第7話 大妖の誇りと小さな約束
その瞬間だった。
九十九の手に握られた黒刀が、低く唸るようにビリビリと震え始めた。
「っ……!」
刀身からドス黒い靄が溢れ出し、無数の気味の悪い黒い腕となって、九十九の腕や首筋へと容赦なく絡みついてくる。
『憎い……!』
『殺せ……!』
『どうして……!』
『私を……私を殺さないで……!』
幾千もの怨嗟の叫びが脳髄へ直接流れ込み、精神をかき乱す。
「ぐっ……ああぁっ!」
九十九は歯が割れんばかりに食いしばり、震える腕で黒刀の暴走を必死に押さえ込んだ。
(ここで意識を失えば、この場にいる誰かを……由香の身体を斬ってしまう!)
本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。
「くっ……戻れぇぇっ!!」
九十九は渾身の力を振り絞り、鞘へと黒刀を強引に押し込んだ。
カチン――。
鍔が静かな音を立てて収まった瞬間、絡みついていた黒い腕は嘘のように霧散し、消え去った。
九十九はその場へ膝をつき、肩を激しく上下させて荒い息を繰り返す。
「はぁっ……はぁっ……」
額から大量の汗が滴り落ちる。
クラマはそんな九十九の様子を見て、可憐に小さく笑った。
「まだまだじゃのう、九十九」
しかし、その緩んだ空気を切り裂くように、コンの鋭い声が飛んだ。
「気を抜くな! まだ終わっておらんぞ!」
その言葉と同時に、床に這いつくばっていた女の妖魔が、ゆらりと立ち上がる。
耳元まで裂けた口からボタボタと血を滴らせながら、不気味な笑い声を上げた。
「くくく……我を愚弄するな……」
「我は、三百年以上を生き抜いた大妖――『魂喰い』だぞ……!」
妖魔が顔面を覆うほど大きく口を開く。
その底なしの闇の奥から、数メートルはあろうかという巨大な黒蛇が姿を現した。
黒蛇は轟音を立てて地面を這い、動けない九十九へ向けて一直線に襲い掛かる。
「しまっ――!」
九十九が身構えた、その時。
ガギィィンッ!!
金属同士が激突したような激しい音が響いた。
九十九が顔を上げる。
そこには、由香の身体を借りたクラマの華奢な背中があった。
彼女の両腕から伸びた漆黒の鋭い爪が、巨大な蛇の分厚い顎を正面から貫き、その突進を完全に受け止めていたのだ。
「ぐあああぁぁぁっ!!」
魂喰いが絶叫した。
顎を貫かれた巨大な蛇は苦しそうにのたうち回り、慌てて本体の口の中へと引き戻されていく。
クラマは肩をすくめ、鼻でふっと笑った。
「たかが三百年程度生きた小僧が……随分と偉そうではないか」
その一言だけで、周囲の空気がビリビリと震え上がった。
かつて世界を恐怖に陥れた『九尾の王』としての底知れぬ妖気が、クラマの小さな身体から一気に溢れ出したのだ。
「クラマ!」
九十九が叫ぶ。
「怪我は……怪我は大丈夫なのか!?」
クラマは言われて初めて、自分の肩へ視線を落とした。
さっきまで複数の蛇に噛みちぎられていたはずの痛々しい傷が……跡形もなく消え去っていた。
「……不思議じゃ」
クラマは血のついていない手を握ったり開いたりしながら、ポツリと呟く。
「あのヴァンパイアとやらの血の影響かのう……自己再生力が上がっておる」
九十九も驚いて目を見開いた。
確かに、由香の白い肌には傷ひとつ残っていない。
魂喰いは、クラマから放たれる圧倒的な格の違いと妖気を前に、一歩、また一歩と後ずさった。
「ひっ……!」
「ば、化け物……っ!」
妖魔は震え上がり、背を向けて逃げ出そうとした。
「待て」
氷のように静かな声。
クラマは地面に落ちていた、透明な一粒の『飴玉』を静かに拾い上げた。
その小さな飴玉を愛おしそうに見つめ、優しく微笑む。
そして――魂喰いの目の前へ、一瞬で踏み込んだ。
「冥土の土産じゃ」
「お前には……ちと勿体ないがな」
ドスゥッ!!
黒い爪が、握りしめた飴玉ごと、魂喰いの胸の奥深くまで突き刺さった。
「があああぁぁぁぁっ────────っ!!」
断末魔の絶叫が響く。
妖魔の身体はどす黒い煙となって崩れ落ち、やがて風に溶けるように完全に消滅した。
空間に静寂が訪れる。
直後――。
バキンッ!!
空間を覆っていた結界が、ガラスのように砕け散った。
歪んでいた景色が元に戻り、見慣れた公園の風景が姿を現す。
周囲にいた大人たちは、突然現れた九十九と、血まみれのクラマの姿を見てパニックになり始めた。
「な、何があったんだ!?」
「あの子、血だらけじゃないか!」
「警察と救急車を呼べ!」
「危ない、離れろ!」
ざわめきが急速に広がっていく。
九十九はよろめきながら立ち上がると、クラマへ手を差し伸べた。
「……行こう」
クラマは素直にその手を取り、立ち上がる。
二人が騒ぎから離れようと歩き出した、その時だった。
――ぎゅっ。
クラマの背中に、小さな温もりがしがみついた。
驚いて振り返ると、そこにはさっき助けた小さな女の子が、短い腕で一生懸命にクラマの腰を抱きしめていた。
「……お前」
クラマは、少し困ったような、けれど優しい声で尋ねる。
「わらわのことが……怖くないのか?」
女の子は、力いっぱい首を横に振った。
「ぜんぜんっ!」
太陽のように満面の笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん、すっごくかっこよかったもん!」
そう言うと、女の子は小さな両手いっぱいに持っていた、色とりどりの飴玉を差し出した。
「これ、ぜんぶあげる!」
クラマはしばらくの間、その小さな手にある飴玉と、女の子の屈託のない笑顔をじっと見つめていた。
やがて、静かにそれを受け取ると、少女の目の前へとしゃがみ込む。
「……ありがとう」
少し照れくさそうに笑い、クラマはぽつりと告げた。
「もし……嫌でなければ」
「わらわと……友達になってくれぬか?」
少女は迷うことなく、大きく頷いた。
「うんっ!」
その屈託のない笑顔は、大妖の心を溶かすほど眩しかった。
クラマもまた、ごく自然に、心からの笑みを浮かべる。
「約束じゃぞ」
二人は小さな小指と小指を絡め合い、固い約束を交わした。
やがて、母親のもとへ駆けていく少女に手を振り、二人は足早に公園を後にした。
帰り道。
クラマはもらった飴玉を宝物のように大事に両手で抱えながら、とても嬉しそうに鼻歌を歌っていた。
相変わらず、頭痛がするほど音程は外れている。
その妙な歌を聞きながら、九十九は横で小さく苦笑した。
「……良かったな」
クラマは飴玉をギュッと胸に抱きしめ、九十九をジロリと睨んだ。
「やらんぞ」
「いらないっての」
九十九は思わず吹き出して笑った。
夕暮れの茜色に染まる道を、二人は並んで歩いていく。
九十九は自分の家の方角を見つめ、決意を込めて小さく息を吐いた。
「帰ったら、すぐに旅の支度だ」
「いよいよ、東へ向かうぞ」
「うむ!」
クラマは満面の笑みで大きく頷いた。
こうして二人は、それぞれの中に芽生えた新たな決意を胸に、世界の真実を巡る長い旅への第一歩を踏み出すのだった。




