第70話 紅蓮の盾、そして鏡面の死闘
「……どうやら、本気で迷いから覚める気はないんだな」
皇綺羅は、目の前に立ちはだかる実の弟・優哉を、凍てつくような冷徹な眼差しで見据えた。
「僕が……その歪んだ目を、力ずくで覚ましてやるよ、兄上!」
優哉は微塵の揺らぎもない真摯な瞳で兄をまっすぐに見つめ、力強く宣言した。
「ふふふっ……我が弟だと思い、少しばかり目をかけてやったというのに……お前は所詮、器の知れた出来損ないだったということか」
綺羅の端正な口元が、冷酷な嘲笑とともに醜く歪む。
「ならば、その愚かさを地獄で後悔するがいい」
次の瞬間――!
綺羅の両手の指先から無数の黒い刃が音を立てて伸び、狂暴な鞭のごとくしなりながら優哉へと襲いかかった。
「はっ……!」
優哉は迷わず右手を前へ突き出す。
その眼前に、瞬時に光の幕――『封狐』の加護による結界が展開された。
ガンッ! ガンッ! ガガガガガッ────!!
蛇のごとく乱れ飛ぶ指の鞭が光の幕に激突し、凄まじい衝撃音と火花を散らす。しかし、強固な結界は指先を完璧に弾き返した。
「無能の分際で……小賢しい真似をっ!」
綺羅は苛立たしげに美貌を歪め、指の軌道をさらに変化させた。
正面の防壁を避けるように、無数の指が上下左右の空間へ大きく広がり、まるで獲物を絶対に逃がさぬ巨大な蜘蛛の巣の如く、あらゆる方向から優哉を包囲していく。
「……っ、囲まれた……まずい!」
優哉が冷や汗を流して叫んだ、まさにその刹那――!
彼の眼前で、轟音とともに爆発的な紅蓮の炎が燃え盛った。
ゴオオオオオオッ────!!
圧倒的な熱量を誇る炎の奔流が、迫り来る綺羅の指の群れを一瞬にして完全に包み込んだ。
ジュウウウウッ――!
禍々しい指は見る見るうちに真っ黒に焼け焦げ、蒸発するかのようにボロボロと崩れ落ちていく。
「な、なんだと……!?」
綺羅が驚愕の声を上げて息を呑む。
燃え盛る爆炎の渦の中から、一人の麗しい少女の姿がふわりと舞い降りた。
「私の可愛い優哉を舐めないでよね!」
紅炎であった。
彼女は紅蓮の炎を衣のようにまといながら宙に浮かび、綺羅を底冷えするような眼光で睨みつける。
「さあ……あんな化け物をさっさと灰にしちゃいましょうよ!!」
「……ああ、頼むよ、紅炎!」
優哉は力強く頷き、再び殺気をみなぎらせて兄へと視線を据えた。
二人の力が奇跡的な調和を見せ、周囲の空気が激しい熱を帯びて歪んでいく。
だが、綺羅はすぐにその冷たい笑みを復活させた。
「お前には心底失望したぞ、優哉。まさか、あんな醜い化け物を己の身に飼いならしていたとはな……」
紅炎の存在を虫けらのように嘲笑うように、綺羅は口元を吊り上げる。
「まあ、よい。どちらにせよ、お前はここで私の手にかかって死ぬのだからな!」
綺羅は再び両腕を大きく広げた。
激しく損傷した指の先から、新たな黒い爪が気味の悪い音を立てて再び伸び始める。
そして、それらはふたたび生気を失った鞭のごとくしなり、優哉たちへと凶悪な狙いを定めた――。
その頃――
大鎌鼬は、己と寸分違わぬ異形の姿をしたカインと対峙していた。
二本の鋭利な鎌を十字に構え、互いに一歩も退かぬまま血走った目で睨み合う。
「たとえこの外見や動きを真似ようが……わしの『速度』まで完全に真似できるわけではまいっ!!」
大鎌鼬は怒濤の気合とともに地を蹴り砕いた。
次の瞬間、二つの疾風の影が残像を残して交差する。
シュバッ────!!
すれ違いざま、大鎌鼬の鎌がカインの右肩口を深く、致命的に切り裂いた。
鮮血が虚空に美しく舞い散る。
だが――!
「ぐっ……!」
大鎌鼬自身の右肩口からも、まったく同じ位置から同じように鮮烈な血が噴き出した。
「な、なんだと……!?」
大鎌鼬は驚愕に目を剥いた。
「相打ち……だと? ままさか、貴様……わしと同等の速度を持ち合わせているというのか……!?」
「相打ち……? 本当に、そう見えるかい?」
カインは薄気味悪い不気味な笑みを浮かべた。
その直後、彼の肩口にあったはずの深い傷が、怪奇なまでの速度でみるみるうちに塞がっていく。
裂けた肉が自らの意思を持つかのように元に戻り、溢れていた血も嘘のようにピタリと止まった。
まるで、致命傷など最初から一度も存在していなかったかのように。
「きさま……不死身の怪物めっ!」
大鎌鼬は歯が折れるほど強く奥歯を噛み締めた。
「こうなったら……傷が完全に再生する間もなく、細切れに刻み続けてやるわっ!!」
怒りに任せて再び地を蹴る。
一度、二度、三度――!
いや、もはや人間と妖魔の動体視力では何度交差したのかすら判別不可能な超高速の乱舞。
大鎌鼬は自らの肉体の限界を限界を超えた極限の速度で引き上げ、二本の鎌を死物狂いで振るい続けた。
シュバッ! ザシュッ! ザンッ────!!
すれ違うたびに、カインの身体から大量の鮮血が激しく飛び散る。
肩、腕、胴体、首筋――。
その全身に、無数の深い傷が容赦なく刻み込まれていく。
カインの身体は血に染まり、立っていること自体が奇跡と思えるほどの満身創痍であった。
「……ふっ、どうだ……!」
大鎌鼬は激しく息を荒げ、歪んだ笑みを浮かべた。
だが、その直後――。
ガクッ……!
両膝が突然の重みに耐えかねて折れ曲がり、大鎌鼬は地面へと片膝をついた。
「……っ、はぁ……はぁ……はぁっ……!」
大鎌鼬の身体からも、大量の血が噴き出し、地面を赤く染めていく。
カインの身体に刻んだはずの無数の傷と全く同じだけの苦痛と裂傷が、大鎌鼬自身の肉体にも刻み込まれていたのだ。
「馬鹿な奴だ……」
カインは血まみれの顔を歪め、嘲笑うように呟いた。
「無駄だとわかってるくせに…死に急ぎやがって……」
そう言い嘲笑いながらも、カインの全身の傷はみるみるうちに塞がっていく。
このままでは、相手だけが何事もなかったように復活し、自分だけが失血死して倒れる。
大鎌鼬は悔し涙を呑み込みたい衝動を抑え、目を血走らせてカインを睨みつけた。
「くそっ……一体、どうすればこの気味の悪い化け物を倒せるんだ……!」
その時であった。
ふと、大鎌鼬の鋭い野性の目が、カインの身体の異変に留まった。
全身に刻まれた無数の傷。そのほとんどが、すでに完全に塞がりかけている。
しかし――。
「……ん?」
大鎌鼬は細めた目をさらに凝らした。
どうしても塞がっていない、治りかけていない傷が、ほんの数か所だけ残っている。
ほんのわずかな箇所。だが、確かにそこだけは血が流れ、傷口が開いたまま再生を拒絶されていた。
「なんだと……? なぜ、あの場所だけは傷が塞がっていない……?」
大鎌鼬は必死の思考を巡らせた。
どんな致命傷であっても瞬時に再生させる不死身のカイン。
だが、完全に再生を阻まれる傷が確かに存在する。
なぜだ? 一体、他の傷と何が違う?
そして――。
大鎌鼬の脳裏に、一つの途方もない真実の仮説が電撃のごとくひらめいた。
「……まさかッ!!」
彼はハッと自らの肩口の傷を見つめた。
そこに流れているのは、先ほど負った自分の血だ。
「そういうことか……ッ!!」
大鎌鼬は狂気的な歓喜の声を上げると、躊躇うことなく自らの手にした鎌の刃を、己の肩口へと深々と突き立てた!
ザシュッ────!!
鮮血が激しく飛び散り、研ぎ澄まされた鎌の刃全体を鮮やかな赤に染め上げる。
「……クク、何を狂った真似をしている?」
カインは怪訝そうに気味の悪い眉をひそめた。
「ついに頭がおかしくなって自害でもする気か?」
「頭が狂ったかどうか……今すぐその身で分かせてやるわぁっ!!」
大鎌鼬は血に濡れた鎌を凄まじい勢いで引き抜き、再びカインへと身を躍らせて突進した。
二つの影が、極限の軌道で再び交差する。
ザシュッ────!!
再び、二人の肉体から鮮烈な血が飛び散った。
だが――。
今度は、これまでとは決定的に何かが違っていた。
大鎌鼬の肩口には新たな裂傷が刻まれたものの、カインの身体に刻まれた傷は、一箇所たりとも塞がらず、鮮血を流し続けたままだった。
「……っ!? なんだこれは……!?」
カインの不敵な余裕の表情が完全に凍りつき、恐怖に引き攣った。
傷口からドロリとした血が際限なく流れ続け、治癒する気配が一向に見られない。
「な、なぜだ……どうしてこの傷だけが……っ!?」
カインは信じられないものを見るような目で、自らの朽ちかけていく肉体を見下ろした。
「お前の倒し方が……ついに分かったわい……っ!!」
大鎌鼬は血塗れの鎌を禍々しく構え、野生の猛獣のごとき獰猛な笑みを浮かべた。
「この血じゃ!……千鶴の退魔の血が混じり合った、わしら大妖の血じゃぁぁっ!!」
その咆哮が、死闘の渦巻く戦場に轟き渡ったのだった。




