
九十九は去り行く鵺の背中に向かって手を大きく振り、腹の底から大声でお礼を叫んだ。
静寂が戻る。
九十九は張り詰めていた緊張を解き、深く呼吸を吐き出してその場へ座り込んだ。
「……なんとか、生き延びたな」
クラマも小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
――しかし、その安堵も束の間だった。
ズシン――――――っ!!
地鳴りのような激しい振動が、周囲の空気を揺らした。
木々がメキメキと音を立てて大きく軋む。
九十九とクラマは、同時にハッと息を飲んで振り返った。
森の奥からしずしずと現れたのは、頭部に巨大な一角を生やした、山のように巨大な異形の妖魔だった。
そしてその背後には……先ほどクラマを案内してきた、あの二体の妖魔が平伏していた。
「……申し訳ありません、一角様」
二体の妖魔は、ヘラヘラとした笑みを浮かべながら頭を下げる。
「ですが、ご覧の通りです。お二人とも……かなり弱っておられますので」
一角の妖魔は、ボロボロの九十九たちを見下ろし、凶悪に口元を歪めた。
「くくく……役立たずどもめ。あれだけ大口を叩いておいて、まだ生きているではないか」
二体の妖魔は震え上がりながらも、必死に揉み手を続ける。
一角の巨魁は、頭上の禍々しい角を揺らし、残忍に嗤った。
「……まあ、いい。手負いの獲物を嬲り殺すのも、それはそれで面白い」
ズシン……!
重い一歩が、大地を大きく揺らす。
極限まで疲弊した九十九とクラマの前に、凶暴な新たな強敵が立ち塞がった。




