第81話 朱き血煙の誓い
あまりにも異様かつ不気味な黒の形態へと変貌を遂げたカミーラ。
その底知れぬ禍々しき姿を目の当たりにした千鶴と大天狗・御館は、金縛りに遭ったかのように絶望に息を呑み立ち尽くしていた。
黒い濁泥のような鎧の歪な隙間から、空間を直接歪めるほどの圧倒的な殺気と怨霊の妖気が絶え間なく溢れ出している。
まさに、その次の瞬間――!
「……まずい、千鶴! 逃げろぉぉぉっ────!!」
御館が雷鳴のような大音声を上げるや否や、右腕で千鶴の華奢な身体を力任せに後方へ突き飛ばした。
「きゃああああっ……!?」
千鶴の身体が宙を舞う。
直後――!
ザシュッ────!!
空間そのものを不可視の刃で切断したかのような、惨烈な破裂音が重々しく響き渡った。
「……っ……!?」
空中を舞う千鶴の全身に、左腕から走った途絶えることのない過酷な劇痛が襲いかかった。
着地しながら己の身体を見やった千鶴は、息を呑んで血の気を失わせた。
左腕の肘から先が何の前触れもなく切り落とされ、絶たれた傷口からドロリとした熱い朱い血がドバドバと激しく滴り落ちていたのだ。
「う……そ……」
震える声で呟きながら、千鶴は必死に御館の方へと視線を巡らせた。
「……御……館様……?」
そこに横たわっていたのは、あまりにも凄絶で変わり果てた御館の姿であった。
力任せに突き飛ばした右腕は肩口から根こそぎ切り飛ばされ、大天狗の誇り高き顔の半分すらも原型をとどめぬほど大きく損なわれていた。
巨体は力なく石畳に伏し、ぴくりとも動かない。
そして、その遥か後方には――。
漆黒の泥の塊としか形容し得ない、カミーラらしき異形の魔王が静かに佇んでいた。
「御館様ぁぁぁぁぁっ────────────!!!!」
千鶴は溢れ出る血を痛む左腕の傷口とともに力任せに押さえつけながら、血の海を滑るように御館のもとへ駆け寄った。
「しっかりしてください! ……御館様っ!!」
返事はない。
千鶴は震える右手で御館の傷だらけの身体を必死に抱き起こした。
もう、猶予など残されていない。
カミーラの開花させた未知の力は、二人の想像を絶する領域に達していた。
それでも――。
千鶴は血塗られた御館の顔をまっすぐに見つめ、静かに、だが命を賭した声音で口を開いた。
「……お願い。もう一度だけ……私に力を貸して。……あいつを止めるわ」
その覚悟の言葉に、物言わぬ肉塊のようだった御館の体が、奇跡のようにわずかに動いた。
「……分かっとるわいっ────!!」
突然、御館の口から血飛沫とともに豪快な咆哮が弾けた。
「ワシを誰だと思っとるんじゃぁぁぁっ!!」
その地鳴りのような叫びには、死線を越えてもなお一切の陰りを見せぬ、大天狗としての気高く誇り高き魂が宿っていた。
御館は残された力を振り絞り、ゆっくりと、されど重厚に立ち上がる。
そして、千鶴の切断された腕と自分の傷口から流れ出る大量の鮮血を、風の力によって大空へと豪快に集束させ始めた。
ボコボコボコッ……!
二人から流れ出た途方もない量の退魔の血が空中へと浮遊し、やがて禍々しくも美しい赤黒い大球体となって螺旋の渦を巻き上げる。
「御館様……っ!」
千鶴が息を呑む。
御館は壊れかけた大羽扇を左手で力強く握り締めると、最期の生命の灯火を燃やし尽くすように、天を画す大一閃を振り抜いた。
「これで……決めんかいっ────!!」
ブォォォォォッ────────────!!!!
山をも崩す凄まじい大嵐が広間に吹き荒れ、集められた退魔の血が一気に前方の敵へと吹き飛ばされた。
それは深紅の血煙となって空間を縦横無尽に駆け抜け、逃げ場を奪ってカミーラの巨体を隙間なく包み込んでいく。
「……何……!?」
カミーラが異変に気づいた時には、すべてが手遅れであった。
神聖なる退魔の血煙が全身にへばりつき、漆黒の泥鎧を激しく侵食し、解き明かしていく。
その直後――。
ドサッ。
御館の巨体が、最期の役割を果たし終えたかのように石畳へと倒れ込んだ。
「御館様……っ!」
千鶴は倒れた背中に手を伸ばしかけたが、すぐさま前に視線を固定した。
命を賭して道を切り開いてくれた仲間を前に、立ち止まっている猶予は一秒とて存在しない。
ボタッ……。ボタボタボタッ……!
カミーラの身体を強固に覆っていた漆黒の鎧が、退魔の血の触媒によって次々とボロボロと崩れ落ちていく。
「……なんだと……!? 我が防壁が……っ!?」
カミーラが驚愕と屈辱の声を漏らした。
黒い鎧が完全に剥がれ落ち、生身の体が露わとなった、まさにその瞬間――。
赤い血煙を突き破り、一筋の疾風のごとき影が爆進した。
「うおおおおおおおおっ────────────!!!!」
千鶴であった。
彼女は残された右手で『封印の剣』を固く握り締め、全霊を乗せてカミーラの胸元へと一直線に躍り出た。
「なっ……!?」
カミーラが目を見開いた、その極限の刹那――!
ズブッ────────────!!
純銀の『封印の剣』が、寸分違わずカミーラの胸の最奥、カミーラの心臓を一直線に深く貫いた。
「ぐわああああああっ────────────!!!!」
カミーラが全身を震わせ、苦悶の悲絶叫を轟かせる。
千鶴は剣を深々と突き刺したまま、己の足元へ視線を落とした。
そこには、己の肘から流れ出た鮮血が巨大な血の陣形を描いて広がっていた。
千鶴は躊躇うことなく、その血の海へと右手を叩きつけた。
そして――。
「封ッ────!!!!」
万感を込めた千鶴の一閃の叫びが響き渡った。
すると、床に広がっていた朱い血が生命を得た蛇のように禍々しくうねり始めた。
ドロリ……。
赤い血が石畳を走り、カミーラの足元から身体全体へと力強く巻きついていく。
「なっ……!? これは……何なのだ……っ!?」
カミーラは激痛の中で身を狂暴によじらせた。
しかし、血の枷は両腕にも両脚にも網の目のように絡みつき、逃れようと暴れれば暴れるほど強く、深く肉体を締め上げていく。
やがて、カミーラは指一本動かすことすら能わぬ完璧な緊縛へと追い込まれた。
千鶴はカミーラの完全なる拘束を見届けると、穏やかで美しい微笑みを口元に浮かべた。
「ふふふ……たとえ今の私の力で、あなたを滅ぼしきれなくても……この命と引き換えに、あなたを二度と出られない暗闇へ封印することはできるわ」
「……ふふふふっ」
カミーラは一瞬だけ絶句して口をつぐんだ後、呆れ返ったように惨酷に笑った。
「哀れで狂った小娘よ……。自分自身の命を供物にして、わらわと共に死の暗闇の中へ封印されるというのか?」
「そうよ」
千鶴は瑠璃色の瞳に一切の迷いもなく答えた。
そして、どこか楽しそうにクスリと微笑む。
「ふふふっ……これから永い時を二人っきりで過ごすんだから、少しは仲良くしましょう?」
「……ちっ、不快な奴めっ!!」
カミーラは屈辱に満ちた顔を死に物狂いで背けた。
千鶴はそんな彼女の反応を見て、可憐にくすくすとおかしく笑った。
「ふふふふっ……封狐!」
千鶴は顔を天井へ上げ、澄んだ声で叫んだ。
「私と一緒に……私たちを永久に封印してっ!!」
『……千鶴っ!』
相棒・封狐の声が、精神の最深部から真っ直ぐに響いた。
『僕も……僕も一緒に行くよっ!!』
「あなたは来なくていいのよ! 私一人で十分だからっ!」
千鶴は即座に言い返した。
『嫌だねっ────!!』
封狐は魂の底から大声を張り上げた。
『クラマ達や千鶴のいない冷たい世界で、僕だけがひとりぼっちで生き残るなんて……絶対に嫌だ! 僕はどこまでも、千鶴と一緒にいたいんだよっ!!』
その声には、何物にも決して譲れぬ深い友情と絆が溢れ返っていた。
『それに、千鶴ひとりでカミーラを封印するより、僕が千鶴の力を支えた方が、千鶴の負担をずっと減らせるだろっ!?』
千鶴は驚きに目を限界まで見開いた。
そして、愛おしそうにゆっくりと目を細める。
「……ありがとう、封狐」
その言葉は、悲壮な戦場の中でどこまでも静かで、優しかった。
千鶴は再び目の前で縛られるカミーラへと視線を向ける。
たとえ自らの命が永遠の闇に失われようとも、愛する仲間たちとこの世界を未来へ繋ぐ。
その硬い決意は、もう何者にも揺らぐことはなかった。




