第75話 粘性の光壁、酷毒の親和と燃え上がる憤心
「さあ……残るはいよいよ、あなた一人だけよっ!!」
紅炎は全身に圧倒的な爆炎を纏わせながら、不遜に立ち尽くす皇綺羅へと凄絶な殺気の視線を向けた。
だが――。
綺羅は相変わらず、薄気味悪い絶対の余裕の笑みを何一つ崩していなかった。
まさに、その時であった。
「いっっったぁぁぁいなぁぁっ!!」
背後から、不機嫌で甲高い少女の声が廊下に響き渡った。
「……え……!?」
紅炎は信じられない思いで慌てて振り返った。
そこに立っていたのは、足元をふらつかせながらもゆっくりと起き上がってくるルナの姿であった。
先ほど紅炎の全霊の爆炎に焼かれ、炭化したはずの顔面も白磁の肌も、まるで何事もなかったかのように綺麗に元通りへと修復されている。
「そんなぁぁぁーっ!? 嘘でしょっ!?」
紅炎は思わず絶望の叫びを上げた。
「もう遅いんだからねっ! あたしに痛い思いをさせたんだから、謝ったって絶対に許さないんだからねーっ!!」
ルナは頬をぷぅと膨らませると、凶暴な殺気をみなぎらせて紅炎に向かって一気に爆走を開始した。
「紅炎、落ち着け! さっきと同じ『結界の鞘』の作戦でいくぞっ!!」
精神の奥から優哉の頼もしい叫びが響く。
「……分かったわよっ!!」
紅炎は短く答え、両手に凄まじい紅蓮の炎を集中させた。
その火力を包み込むように、優哉の光の鞘が寸分違わず展開される。
迎撃の準備は完璧に整った。
しかし――。
「えへへっ!」
ルナは突進の勢いをピタリと殺し、紅炎の目の前でぴたりと立ち止まった。
そして、挑発するようにあざとく顔を前へと突き出してみせる。
まるで――「打てるものなら打ってみなさいよ」と嘲笑っているかのように。
「……このガキ、舐めるんじゃないわよっ!!」
紅炎のこめかみがピキリと怒りで跳ね上がった。
次の瞬間、渾身の炎拳がルナの顔面へと破空音とともに放たれる!
だが――。
ヒョイッ。
ルナは、まるで遊戯でも楽しんでいるかのように、首をわずかに傾けて拳を軽々と回避してみせた。
「なっ……!?」
紅炎は間髪入れず、すぐさま逆の腕を力任せに振るう。
しかし、それも虚空を切るのみ。
右、左、さらに右っ!
何度も何度も死力を尽くした拳を繰り出すが、ルナの幼い身体にはかすり傷一つ刻むことすらできなかった。
「なんでよぉぉぉっ!?」
紅炎が悔しさに叫ぶ。
「そんな大振りで遅い攻撃、あたしが油断でもしなきゃ当たるわけないでしょーっ!!」
ルナは無邪気に冷笑した。
そして――。
「はい、お返しっ!!」
死角となり、完全にガラ空きとなった紅炎の顔面へ、ルナの小さな拳が重音を響かせて振り抜かれた!
「危ないっ!!」
優哉が叫び、紅炎の前に何枚もの光の結界盾を層状に重ねて展開した。
だが――!
バキィィィンッ────!!
ルナの異次元の貫通力を持つ拳は、重ね合わせた光の盾を、まるで脆い飴細工のごとく次々と容易く粉砕していった。
絶対の防御を力づくで突き破った拳が、紅炎の顔面を真正面から激しく直撃する!
「ぐはぁっ……!?」
紅炎の身体が宙を高く舞い、重厚な廊下の石畳へと激しく叩きつけられた。
「ふふふふっ……そろそろ降参したほうがいいよ、おねーちゃん?」
ルナは勝ち誇ったように可愛らしく微笑んだ。
その一方で、紅炎は全身を酷く打ちつけられ、ふらつきながらもどうにか膝を起こす。
「くっ……この……っ!」
必死に立ち上がろうとする紅炎を見つめながら、ルナはゆっくりと足音を響かせて歩み寄っていく。
「くそっ……何か……何か破る方法はないのか!? あの光の盾が、まるで飴細工みたいに簡単に砕かれちまう……!」
優哉は焦燥と屈辱を身体に滲ませながら呟いた。
「大丈夫……私が、何とかするわ……っ!」
紅炎は強がるように弱々しく言い返す。
「無理するな紅炎! 少し僕に任せて休んでろっ!」
「そんなこと言ったって……っ!」
二人が精神の深層で必死に争う間にも、ルナの凶気がすぐ鼻先まで迫っていた。
(……くそ……飴細工……? 砕ける……固いから壊される……?)
優哉はハッと精神の目を大きく見開いた。
「……そうかッ!!」
何か絶対の真理を閃いたように、優哉の声が歓喜に弾けた。
その時――!
「じゃあね、おねえちゃんっ!!」
ルナが可憐な笑顔のまま、致命の拳を全力で振り抜いた。
意識が遠のく中、紅炎は死の迫り来る拳を直視する。
しかし――!
ゴォォォンッ────────!!
ルナの拳は、紅炎の顔面に届く直前、まるで何かに捕まったかのようにピタリと完全に停止した。
「……え……?」
ルナが驚愕に目を見開く。
その拳の周囲には、まるでドロリと溶けた熱い水飴のごとき、柔軟で粘性の高い神聖な光がまとわりつき、その運動エネルギーを完全に停止させていた。
「な、何これ……!? ぬるぬるして気持ち悪いよっ!?」
ルナは青ざめて慌てて腕を振り回そうとする。
だが、強引に引き剥がそうとすればするほど、柔軟な光の帯は絡みつき、その圧倒的な運動速度を完璧に殺していった。
「固く張るから力任せに壊されるんだ!」
優哉の声が、確信に満ちて響き渡った。
「だったら……熱く溶かした飴細工のように柔らかく衝撃を包み込んで、相手の運動エネルギーそのものを吸収して殺せばいいんだよっ!!」
そう――!
これまでのように、向かってくる圧力を真正面から硬度で受け止める必要など最初からなかったのだ。
相手の凄まじい突進力をいなし、包み込み、勢いそのものを柔軟に殺す!
「今だ、紅炎っ!!」
「言われなくても分かってるわよぉぉぉっ!!」
紅炎は燃え残る右拳を強く握り締めると、全身の残霊を一気に爆発させた。
「お返しよぉぉぉっ────!!」
全霊の炎拳が、動きを縛られたルナの顔面へと叩き込まれる!
ドゴォォォンッ────!!
だが、まさにその極限の瞬間――。
ルナもまた、縛られた腕の威力を振り絞り、紅炎の顔面へ拳を振り抜いていた!
「ぐはっ……!?」
「きゃあっ……!?」
互いの全力が顔面を交差させ、二人の華奢な身体が同時に後方へ弾け飛んだ!
床を転がり、血に塗れながらも泥臭く起き上がった二人は、野性の咆哮とともに再び互いへと直線に突進した。
殴る! 殴り返す!
紅蓮の炎と白銀の冷気が真正面から死闘を演じ、爆発的な衝撃波が静まり返る廊下を激しく揺らす!
ドゴォォンッ! バキィィッ────!!
何度倒され、打ち据えられようとも、二人は不死鳥のごとく立ち上がった。
紅炎は誇りの炎を燃やし、ルナは猛烈な雪と氷の衣を纏って応戦する。
互いに一歩も引かず、幾十、幾百と拳をぶつけ合い続けた。
やがて――。
両者ともに全身血と煤にまみれ、肩を激しく上下させて荒い息を繰り返す。
そして、ついにその壮絶極まる死闘に幕が下りる刻が訪れた。
床の上に力尽きて倒れ伏す紅炎。
その目の前に、ルナが息を途切れ途切れに切らせながらも、ゆっくりと立ち尽くしていた。
「……はぁ……はぁ……無駄だったね、おねえちゃん」
ルナは顔の傷を拭い、勝ち誇ったように可憐に笑ってみせた。
「だって、あたしはどんな傷を負ったって……すぐに元通りに回復しちゃうんだもん」
対する紅炎は全身の霊力を使い果たし、指一本動かすことすら能わなかった。
「さあ……もう無駄な抵抗はやめて、降参しよう……?」
ルナが静かに、どこか寂しそうに告げた、まさにその時であった。
「フハハハハハハっ!!」
その不毛な死闘を高みの見物で観賞していた皇綺羅が、突如として高らかな狂気の高笑いを上げた。
「無駄死にの引き延ばしなど見苦しいわ! 今すぐそいつの首を跳ねて殺せっ!!」
「えっ……?」
ルナの無邪気な笑顔が瞬時に凍りついた。
「に、逃がしてあげようよ、パパ……!」
ルナは倒れた紅炎をかばうように庇い立ち、綺羅へと必死に訴えかけた。
「おねえちゃんは、もう戦う力なんて残ってないよ……。これ以上、傷つけて殺す必要なんてないでしょ……!?」
「ふざけるな……このぐずが」
綺羅の顔から、すべての戯れ言が消え去った。
「我の命令が聞けんというのか……っ!?」
「ひっ……!?」
雷鳴のような冷酷な怒声を直接浴びせられ、ルナの小さな身体が恐怖でビクリと激しく震え上がった。
「ご、ごめんなさい……パパ、ごめんなさい……っ」
ルナは今にも泣き出しそうな怯えた顔で何度も謝罪しながら、ゆっくりと倒れる紅炎へと向き直った。
その幼い掌に、恐怖に突き動かされた死の冷気が集中していく。
ゴゴゴゴゴ……!
次の瞬間、巨大で鋭利な氷柱が空中に現出した。
ルナは震える手を紅炎へとかざし――。
ヒュンッ────!!
その氷柱を紅炎へ向けて放った。
だが――それは紅炎の命を奪うことはなく、彼女の白い頬をわずかに掠め、背後の重厚な柱へと深く突き刺さった。
「貴様……何を狙いを外しているのだっ!!」
綺羅の激しい怒号が廊下に轟き渡る。
ルナは俯いた。
小さな肩が、恐怖と悲しみで激しく震えている。
それでも――。
やがて、彼女は小さな拳をぎゅっと固く握り締めた。
「……もういいじゃないっ!!」
ルナは顔を限界まで上げ、精一杯の魂の悲鳴を上げた。
「このおねえさんはもう動けないんだよっ!? これ以上、痛い思いをさせて傷つける必要なんてどこにもないでしょぉぉぉっ!!」
「黙れ、出来損ないがっ!!」
綺羅の狂暴な怒声が、ルナの叫びを無残に打ち砕いた。
「ひっ……!?」
ルナは再び狂気の威圧に射抜かれ、怯えのあまりその場から動けなくなった。
綺羅は苛立たしげに激しく舌打ちすると、ゆっくりと無防備なルナのもとへ歩み寄った。
「まったく……どこまでも役に立たぬ不快な道具め」
そして――。
ドガァァッ────!!
「きゃぁぁぁっ!?」
綺羅の加虐的な拳が、ルナの幼い頬を容赦なく真横から殴り飛ばした!
小さな華奢な身体が重厚な石畳の上を激しく転がる。
ルナは痛む頬を押さえながら、涙で視界を濡らし、怯えきった目で綺羅を見上げた。
「ごめんなさい……パパ……ごめんなさい……っ」
涙を溢れさせ、震えながらただひたすらに謝り続ける少女。
その悲惨で残虐な光景を目撃した紅炎の冷めかけた瞳に、静かな、だが凄絶な怒りの炎が再燃した。
「……あなた……それでもこの子の親なの……っ!?」
紅炎は痛む全身の悲鳴を引きずりながら、血の混ざった声で叫んだ。
「こんな幼い子に対して……何をしているのよぉぉぉっ!!」
しかし、綺羅は心の底から蔑むように冷たく笑い飛ばした。
「誰がこのような化け物の親なのだ?」
その口元に、どこまでも冷酷な蛇のごとき笑みが浮かぶ。
「こいつは……使い捨ての道具の一つに過ぎんのだよ」
「……っ!?」
紅炎は言葉を失った。
「ひどい……ひどすぎるわ……っ!!」
ようやく喉から絞り出した声は、言葉にならない激しい怒りと悔しさに激しく震えていた。
ルナは俯いたまま、何も言わない。
ただ、小さな手で腫れ上がった頬を押さえ、涙を床に零しながらじっと石畳を見つめていた。
綺羅はそんな哀れな二人を見下ろし、心底愉快そうに口元を歪めた。
「まあいい……。満身創痍の今の貴様らなど、息の根を止めるのは赤子の手を捻るよりも容易い!!」
綺羅の右腕が不気味に変形し、鋭利な爪が紅炎の胸元へとゆっくりと伸びていく。
「まずは、その不快な口を利く貴様から死ね……!」
紅炎は立ち上がろうと歯を食いしばった。
しかし、身体が悲鳴を上げて動かない。
優哉もまた、精神の奥で光の盾を展開しようと残霊を振り絞るが、酷使した術式は思うように集まらなかった。
目の前に迫る、絶命の鋭爪。
その刻――。
紅炎の視線が、床で小さく丸まり、うずくまるルナの背中を捉えた。
頬を押さえ、必死に声を殺して涙を堪えながら震えている、孤独な少女。
(……許せない。こんな冷酷な奴……絶対に許さないっ……!!)
紅炎の胸の最奥で、静かに、だが決して消えることのない真の不屈の爆炎が、静かに燃え上がり始めたのだった――。




