第8話 神代町の来訪者
S玉県・神代町。
ローカル電車のガタゴトという揺れに揺られ、到着した駅の改札を抜けると、九十九たちの目の前には都会の喧騒とは無縁の光景が広がっていた。
立ち並ぶ高層ビルなどひとつもなく、視界を埋め尽くすのはどこまでも続く深い緑の山々と、濃密な森。
流れる空気の冷たさからして、都会とは完全に別世界だった。
「……めっちゃ田舎だな」
九十九は思わず呟く。
背負っていたリュックのサイドポケットから古びた和紙の地図を取り出し、手元でゆっくりと広げた。
「ええっと……このあたりのはずだけど……」
しばらく地図とにらめっこをしていた九十九だったが、やがてハァと深い大きなため息を吐き出した。
「いや、これ……適当すぎだろ」
地図に描かれているのは、大雑把な山の絵と、その中腹に描かれた赤墨の丸印が一箇所だけ。
登山道はおろか、目印になりそうな建物すら何一つ書かれていない。
「これで探せって、いくらなんでも無茶苦茶すぎるだろ……」
頭を抱えながらも、他に当てもない九十九はひとまず山道へと足を踏み入れた。
爽やかな風が木々を揺らし、鳥のさえずりだけが森の静寂に響き渡る。
二人と一匹でしばらく山道を歩いていた、その時だった。
「……止まれ」
クラマが突然、ぴたりと足を止めた。
由香の身体に宿るその瑠璃色の双眸が、じっと森の深い奥へと向けられている。
「どうした、クラマ?」
九十九が振り返って声をかける。
クラマはしばらく耳を澄ませるように静観していたが、やがて小さく首を縦に振った。
「少々、野暮用じゃ」
「は?」
「九十九、お主は先に行っておれ」
それだけ言い残すと、彼女は迷うことなく山道を外れ、鬱蒼とした木々の茂みの中へとすたすたと歩き出してしまった。
「お、おいっ!」
九十九は慌ててその背中に向かって叫ぶ。
「勝手に行くなよ! 迷子になるなよ!?」
その瞬間、クラマがぴたりと足を止めた。
振り返りもせず、背中越しにプシューと憤怒のオーラを漂わせながら叫ぶ。
「なるかっっっ!!」
そのままプイッと横を向き、木々の中へと姿を消していった。
九十九は頭の後ろを掻きながら、呆れたように苦笑する。
「……あいつ、本当に大丈夫かよ」
一方、その頃。
山道のルートから遠く離れた、森の奥深く。
木漏れ日が静かに差し込む木々の影で、二体の異形な妖魔が深々と地面に叩き伏せるように膝を折っていた。
「……ご無沙汰しております、クラマ様」
二体は伏したまま、恐々とした声で平伏する。
クラマは胸の下で腕を組み、冷ややかな眼差しでその頭頂部を見下ろした。
「……よくわらわだと分かったな。人間の身体にこの身をやどしておるというのに」
「クラマ様の放つ尊い妖気……隠しようもございません」
「ふむ。……それで? 何用じゃ」
二体の妖魔は、額を土に擦り付けるようにして哀願した。
「どうか……どうかお助けください!」
切迫した、切実な悲鳴のような声だった。
「どこからか現れた『退魔師』なる者により、我らの仲間が次々と討たれております! このままでは……この神代町に住まう妖魔は全滅してしまいます!」
しかし、クラマの表情はピクリとも動かない。
「……それが、わらわと何の関係がある」
氷のように冷たく言い放つ。元より他者の命など知ったことではないのだ。
妖魔たちは顔を見合わせ、ゴクリと生唾を飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「お礼として――」
「ぬ?」
「クラマ様の『封印の場所』を……次の欠片のありかを、お教えいたします!」
その言葉を聞いた瞬間、クラマの眉が僅かに跳ね上がった。
(……ほう。次の封印の地、とな)
クラマは腕を組んだまま、少しだけ考える素振りを見せる。
その脳裏には、なぜか勝手に九十九の情けない顔が浮かび上がっていた。
『うわぁぁん! クラマ、ありがとう!』
ボロボロと感動の涙を流しながら、クラマの手を握りしめて感謝する九十九。
『やっぱりクラマは頼りになるなぁ! 一生ついて行くよ!』
……そんな、あり得もしない都合の良すぎる妄想が、彼女の頭の中で勝手に展開されていく。
「ふふっ……」
思わず口元がだらしなく緩みそうになるのを、咳払いで胡麻化した。
(……ふむ、悪くない。実に悪くないぞ)
クラマはフンと満足そうに鼻を鳴らした。
「……よかろう。案内せい」
妖魔たちはぱっと顔を輝かせた。
「あ、ありがとうございます……!」
二体は何度も何度も頭を下げると、森のさらに奥深くへと向かって足早に歩き始めた。クラマもまた、不敵な笑みを浮かべながらその後に続く。
一方、その頃。
九十九はコンを肩に乗せ、一人寂しく山道を歩いていた。
「……クラマのやつ、遅いな。便所か?」
手元の地図を見ては首を傾げる。
「ていうかこの地図、本当に合ってるんだろうな……」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら歩いていると――。
前方から、一人の男がゆっくりと歩いてくるのが視界に入った。
全身を黒いロングコートで包み、鍔の広い帽子を深く被っている。
さらに目元には、中が透けないほど濃い漆黒のサングラス。
どう見ても異様すぎる不審な出で立ちだった。
男は九十九の数歩手前で、ぴたりと足を止める。
「失礼」
低く、響くような落ち着いた声。
「私の名は――鵺」
男はコートの胸元から一枚の古びた紙を取り出し、九十九の目の前へと差し出した。
「この女を……知らないか?」
紙に描かれていたのは、風に長い髪をなびかせた、どこか儚げで美しい女性の肖像画だった。
九十九は目を凝らしてそれを見たが、ピンとくるものは何もない。
「いや……会ったことないですね。知りません」
九十九が素直に答えても、男――鵺は微動だにしなかった。
「嘘をつくな」
静かな声。
だが、その言葉には逃げ場を無くすような妙な圧迫感が宿っていた。
「私の占いは……外れない」
鵺はコートの懐から、鈍い光を放つ古びた真鍮製の羅針盤を取り出した。
その針は激しくカチカチと震えたのち、ピタリと真っ直ぐ九十九の胸元を指し示した。
「お前だ」
低い声が落ちる。
「お前は、この女を知っている」
九十九は気押されながらも、慌てて両手を振った。
「だから本当に知らないって! 今日の今日まで見たこともない顔だ!」
鵺は九十九の言葉を無視し、無言のままサングラスへとゆっくり手をかけた。
そして――それを静かに外す。
露わになった彼の左目を見た瞬間、九十九の背筋に氷を押し付けられたような激しい戦慄が走った。
真紅に染まった瞳。
その中央で、獣のように細く縦に裂けた瞳孔。
見覚えがありすぎる、悪夢のような『目』だった。
九十九は息を呑み、思わず一歩後ずさる。
「……ヴァンパイア……っ!」
その呟きを聞いた瞬間、鵺の固く結ばれた口元が、ゆっくりと凶悪に釣り上がった。
「ほう……」
低く愉悦に満ちた声が漏れる。
「やはり……お前は知っているようだな?」
鵺は妖しく嗤い、九十九へ向けて静かに一歩を踏み出した。
山奥の穏やかな静寂が、一瞬にして肌を切り裂くような殺気と緊張感へと塗り替えられていく。




