第6話 飴玉と大妖
少し前――九十九の家。
「……ふぁぁ……腹が減ったぞ……」
ソファの上で目を覚ましたクラマは、猫のように大きく伸びをした。
「九十九よ。わらわは、またあのおにぎりとやらを所望するぞ」
声をかけるが、返事はない。
きょろきょろと部屋の中を見回してみる。
「……おらぬのか?」
シーーンと静まり返った室内。九十九の姿はどこにもなかった。
「ふむ……」
クラマの口元に、ふっと悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「ならば、少しくらい外の様子を見て回っても気づかれまい」
九十九や黒狐に見つからないよう、抜き足差し足で玄関を抜け出すと、クラマは鼻歌交じりで昼下がりの町へと踏み出した。
見慣れない四角い建物。
見慣れない機械や道具。
そして、忙しなく行き交う衣服を纏った人々。
五百年以上も蔵の奥深くに封印されていたクラマにとって、目に映るそのすべてが新鮮で珍しかった。
「ほう……人間の町というのも、随分と変わったものじゃな……」
しばらく歩くと、緑豊かな公園の前へと差し掛かった。
公園の中では、小さな子どもたちが笑顔で元気に走り回っている。
クラマは立ち止まり、木陰からその様子をじっと眺めた。
(……おかしい)
(これほどの人間を目の前にして……腹が減らぬ)
自分でも実に不思議だった。
かつて封印される以前の自分であれば、人間など単なる「獲物」か「生贄」でしかなかったはずだ。
だが今は違う。
この「由香」という少女の肉体に宿ってからというもの、人間を見ても食欲どころか、以前のような黒々とした敵意すら湧いてこないのだ。
「あ! お姉ちゃん!」
突然、可愛らしい幼い声が響いた。
振り向くと、一人の小さな女の子が短足を一生懸命動かして駆け寄ってくるところだった。
「ねえ、一緒に遊ぼ!」
クラマはぽかんと目を丸くした。
「……わらわの姿を見て、恐ろしくはないのか?」
女の子は「ううん!」と大きく首を横に振った。
「ぜんぜん! お姉ちゃん、髪の毛が真っ白で、絵本のお姫様みたいだもん!」
「それにね、おめめも飴玉みたいにキラキラしててキレイ!」
「……あめだま?」
聞き慣れない単語に、クラマは首を傾げる。
すると女の子はポケットをごそごそと探り、透明なフィルムに包まれた小さな粒を二つ取り出した。
「はいっ! 一つあげる!」
「……わらわに、くれるのか?」
クラマは恐る恐る小さな手からそれを受け取り、手のひらに載せて光に透かしてみた。
まるで磨き上げられた宝石のように美しく輝いている。
「……これは、食べられるのか?」
「うん! 甘くて美味しいよ!」
言われた通り薄紙を剥がし、指先でつまんで口の中へと放り込んだ。
ころり。
次の瞬間――甘い果実のような風味が、一気に口一杯に広がった。
「……っ!?」
クラマの瑠璃色の双眸が、限界まで見開かれる。
「う、美味いぃぃぃっ!!」
思わず公園中に響くような大声を上げていた。
「なんじゃこれは! なんという甘みじゃ!」
「ふふ、でしょ? もっとあげるから待っててね!」
女の子はくすりと笑うと、ベンチに座る母親のもとへトコトコと走り出した。
――その直後だった。
通りを、一人の女が歩いてくる。
女の子は前をよく見ておらず、女の服の裾に軽くぶつかって尻もちをついた。
「ご、ごめんなさい……っ」
慌てて頭を下げる女の子。
女は無言のまま、ゆっくりと振り向いた。
その瞬間――。
バリリッ……!
女の顔面が、耳元まで裂けた。
顔の中央にあるたった一つの巨大な眼球の中には、無数の小さな瞳がギョロギョロと蠢いている。
「ひっ……!?」
女の子が引きつった悲鳴を上げる。
だが、周囲を行き交う大人たちは誰も足を止めない。まるで、その恐ろしい化け物の存在が誰の目にも見えていないかのように。
「もっと恐怖しろ……」
女の皮を被った妖魔が、耳障りな声で嗤う。
「人間の幼子の恐怖こそ、最高のスパイスだ……!」
次の瞬間。
妖魔の眼球から、何本もの真っ黒な蛇が噴出し、女の子へ向けて一斉に襲いかかった。
その頃、公園の入口にいたクラマは不気味な違和感に気づいていた。
「……ぬ? あやつ、どこへ消えた?」
ついさっきまで飴玉をくれた女の子の姿が、忽然と消えていた。
「まさか……」
クラマの瑠璃色の瞳が、すっと細くなる。
「わらわの飴玉を……奪おうというのか?」
ズルリ……!
由香の華奢な手から、漆黒の鋭い爪が伸びる。
一閃。
クラマは何もない空を力任せに切り裂いた。
ビリリィィィッ――――!!
ガラスが割れるような音とともに空間そのものが裂け、隠されていた異界の「結界」が露わになった。
結界の中では、あの妖魔が襲いかかろうとしている最中だった。
クラマは躊躇することなく、その亀裂へと飛び込んだ。
女の子の前に滑り込む。
ザシュッ!!
六匹の黒蛇が一斉にクラマの肩や腕へと喰らいついた。
鮮血がドッと飛び散る。
「くくく……妖魔の癖に、人間を庇うとはな……!」
蛇の妖魔が嘲笑う。
クラマは自分の肩に深く牙を突き立てている蛇を、冷ややかな目で見下ろした。
「お前か」
氷のように静かな声だった。
「わらわの飴玉を……奪おうとしたのは」
「……は?」
妖魔が呆気に取られた、その瞬間。
グシャッ!!
クラマは自身の肩に噛みついていた蛇を、素手で力任せに握り潰した。
「ヒ、ヒイィィッ!? おじ上ぇぇっ!?」
残る五匹の蛇が悲鳴を上げ、一斉に距離を取る。
だが、クラマの身体からも大量の赤い血が流れ落ちていた。
人間の身体は、妖怪の肉体とは違う。
いくら大妖の魂が宿っていようと、この傷は確実に「由香」の命を削っていた。
「くっ……」
膝をつくクラマ。
蛇の妖魔は舌なめずりをしながら、ニヤリと不気味に歪んだ。
「ハハハッ! 人間の貧弱な身体では、その程度が限界か! そのまま喰らってやるわ!」
五匹の蛇が、牙を剥き出しにして一斉に襲いかかってくる。
クラマは血を吐き捨てるように、ふっと苦笑した。
「……まったく」
「人間の身体というのは、なんと脆く……なんと不便なものか」
それでも――彼女の口元には、不敵で凛とした笑みが浮かんでいた。
「じゃが――」
瑠璃色の瞳が、闇の中で怪しく輝く。
「遅いんじゃ」
――その瞬間だった。
ズガァァァァンッ!!
結界の天井が、激しい音を立てて真っ二つに叩き割られた。
頭上から降り注ぐ光と瓦礫の渦。
そこから、一人の少年が黒刀を力強く振り下ろしながら飛び込んできた。
「うおおおぉぉぉぉぉっ─────っ!!」
漆黒の刀身が描く、一筋の美しい閃光。
ドカァンッ!!
五匹の蛇は悲鳴を上げる暇すら与えられず一瞬で真っ二つに切り裂かれ、黒い霧となって消滅した。
空間に静寂が戻る。
降り立った少年――九十九は、荒い息を吐きながら黒刀を構え直した。
クラマは血を流しながらも、九十九を見上げて小さく可憐に笑った。
「……ふむ」
「だいぶ……まともに黒刀を扱えるようになったようじゃな、九十九」




