第76話 滅びを望む女王、蠢く異形の肉塊
その少し前――。
大天狗・御館と千鶴は、黒ずんだ石造りの重厚な通路を疾風のごとく駆け抜けていた。
壁に反響する荒い足音。だが、千鶴は走る速度を保ちながらも、幾度となく後ろ髪を引かれるように背後を振り返っていた。
その瞳の先にあるのは、優哉や大妖たちが命を賭して戦っているはずの死地である。
そんな千鶴の迷いを察した御館が、前を見据えたまま力強い声を投げかけた。
「千鶴よ……そろそろ、残してきたあいつらを信じてやってくれぬか」
「信じているわよ……! でも……っ」
「何でもかんでも、お前一人で背負い込もうとするな!」
「……っ!?」
御館の厳しい喝が、千鶴の背中を射抜く。
「我らには、我らが果たすべき役割があるだろう! この先で待つカミーラをいち早く倒し、クラマを奪還すること……それこそが、命を賭して道を切り開いてくれた仲間たちに報いる唯一の道ではないのかっ!?」
「……!」
千鶴は鮮血の滲む唇をぎゅっと噛み締めた。
御館の言葉は、痛いほど正しかった。
己の迷いで足取りが鈍れば、その分だけ仲間たちの命が危険に晒される。
「……分かったわ」
千鶴は迷いを断ち切るように力強く頷くと、
さらに速度を上げ疾走した。
「……まったく、どこまでも手のかかる小娘じゃ」
御館はどこか誇らしげに呟き、不敵な笑みを浮かべてその背中を追った。
しばらく廊下を駆け続けた二人の目前に、突如として禍々しい巨大な扉が立ちはだかった。
まるで生血を吸い上げたかのように、重々しく歪んだ赤黒い大門。
その隙間からは、肌を直接削り取るような禍々しく冷ややかな妖気が、絶え間なく溢れ出していた。
「……ここね……」
千鶴は息を呑み、純銀の錫杖を強く握り直した。
御館もまた、腕を構えて一瞬で全霊の戦術姿勢をとる。
「この先にカミーラが待っとるだろう……覚悟はできておるじゃろうな!」
御館は真剣な表情で千鶴を見据えると。
「ええ……! 任せて、御館様!」
二人は同時に、血塗られた赤黒い大門へと手をかけた。
ギィィィィィィィ……っ。
重厚な石の摩擦音が響き、真っ赤な扉がゆっくりと引き裂かれるように開かれていく。
扉の向こうに広がっていたのは、息を呑むほど広大な大広間であった。
遥か高所に見える天上、整然と並ぶ黒柱。
そして広間の最奥、天を突く高台の階段の頂上に、豪華絢爛な玉座が一脚置かれていた。
その玉座に肘をつき、心底退屈そうに二人を見下ろしている一人の女――真祖の吸血鬼・カミーラであった。
「ようやく……我のもとへ辿りついたか、千鶴」
カミーラは頬杖をついたまま、ねっとりと気だるげに口を開いた。
「だが……妙だな。我が血の洗脳を受けながら、なぜ未だに自我を保っておる?」
千鶴は怯むことなく、前へ踏み出しながら錫杖を突きつけた。
「あなたの……世界を混乱に落とそうとする野望を叩き潰すために来たのよ!」
「……ほう?」
カミーラの美貌が、不気味に歪む。
「あはははははっ! 叩き潰す……とは、一体何を止めるというのだ?」
「しらばっくれないで! 皇綺羅が企んでいた、全土を恐怖で支配する世界征服のことよ!!」
千鶴の叫びを聞いた瞬間、カミーラは心底可笑しそうに首を傾げた。
「ああ……そういえば、あの綺羅とかいう男はどうした?」
「……え……?」
「あの哀れな男の浅ましい望みを、ただ叶えるフリをして遊んでやっただけに過ぎぬ」
カミーラは退屈そうに呟いた。
「わらわにとって、あのような虫ケラがどうなろうと知ったことではないのだよ」
「な……なんですって……!?」
「わらわの望みは、支配でも統治でもない……」
その氷のような声が、広間の隅々にまで不気味に響き渡った。
「この世に息づく……すべての生き物を一匹残らず根絶やしにし、美しい無の世界にすることだ!!」
「……っ!?」
世界征服などという生温かい野望ではない。
カミーラが求めているのは、全命の完全なる滅亡――絶対の無であった。
「……だったら!」
千鶴は恐怖を怒りの炎へと変え、瑠璃色の瞳を鋭く輝かせた。
「あなたごとその狂った野望を、今ここで断ち切ってみせるわ!!」
「ふははははっ! 威勢だけは一人前だな!」
カミーラは玉座からゆっくりと身を起こすと、自身の右手の示指(人差し指)をじっと見つめた。
そして――。
ブチチチチッ────!!
「……え……!?」
千鶴が言葉を失い、凍りつく。
カミーラは自らの右指を爪で力任せに引き裂き、生々しい音を立てて千鶴たちの目の前で引きちぎったのだ。
切断された指が、生温かい音を立てて高台の床へと落ちる。
ポタッ……ポタポタポタッ……。
落ちた指の断面から、どす黒い不浄の血が際限なく噴き出し始めた。
すると――その肉片と血煙が、まるで狂った巨大な蟲のように不気味に蠢き始める!
ズル……ズルズルズルッ……ゲチャッ……!!
指の形がドロドロの肉泥へと崩れ去り、内側から脈打つ無数の黒い血管が網の目のように急速に這い広がる。
生々しい骨格が突き出し、裂けた肉が隆起して腕と胴体が形作られ、首が生え、最後にカミーラと全く同じ冷酷な美貌が肉の泡の中からニュッと生まれ出た。
それは、言葉を失うほど不気味で禍々しい『自己増殖』の光景であった。
肉塊から誕生したカミーラの分体は、全身から滴る血を払うこともなく立ち上がると、本体の隣へと並んだ。
二人の顔には、一切の慈悲もない全く同じ冷血な笑みが浮かんでいる。
「……わらわが直接手を下すような相手か試してやろう!」
カミーラが低く命じた。
「その小娘を……喰らい尽くせ」
分体は音もなく高台の階段をすべり降り始めた。
コツ……コツ……コツ……。
不気味な足音が、静まり返る大広間に空虚に響き渡る。
やがて分体は、階段を下りきると千鶴の目前、わずか数歩の間合いでピタリと足を止めた。
本体と全く同じ絶望の妖気、そして底知れぬ殺意。
千鶴は純銀の錫杖を構え直し、鋭い眼光で敵を射抜いた。
「……来なさいっ!!」
その言葉を合図に、カミーラの分体は口元を裂くように歪めると、閃光のごとき速度で千鶴へと襲いかかった!




