第78話 奪われし神通力、最悪の絶望
「……どうやら、ただの暇つぶしの玩具くらいにはなりそうだな」
カミーラは不吉な血色の唇に薄い笑みを浮かべると、玉座の椅子からゆったりと身を起こした。
コツ……コツ……。
重厚な石の階段を一段ずつ下りてくる。
その立ち姿からは、先ほどまでの気だるげな退屈さは完全に消失していた。
代わりにその全身から立ち上るのは、底知れぬ狂気的な殺気であった。
「ここからが本番じゃな……わしも腹を括って一緒に戦うぞっ!」
大天狗・御館は大羽扇を力強く構え、千鶴のすぐ隣へと並び立った。
「……ええ、お願いね……御館様!」
千鶴も手に握る禍々しい『封印の剣』を強く握り直す。
二人が全身の霊気をみなぎらせて身構えた、まさにその瞬間――。
「先手必勝じゃああっ!!」
御館が渾身の力を込め、大羽扇を横一閃に勢いよく振り抜いた。
ヒュオオオオッ────!!
空気が悲鳴を上げて唸り、目に見えない真空の刃が何本も生み出される。
それらは一直線にカミーラの胸元へと襲いかかった。
だが――。
ザシュッ! ザシュッ! ザシュッ────!!
真空の刃はカミーラの身体を容赦なく深く切り裂いた。
鮮血が虚空に舞い散り、豪華な衣装が裂け、肉体のあちこちに骨に届くほどの深い傷が刻まれる。
それでも、カミーラは足を一歩たりとも止めなかった。
ジュルルルッ……!
切り裂かれた傷口が瞬く間に気味の悪い音を立てて塞がり、破壊された肉体が元通りに復元されていく。
そして何事もなかったかのような足取りで、最後の階段を下りきった。
「いきなり不意打ちとは、醜い化け物らしく浅しい手を使うじゃないかしら」
カミーラは頬に付着した血を細い指先で優雅に拭うと、ニヤリと惨酷に笑ってみせた。
「……どうやら、一筋縄ではいかん化け物らしい」
御館は低く重い声で呟き、鉄棍を壊れんばかりの力で握り締めた。
一撃で首を落とすどころか、傷を負わせることすら何の意味も成さない。
だが、千鶴は怯まなかった。
「さあ……いくわよっ!!」
千鶴は石畳を強く蹴り破り、カミーラの前へ立つと。
その手に固く握られた『封印の剣』が、暗黒の禍々しい光を放つ。
対するカミーラは、片手を優雅に軽く上げた。
すると、その白磁の掌から赤黒い真血が溢れ出し、瞬く間に鋭利な血の長剣を形作った。
カンッ────────!!
二つの相反する刃が激突し、爆烈な火花が散る。
カンッ! キィンッ! ガキィンッ────!!
静まり返っていた大広間に、凄絶な金属音が連続して響き渡った。
千鶴は華麗に剣を振るい、カミーラの懐深くへと踏み込んでいく。
カミーラもまた、流れるような無駄のない舞のごとき動きで千鶴の攻撃を受け流していく。
そして――。
ザシュッ────!!
二人の交差した刃が、ほぼ同時に互いの美しい頬を掠めた。
朱い鮮血が宙を舞う。
千鶴は瞬時に一歩退き、激しい呼吸を整えた。
一方、カミーラは頬の傷を指先でそっと撫で、付着した自らの血を眺めた。
「……確かに、傷が修復しないわね」
その声には、恐怖や驚きよりも、好奇心の色が濃く滲んでいた。
「面白い……実に面白いじゃないか、その力は」
カミーラは不気味に口元を吊り上げると、手にしていた血の剣を霧散させた。
「手ぶらで……私に勝てる余裕のつもりなの!?」
千鶴は間髪入れず、即座に再び踏み込んで切りかかった。
だが――。
ガァァンッ────!!
鈍く重い金属打撃音が広間に響き渡った。
「……えっ……!?」
千鶴の封印の刃が、硬質な不可侵の何かに弾き返されたのだ。
目の前に佇むカミーラの左右の両腕が、いつの間にか重厚な巨岩の結晶に覆われていた。
それはまさに、烏山で出会った仲間――大妖・岩王の腕そのものであった。
「きさま……! その岩の腕の力、岩王のものではないのか!?」
御館が絶句し、驚愕の叫びを上げる。
「そのようなハッタリの模倣に騙されるものかぁっ!!」
御館は鉄棍を大きく上段に構え、一気にカミーラへと突進した。
「ハッタリかどうか……その身で試してみる?」
カミーラは不敵に嘲笑う。
「うおおおおっ────!!」
御館は全身の全霊の腕力を込め、鉄棍を力任せに振り下ろした。
ガァァァンッ────!!
凄まじい衝撃波が大広間の空間全体を揺るがす。
しかし――。
カミーラは、その山をも砕く鉄棍の一撃を、岩に覆われた片手だけで軽々と受け止めていた。
「なっ……!?」
御館が信じられないものを見るように目を見開いたその瞬間、カミーラの反対の岩腕が動いた。
ドゴォォォンッ────────!!
「ぐわぁぁぁっ────────!?」
岩に覆われた凶悪な一拳が、御館の巨顔を真正面から直撃する。
御館の巨体が宙を舞い、鮮血を撒き散らしながら数十丈先へと吹き飛ばされた。
「御館様っ!!」
千鶴が叫んだ。
石畳に激しく叩きつけられた御館は、顔面から激しく血を流しながらも、どうにか腕で身体を起こした。
「くそっ……! この腕の圧力……本物の岩王以上の力ではないか……っ!」
御館は苦悶の表情を浮かべ、血走った目でカミーラを睨み据えた。
「御館様、今助けに――」
千鶴が御館のもとへ駆け寄ろうとした、まさにその時であった。
「馬鹿者がぁぁぁっ!! 来るんじゃないっ!!」
御館の切迫した怒号が大広間に響き渡る。
「その力……ただの模倣ではない! いったん間合いを取るんじゃっ!!」
「……っ!?」
千鶴は咄嗟に地面を蹴り、後方へと大きく跳び退いた。
直後――!
ドゴォォォンッ────────!!
御館の足元の石畳が、内側から激しく突き破られた。
「なっ……!?」
現れたのは、大妖・野槌を思わせる禍々しい巨大な肉触手であった。
無数の節くれだった肉塊が地を這い、瞬く間に御館の巨体へと幾重にも巻きついていく。
「ぐっ……! こいつは……っ!」
御館が鉄棍を振るおうとするが、触手は腕にも強固に絡みつき、その運動を完全に封じ込めた。
さらに、触手の先端が裂けるようにカッと開いた。
その奥から現れたのは、巨大な蛇の獰猛な頭部であった。
シャアアアッ────────!!
蛇は鎌首をもたげると、御館の肩口へと容赦なく噛みついた。
「ぐわぁぁぁぁっ────────!!」
御館の口から、凄絶な苦悶の叫びが爆発する。
「御館様っ!!」
千鶴は迷わず鋭く疾走した。
『封印の剣』が一閃し、御館に巻きついていた肉触手を力任せに切り裂く。
ザシュッ! ザシュッ────!!
拘束を失った御館の身体が、ドサリと床へと落ちた。
千鶴はすぐさま彼のもとへ駆け寄り、肩を抱く。
「御館様、大丈夫!?」
「……ぐ……これくらい、どうということはない……っ」
御館は傷口を押さえながらも、必死に立ち上がった。
しかし、カミーラはそんな二人の必死の絆を、心底不思議そうに眺めていた。
「……おかしいわね」
「何がだっ!?」
御館が血走った目で睨み返す。
カミーラは首を傾げた。
「なぜ、お前らはわらわの抗えぬ血の眷属にならないのか?」
その言葉に、御館の表情がより一層険しくなる。
「舐めるなよ……吸血鬼の化け物がっ!」
御館は血を吐きながら鉄棍を構え直した。
「お前ごときの不浄なる血で、誇り高き我ら大妖を支配できると思うてか!」
「…………」
カミーラは、ゆっくりと千鶴へと視線を滑らせた。
「……なるほどね」
その冷たい瞳が細められる。
「千鶴……お前の血に宿る、あの鬱陶しい『退魔の血』の力のせいか?」
千鶴は答えず、鋭い眼光を返した。
カミーラはしばらく彼女を見つめていたが、やがて心底感心したようにクスクスと笑った。
「大したものだよ、お前は……人間ごときがここまでわらわの血を紡ぐとはな」
その声には、初めて明確な「評価」が含まれていた。
「だが――」
カミーラは、先ほど千鶴の剣に切り裂かれた己の頬を、細い指先で指し示した。
「その血の力……どうやら、完璧な無力化には程遠いらしい」
千鶴の顔から、完全に血の気が引いた。
カミーラの頬には、すでに傷一つ残っていなかったのだ。
「そんな……っ!?」
千鶴は思わず絶望に呟いた。
確かに、傷の修復はできなかったはずだった。
しかし、カミーラの再生を完全には止められなかったのだ。
「ふふふ……」
カミーラは冷たく笑いながら片手を高く掲げた。
その掌から、どす黒い血が溢れ出す。
血は空中で禍々しく形を変え、御館が持つものと全く同じ巨大な大羽扇を作り上げた。
「まさか……っ!?」
御館が息を呑み、目を見開いた。
カミーラは、その血の大羽扇を二人に向けて容赦なく振るった。
ヒュオオオオオッ────!!
無数の真空の刃が空間に生まれ、二人へと襲いかかる!
「わしの力まで……吸収しおったというのかっ!?」
御館が悲痛に叫ぶ。
まさにその瞬間――!
二人の目の前に、神聖な光り輝く『封狐』の光壁が出現した。
ガガガガガガガッ────────!!
真空の刃が次々と光の壁に激突し、火花のような聖光を散らす。
だが、盾は一枚も砕けなかった。
『完璧に防げなくても、奴の再生速度を確実に抑え込んではいるよ!』
相棒・封狐の声が、千鶴の脳裏に激しく響いた。
『傷が完全に塞がる間もなく、細切れに刻み続ければいい! そうすれば、いくらカミーラでも絶対に通る――!』
「……そうね!」
千鶴は深く頷いた。
『封印の剣』を握る右手に、凄まじい気合がこもる。
「だったら……再生する暇なんて一秒も与えなければいいわっ!!」
千鶴は石畳を鋭く蹴り破った。
「うおおおおおおっ────────!!」
全身の魂の力を振り絞り、カミーラへと一直線に突進する。
カミーラは面倒くさそうに冷たく眉をひそめた。
「まだ懲りぬか……愚かな」
岩の結晶に覆われた左腕を掲げ、千鶴の『封印の剣』を正面から受け止める。
ガァァンッ────!!
再び、重厚な金属音が大広間に響いた。
剣は岩の表面で硬く止まり、刃先が破砕の衝撃でわずかに震える。
「くっ……!」
千鶴の腕に、骨を砕くような激しい衝撃が走った。
それでも――。
「うおおおおおおっ────!!」
千鶴は退かなかった。
両手で黒き剣を握り締め、力任せに岩の腕へと刃を押し込んでいく。
まさに、その時であった。
ドクンッ────────!!
千鶴の胸の最奥で、脈打つ凶暴な動悸が跳ね上がった。
「……っ!?」
体内を流れる血が、突然として狂ったように激しく蠢き始めたのだ。
熱い。
身体の奥底から、魂を灼き尽くすような熱が込み上げてくる。
瑠璃色だった千鶴の美しい瞳が、ゆっくりと、そして確実に……赤黒い吸血鬼の呪血の色へと染まっていった。
「千鶴……!?」
御館がその異常な気配に気づき、悲痛な叫びを上げる。
しかし、千鶴にはもうその声すら届いていなかった。
彼女はただ赤黒い眼光で、目の前の絶対の敵を睨みつけていた。
そして――!
ザシュッ────!!
何かが豪快に切り裂かれる肉音が響いた。
「……え……?」
カミーラの動きが瞬時に止まった。
次の瞬間。
ドサッ……!
石畳の上に、何かが重重しく落ちた。
それは――岩の装甲ごと切り落とされた、カミーラの右腕であった。
「ぐわぁぁぁぁっ────────!!」
カミーラが絶叫する。
絶対に破られぬはずだった岩の腕が豪快に切断されていたのだ。
千鶴は荒い息を激しく繰り返しながら、黒き剣を固く握り締めていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
その華奢な肉体は、過酷な呪血の浸食によって小刻みに震えている。
『千鶴っ!! あまり無理をするなっ!』
封狐が精神の奥で慌てて叫んだ。
『そのまま呪血の力を使い続けたら、千鶴の自我が吸血鬼の血に完全に呑み込まれちゃうぞっ!!』
「分かってるわよ……っ!」
千鶴は途切れ途切れの荒い息の合間に答えた。
「でも……ここまでの無茶をしなければ、奴には届かないのよ……っ!」
その一方で、カミーラは切断された己の右腕を見つめていた。
そして、激痛に顔を酷く歪ませながら、残った左手で右肩の傷口を力任せに掴んだ。
「ぐっ……おおおおっ!!」
ブチィッ────────!!
カミーラは壊死しかけた傷口から残った肉の塊を自ら引きちぎった。
切り離された腕は、床に落ちると黒い濁煙を上げて完全に消滅していく。
その直後――!
ジュルルルルッ────!!
肩口から肉細胞が狂暴に蠢き、新たな右腕が生え出でて、瞬く間に元の美しい腕へと戻った。
「はぁ……はぁ……」
千鶴の表情に、隠しきれぬ焦燥と疲労が浮かぶ。
せっかく腕を切り落としても、カミーラは肉体を削って強制再生してしまう。
このままでは、カミーラを倒す前に自分自身の精神と肉体が限界を迎えて倒れてしまう。
だが――。
「きさまぁぁぁ……っ!」
カミーラの美貌から、完全に余裕の笑みが消え去っていた。
その瞳に、恐ろしい殺意と狂気が宿る。
「一瞬で……灰すら残さず細切れにしてやるわぁぁっ!!」
カミーラが絶叫した、その瞬間――!
ゴォォォォォ……ッ────────!!
その全身が、突如として渦巻く巨大な黒い霧と妖気に包み込まれた。
「……何をするつもり……!?」
千鶴は剣を構えたまま、目を凝らした。
黒い霧は大広間全体を覆うほど狂乱の渦を巻き、周囲の空気を異様なほど重く沈め、空間を圧迫していく。
ビリビリビリビリ……!!
皮膚を直接削り取るような凄まじい重圧の妖気が、大広間そのものを激しく振動させていた。
そして、その黒い霧の奥から溢れ出す気配は――。
千鶴や御館にとって、あまりにも、あまりにも見覚えのあるものであった。
「……この不快で醜い力を使うことになるとはな」
漆黒の霧の向こう側から、カミーラの冷徹な声が響き渡る。
千鶴の美貌から、血の気が完全に引いた。
「まさか……そんな……っ!?」
御館もまた、信じられない恐怖を見るように目を限界まで見開いた。
「そんな……バカなっ!?」
『……く……ら……ま……なのか……っ!?』
封狐の声が、精神の奥で恐怖に激しく震えた。
やがて――。
渦巻いていた黒い霧が、ゆっくりと晴れ渡っていく。
その奥から姿を現した存在を目撃し、千鶴は完全に絶望に息を呑んだ。
太陽のごとき金色だったはずの髪は、白銀へと変貌を遂げていた。
頭上には、神聖なる狐の耳。
そして背後には――。
一本、二本、三本……。
実に『八本』もの禍々しい尾が、ゆらりと空間を揺らめいていた。
そこに立っていたのは――九尾の王・クラマの神通力を強引に取り込み、禍々しい姿へと変貌を遂げたカミーラであった。
「醜いな……」
カミーラは自らの八本の尾を見下ろし、心底吐き捨てるように冷たく呟いた。
だが、次の瞬間、その口元に狂気的な歪んだ笑みが浮かび上がる。
「……だが、この溢れる圧倒的な力……悪くないぞっ!!」
八本の巨大な尾が、空間を叩くようにゆっくりと広がった。
世界を滅ぼすほどの絶対的な妖気が、大広間全体を完全に支配・圧迫していく。
「そんな……っ」
千鶴の手から、ついに力が抜け落ちかけた。
膝が激しい恐怖と疲労で震え、ついにはその場に力なく膝をつき崩れ落ちる。
「……どうして……こんなことに……っ」
絶望に染まった瞳で、千鶴は八尾の女王と化したカミーラを見上げた。
目の前に君臨するのは、もはや単なる吸血鬼ではない。
自分たちが救い出そうとしていた、あの偉大なる王の力を体内に宿した絶対の魔王であった。
そして八尾のカミーラは、八本の尾を静かに揺らしながら、冷酷な瞳で崩れ落ちる千鶴を見下ろしていたのだった――。




