第80話 崩落の牙城、漆黒の泥鎧
「いくわよ!!」
千鶴は石畳を鋭く蹴り砕き、白銀の八尾を揺らすカミーラ目がけて一気に駆け出した。
対するカミーラは口元に狂気的な笑みを浮かべたまま、白銀の毛並みに覆われた右手の長爪を横薙ぎに大きく振るう。
次の瞬間――。
ゴォォォッ!!
空間を押し潰すような凄まじい衝撃波が、弾丸のごとく千鶴へと襲いかかった。
「……くうっ!!」
千鶴は咄嗟に足を止めて死角へ逃れようとしたが、前進する踏み込みの勢いがつきすぎている。回避の動作に移る間もなく、衝撃波が目の前まで迫った。
バキィィン!!
乾いた硬質な破砕音が静寂を突き破り、千鶴の眼前に展開された封狐の光盾が、衝撃波を受け止めた直後に脆くも粉々に砕け散った。
「油断するなよ!! ……まさか、僕の盾が一瞬で壊されるなんて……!」
封狐が焦燥の叫びを上げる。
「ありがとう……!」
千鶴は短く感謝を告げると、手にした『封印の剣』を強く握り直した。
そして、今度は相手の僅かな動身を見極めるように、慎重に間合いを詰めていく。
「早くおいでよ……もっとたっぷり遊んであげるから」
カミーラは両腕を悠然と大きく広げ、獲物を前にした捕食者のように挑発し、嘲笑った。
「なめないでよ!!」
千鶴は鋭く叫び、カミーラの間合いへと意を決して踏み込んだ。
ガンッ!!
ガガンッ!!
ガキィィン!!
二人の凄絶な爪と黒き刃が激しく激突するたび、火花が激しく散り、甲高い金属音が大広間に絶え間なく響き渡った。
千鶴は魂の力を振り絞って剣を打ち振り、カミーラが繰り出す猛攻を必死に受け流していく。
しかし――。
「……っ!」
徐々に、カミーラの攻撃速度に千鶴はついていけなくなっていた。
カミーラの伸びた白銀の爪が、千鶴の繊細な防御をかいくぐり、その華奢な首元へと肉薄する。
まさに、その危機一髪の瞬間であった。
ガンッ!!
鋭い金属打撃音が響き、千鶴の喉元に届くはずだったカミーラの爪が寸前で力任せに弾き飛ばされた。
「そういえば……お前もまだしぶとく生きていたようだな」
カミーラは割って入った影の方へ不快そうに目を向けると、酷薄に口元を歪めた。
「くっくっく……虫けらすぎて、存在にすら気づかなかったわ」
千鶴の首元を守り抜いたのは、瀕死の重傷を負いながらも割り込んだ大天狗・御館の鉄棍であった。
「クラマの力を完璧に使いこなせず、焦っているようだなっ!」
御館は腕力を振り絞ってカミーラの爪を豪快に弾き返すと、血走った鋭い眼光を射抜いた。
「……その生意気な減らず口を、二度と叩けないようにしてやろう」
カミーラは後方へとしなやかに跳び退きながら、両の腕に禍々しい妖力を極限まで集中させた。
すると――。
ボコボコボコッ!!
カミーラの両腕の肉体が怪異に脈打ち、みるみるうちに輝く白銀の毛並みによって重厚に覆われていく。
それはまさに、九尾の王・クラマの力を模した圧倒的な怪力の肉体であった。
さらに、指先からは甲冑をも切り裂く長大で鋭利な爪が蛇のように伸びる。
「……っ!!」
次の瞬間、音を置き去りにしたカミーラが二人へと襲いかかった。
「危ない!!」
封狐が叫び、千鶴と御館の正面へ光盾を再展開する。
しかし――!
ザシュッ!!
狂暴な白銀の爪は、封狐の防壁をまるで紙細工のごとくあっさりと切り裂いて無力化した。
「あいつ……クラマ以上の力を引き出してるよ!!」
封狐の叫びが大広間に虚しく響く。
千鶴は咄嗟に『封印の剣』を斜めに構え、迫りくる凶悪な爪を正面から受け止めた。
ガギィィン!!
だが、その一撃に込められた質量の重さは、これまでの比ではなく想像を絶していた。
「きゃあっ!!」
千鶴の華奢な身体は衝撃を殺しきれず無残に弾き飛ばされ、冷たい石畳の上を激しく滑っていった。
「くっくっく……ずいぶん軽い身体だなぁ、千鶴」
カミーラは惨烈な愉悦に浸りながら笑った。
「……きさまッ!!」
御館が魂の咆哮とともに、上段から鉄棍を振り下ろす。
だが、その大振りの一撃がカミーラへと届くよりも早く――。
ザシュッ!!
白銀の爪が空間を切り裂き、御館の屈強な胸元を深々と横一文字に切り裂いた。
「ぐっ……!!」
大量の鮮血が石畳に飛び散る。
「御館様!!」
千鶴は悲痛な叫びを上げた。
御館は激痛に片膝をつき、溢れ出る傷口を強く押さえながらも、伸ばした隻腕で千鶴の制止を試みた。
「……大丈夫だ!! ワシにかまうな!!」
そう叫ぶ声には、隠しきれぬ明らかな苦痛と苦悶が滲んでいた。
「早く向かってこないと……この男を先に捻り潰しちゃうかもよ?」
カミーラは血濡れの口元をニヤリと歪め、無残な笑みで千鶴を煽り立てる。
千鶴は純銀の剣を固く握り締め、意を決して再びカミーラへと直線に駆け出した。
「バカ……来るな!!」
御館の制止の叫びが響く。
しかし、千鶴は足を止めなかった。
「はああああっ!!」
全身の魂と退魔の血を込め、全霊で剣を振り下ろす。
ガンッ!!
ガガンッ!!
ガキィィン!!
カミーラの白銀の爪と黒き剣が激しく打たれ、火花を散らす。
だが、千鶴の剣が大きく振り上げられた、まさにその刹那――。
「……遅いわね」
カミーラが氷のように冷たく呟いた。
ガキィィン!!
鋭い逆手の爪が千鶴の剣の腹を力任せに弾き飛ばす。
千鶴の掌から離れた『封印の剣』が、くるくると虚空を舞った。
「しまっ……!」
千鶴が息を呑む。
その命取りの一瞬の隙を、カミーラが見逃すはずもなかった。
ズブッ!!
「ぐっ……!」
手応えのある肉音が響き、鋭利な爪が無防備になった千鶴の右肩へと深く突き刺さった。
「くっくっくっ……あははははは!!」
絶対の優位を確信したカミーラの嘲弄と哄笑が大広間に高らかに響き渡る。
「封狐!!」
千鶴は劇痛に顔を歪めながらも、諦めず叫びを上げた。
ガンッ!!
直後、頭上で硬質な打撃音が弾けた。
カミーラは何事かと驚愕して顔を上げる。
宙を舞っていた千鶴の『封印の剣』が、上空に現れた封狐の小盾に絶妙な角度で弾かれ、美しい軌道を変えて落ちてきたのだ。
そして――。
スッ!!
吸い寄せられるように、剣は千鶴の左手へと完璧に戻った。
「きさま……!!」
カミーラが恐怖に目を見開く。
だが、もうすべてが遅かった。
千鶴は柄を握り直すや否や、そのまま逆手で渾身の力を込め、下から突き上げるように振り抜いた!
ザシュッ!!
「ぐわああああっ!!」
漆黒の刃がカミーラの胸元を深々と切り裂いた。
鮮血が激しく噴き出し、白磁のような美しかった肌を鮮やかな赤へと染め上げる。
千鶴は素早く間合いを取り、血を滴らせる剣を凛と構え直し、可憐に微笑んで見せた。
「手足や指先と違って……胸の深い傷は、自ら引きちぎって即座に再生させるわけにはいかないんじゃないかしら?」
「下等な人間風情が……この我が胸に傷をつけるだと!?」
カミーラの美貌が激しい怒りと屈辱で醜く激高する。
「許さん……絶対に許さんぞォォォッ!!」
狂乱の怒号とともに、凄まじい密度の怨念と妖気が大広間全体を激しく激動させた。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
千鶴たちの頭上に、禍々しい黒々とした雷雲が渦を巻いて立ち込める。
「危ない!!」
千鶴は激痛の走る右肩を押さえながら、倒れる御館の元へ必死に駆け寄った。
次の瞬間――!
ドォン!!
バリバリバリッ!!
ドドォン!!
無数の禍々しい紫電の稲妻が、大広間の石畳や巨大な柱を容赦なく打ち砕いていく。
「くっ……封狐!!」
千鶴の切迫した叫びに即座に応じ、封狐は二人の頭上へ極大の光盾を重ねて展開した。
バリバリバリバリッ!!
狂乱の稲妻が光盾に激しく激突し、激しい閃光が大広間を真っ白に染め上げる。
だが、カミーラの怒りが生み出したあまりにも強大な雷撃の連打に、強固な盾には次々と不吉な亀裂が走っていった。
ピシッ……。
ピシピシッ……。
「まずい……持ちこたえられない……!」
封狐が悔しさに歯噛みする。
そして――。
バキィィィン!!
ついに封狐の盾が音を立てて粉々に砕け散った。
直後、最後にして最大の稲妻が二人のすぐ足元へと容赦なく落雷する。
ドゴォォォン!!
爆裂する轟音とともに石畳が吹き飛び、広間全体を濃密な粉塵が覆い尽くした。
やがて恐ろしい雷鳴が遠のき、大広間に静まり返る不気味な静寂が戻る。
「……あいつ、制御なんて関係なしに、
ところ構わずとんでもない稲妻を出しやがる……」
封狐が冷や汗を流しながら呆然と呟いた。
しかし、その視線が粉塵の奥に佇むカミーラを捉えた、まさにその瞬間――。
「……なっ!?」
封狐の思考が完全に凍りついた。
カミーラの傷ついた全身を、黒く濁った底知れぬヘドロのような不気味な物質が浸食し、覆い始めていたのだ。
ドロリ……。
ボタッ……ボタボタッ……。
黒い濁質は粘着質な音を立てながら、カミーラの白磁の身体から石畳へと滴り落ちる。
だが、落ちたそばから新たな黒い泥が体内から無制限に湧き出し、再び彼女の全身を呑み込んでいった。
まるで、生き物のように際限なく増殖するかのように。
やがて、その異様な物質はカミーラの全身を隙間なく覆い尽くし、禍々しい漆黒の異形の鎧を急速に形作っていく。
その姿は、あまりにも醜悪で、同時に底知れぬ絶望を孕んでいた。
そして――。
ゾワァァァッ!!
カミーラの全身から、これまでとは完全に次元の異なる、空間そのものを歪めるような圧倒的な妖気が噴き上がった。
大気が重く震え、床に散らばった瓦礫の砕片が小刻みに跳ね踊る。
千鶴は痛む肩を抱えながら剣を握り締め、息を呑んだ。
目の前に君臨するのは、もはや先ほどまでのカミーラではない。
その漆黒の泥鎧の最奥から、世界の理を壊す底知れぬ何かが、今まさに覚醒しようとしていたのだった。




