第77話 瑠璃の覚醒、真緋を穿つ禁忌の刃
「あーそーぼー!」
カミーラの分体は、狂気と邪気に満ちた声を無邪気な子供のように響かせた。
しかし、その両手の先端には異様な変化が起こっていた。
ズルルルルッ……!
細い十本の指が肉を裂くように不自然に延伸し、死者の髪のように蠢く細長い不浄の鞭へと変貌を遂げていく。
分体はその気味が悪い鞭を音もなくしならせながら、高台から続く豪奢な大階段をゆったりと下り始めた。
「……来るぞ、千鶴っ!」
大天狗・御館は背後に立つ千鶴を庇うように一歩前へ出ると、大木のような鉄棍を構え、全身の妖気を爆発させて迎撃の姿勢をとった。
だが――その肩を、後ろから可憐な手がそっと制した。
「御館様……ここは、私に任せて」
「何をおかしなことを! あの化け物はただの雑魚ではないぞっ!?」
御館が険しい巨顔を振り返り、悲痛な怒声を上げる。
しかし千鶴は一度だけ御館へと温かな微笑みを向けると、直後に研ぎ澄まされた眼光で分体をまっすぐに見据えた。
「分かっているわ……。でも、今の私の力が、あいつらにどれほど通用するのか……自分自身で確かめておきたいの」
その瑠璃色の瞳には、一切の揺らぎもない不屈の決意が宿っていた。
御館はしばらく千鶴の横顔をじっと見つめていたが、やがて諦めたように深く息を吐き出した。
「……分かった。じゃがな千鶴、少しでも危険だと判断したら、わしは嫌でも強引に割り込んでお前を救い出すからな!」
「ふふっ……ありがとう、御館様!」
千鶴は可憐に頷くと、純銀の錫杖を強く握り締めた。
そして――。
「いくわよ……封狐っ────!!」
千鶴の気迫のこもった一閃の叫びと同時に、その華身から太陽のごとき眩い神聖な光が爆発的に溢れ出した!
ボワッ────!!
艶やかな白銀の髪が風もないのに美しく舞い上がり、その頭には白狐の耳が現出る。
瞳は深く透明な瑠璃色へと神々しい輝きを変え、背後からは光を纏った一筋のしなやかな狐尾が揺らめいた。
『封狐』の真の力を全身に宿した千鶴が、そこに降臨していた。
「さあ……来なさいっ!!」
千鶴が錫杖を美しく構え直す。
それを見たカミーラの分体は、殺気に満ちた口元を歪めた。
「ふふっ……それじゃあ、殺してあげるわぁっ!!」
次の瞬間――!
ヒュンッ! ヒュンッ────!!
分体が両腕を力任せに振るうと、鞭と化した無数の指の刃が空間を切り裂き、千鶴めがけて極限の速度で殺到した!
「っ……!」
千鶴は身を低く沈め、最初の一撃を髪一筋の紙一重でかわす。
続く二撃目をしなやかな跳躍で横へかわし、襲い来る三撃目は空中で身体を華麗にひねってすり抜けた。
鞭が切なく空を切り、背後の巨大な石柱へと激しく激突する!
バキィィッ────!!
激しい衝撃音とともに石片が爆散した。
だが、幾十の殺撃を潜り抜けた千鶴の肉体には、かすり傷一つ刻まれていない。
(いける……っ!)
千鶴は己の感覚の変化に、瑠璃色の目を驚愕に見開いた。
身体が恐ろしいほどに軽い。
吸血鬼の血を得たことで、肉体の潜在能力が異次元の領域へと引き上げられている。まるで背中に羽が生えたかのように、脳内で描いた理想の回避軌道が、そのまま完璧な速度で現出する。
「吸血鬼の力のおかげね……! 身体が羽のように軽いわっ!!」
千鶴は叫ぶと同時に、一瞬で地面を力強く蹴り砕いた。
音を置き去りにするような圧倒的な踏み込みで、瞬く間に分体との間合いをゼロにする!
「なっ……!?」
分体が驚愕に目を剥き、反応することすら許されぬ一瞬の間隙――千鶴の持つ純銀の錫杖が、閃光となって空間を一閃した。
シュバッ────!!
研ぎ澄まされた銀の刃が、分体の細い首筋を深々と一刀両断に切り裂く。
そして――。
ゴトッ。
切り離された真祖の分体の頭部が、重々しい音を立てて冷たい石畳の上へと転がった。
「……やった……っ!」
千鶴が胸を撫で下ろし、息を荒げた……まさにその瞬間であった。
頭部を失った分体の肉体は倒れることすらなく、ゆっくりと腰をかがめた。
そして、床に転がった己の生首を、愛おしそうに両手で拾い上げる。
「……痛いわねぇ」
何事もなかったかのようなねっとりとした呟きとともに、分体は切断された首の断面へと頭部を力任せに戻した。
ジュルルルッ……ゲチャッ!!
不快な肉鳴りが響き、傷口から吹き出すどす黒い血管と肉細胞が瞬く間に結合していく。
わずか数秒の内に、分体は何の痕跡もなく元の美貌へと戻っていた。
「……やっぱり、純銀の錫杖で首を落とすだけじゃ駄目かぁ……」
千鶴は悔しさに唇を噛み締め、低く呟いた。
対する分体は、余裕たっぷりに高らかに嘲笑う。
「無駄なことを……! いくら我らの血を得て身のこなしを上げたところで、我の不死身の肉体を滅ぼすことなど人間ごときにできはせぬわっ!!」
「…………」
千鶴は右手の錫杖を静かに握り直した。
首を落としても、即座に肉体が修復される。通常の退魔術や打撃では、何度倒そうと死を与えることは不可能だ。
(……封狐)
千鶴は精神の奥底で、相棒の魂へと静かに呼びかけた。
(あれを……『あの術』を使うわ)
すると、脳裏に封狐の焦燥の混ざった声が響き渡った。
『……本気かい、千鶴!?』
その声には、いつもの飄々とした軽い調子とは決定的に異なる、切迫した緊張が宿っていた。
『あの『封印の剣』の術式はあまりに危険すぎる! 今の千鶴の身体じゃ、長く維持できないよ!』
「分かってるわ……っ!」
千鶴は一切の迷いなく、きっぱりと答えた。
『もう……っ! どうせ僕が何を言ったって、千鶴は聞き入れないんだろうね!』
封狐は呆れたように溜息をついた。
その言葉に、千鶴は緊張の極致の中で、思わず可憐な苦笑をこぼす。
「ふふっ……よく分かっているじゃない」
そして――。
千鶴は右手を静かに前へと突き出した。
次の瞬間、彼女の掌から、濃密で禍々しい漆黒の影のごとき神気が爆発的に噴き出した!
ゴォォォォォ……ッ!!
それは瞬く間に空間で細長く伸び、不気味で美しく尖鋭な「異形の剣」の形状へと姿を変えていく。
刃は光すら吸い込む暗黒の漆黒。そして柄の部分からは意思を持つ黒蛇のごとき帯が伸び、千鶴の華奢な右腕全体へと締め上げるように激しく絡みついていく。
「くっ……ぁ……っ!」
千鶴の顔が凄惨な痛みに酷く歪む。
それでも彼女は歯を食いしばり、黒き封印の柄を固く握り締めた。
「……ここで……すべてを終わらせるっ!!」
瑠璃色の瞳が、カミーラの分体を冷徹に射抜く。
「何を目論んでいるかは知らぬが……われの前では無駄な悪あがきよっ!!」
分体は鼻で笑い、無数の鞭を構えた。
だが、千鶴はもう何も答えなかった。
ただ、静かに黒き剣を天高く振り上げる。
そして――!
「はああああああっ────────────!!!!」
千鶴の全霊の一閃が、分体の首筋を完璧な軌道で叩き斬った!
ザシュッ────────!!
先ほどと同じく、分体の頭部が空を舞い、床へと転がった。
「ふふっ……だから無駄だと言ったであろう……」
分体は転がった生首から、勝利を確信した嘲笑を漏らす。
「我は滅びぬ真祖……我は不死身の――」
まさに、その瞬間であった。
ドサッ……!
生首を拾い上げようとした分体の胴体が、まるで糸の切れた傀儡のごとく、力なく石畳の上へと崩れ落ちたのだ。
「……え……!?」
転がった生首が、信じられないものを見るように目を見開いて絶句した。
倒れた胴体の傷口から、どす黒い怨煙ではなく、禍々しい漆黒の「封印の煙」が爆発的に立ち上り始める。
ジュウウウウウウ……ッ!!
肉体が煙に包まれるや否や、細胞の修復が完全に阻害され、肉体の輪郭そのものがサラサラと黒い灰となって崩壊し始めた。
「な……何が起きている……!? なぜ肉体が修復されぬ……っ!?」
床の頭部が、初めて真の恐怖に震える驚愕の悲鳴を上げる。
「我は……不死身の真祖……我は……あ、ああああっ!!」
しかし、その叫びも長くは続かなかった。
頭部もまた黒い煙に呑み込まれ、絶対の封印の力によって存在の根元から消滅し、黒い灰となって消え去っていった。
無に還る分体。
広大な大広間に、静寂が戻る。
千鶴は激しく肩を揺らして息を途切れ途切れに切らしながら、己の右手を見下ろした。
そこには、今なお黒く光り輝く禁忌の『封印の剣』が握られている。
だが、その暗黒の刃先からは、千鶴の血がボタボタと滴り落ちていた。
柄の部分に絡みついた蛇のごとき帯が、千鶴の腕から生命力を吸い上げるように不気味に脈打っている。
「…………」
高台の玉座からその光景を目の当たりにしたカミーラは、生まれて初めてその美貌から笑みを完全に消し去った。
「……お前……今、何をした……?」
先ほどまでの気だるげな絶対の余裕は、そこには微塵も存在しない。
カミーラは千鶴の手に握られた黒き剣を、氷のように冷たい、そして警戒に満ちた眼光で激しく睨み据えていた。
千鶴はゆっくりと顔を上げた。
輝く瑠璃色の瞳が、高台の上の真祖・カミーラを一直線に捉える。
そして――。
「さあ……次は、あなたの番よっ────!!」
千鶴は黒き刃先をカミーラへと直接突き突きつけ、高らかに宣言した。
高台の上で、カミーラの冷酷な表情がピシリと震えた。
大広間を満たす怨念と殺気が、狂気的なまでの濃度へと跳ね上がっていく。
世界の命運を懸けた、二人の最終決戦が今、始まった――!




