第69話 背信の覇道、宿命を断つ炎拳
「ふふふふっ……言うようになったではないか、優哉」
皇綺羅は、かつて弱小で臆病だった弟の劇的な成長を、心底面白がるように可笑しそうに笑った。
「カイン。お前はあちらの醜い化け物の相手をしろ」
「はっ……仰せのままに、綺羅様」
カインは恭しく深々と頭を下げると、ゆっくりとした足取りで大鎌鼬へ向かって歩み始めた。
まさに、その一瞬の間隙――!
ヒュンッ────!!
優哉は右手に握りしめていた純銀の錫杖を、迷いなく綺羅の顔面めがけて全霊で投げつけた!
「なっ……!?」
予想だにしない泥臭くも鋭烈な奇襲に、綺羅は慌てて己の錫杖を構え、飛来する銀の軌道を弾き飛ばす。
「自ら武器を放り捨てるとは……なんと愚かな選択か」
綺羅は呆れたように小さく吐き捨て、正面にいるはずの優哉へと視線を戻した。
しかし――。
「……何……!?」
そこに、優哉の姿はすでになかった。
「どこへ消えた……!?」
綺羅が驚愕に目を見開いた、まさにその直後。
「ここです……兄上っ!!」
優哉は瞬身の気配とともに、すでに綺羅の眼前、零距離の間合いへと肉薄していた!
「なんだとっ!?」
優哉は右手に『封狐』の神聖なる霊気を極限まで収束させ、その拳を魂ごと振り抜いた!
ドゴォォォンッ────!!!!
「ぐはぁっ……!?」
極大の衝撃波を伴う強烈な一撃が綺羅の美貌の顔面を打ち砕くように捉え、その身体を豪快に吹き飛ばした。
綺羅は重厚な廊下の床を何度も転がり、やがて激しい血煙とともに動きを止める。
優哉は静かに右拳を下ろし、横たわる兄を冷徹な瞳で見下ろした。
「兄上……もう、僕をかつてのように舐めないでください」
その澄んだ声には、かつて胸を支配していた怯えも、兄への甘えや迷いも一切存在しなかった。
「今の僕には……誇り高き素晴らしい仲間たちから命がけで託された、この力があるんです」
優哉は胸を張り、言葉に確かな誇りを込めて言い切った。
しばらくして、綺羅がゆったりとした動作で身を起こした。
口元から滴る鮮血を指先で優雅に拭うと、その顔にぞっとするほど不気味な笑みを浮かべた。
「……なかなかやるではないか、優哉」
そして、まるで何事もなかったかのように、かつての優しく慈悲深い兄を演じる甘い声で語りかけてきた。
「どうだ? 昔のように……この兄の理想とする世界を創り上げるため、私に力を貸す気はないか?」
「……理想の世界……?」
優哉は眉をひそめた。
「そうだ。お前が望むというのなら、永遠の命も、強大な力もすべて分け与えてやろう」
綺羅は両腕を大きく広げ、恍惚とした表情で甘美な言葉を吐き始めた。
「この私が絶対の王となり、力ある者のみが世界を動かすのだ! 力なき弱者も、あの不快で醜い化け物どもも、すべて奴隷として絶対に従わせる。そうすれば、争いの存在しない完璧で素晴らしい世界が生まれるのだよ!」
高らかな嘲笑と狂気が、静まり返る廊下に虚しく響き渡る。
優哉は、哀れみすら滲ませた目でそんな兄の姿を見つめ、静かに息を吐き出した。
「ふふふ……兄上は、何一つ変わっていなかったのですね」
「……何だと?」
綺羅の完璧な笑みがピタリと消え失せた。
「そんな血と絶望で塗り固められた世界の……どこが素晴らしいというのですか?」
優哉はまっすぐに兄の狂気を見据えた。
「人間どもはいつまで経っても身勝手なことばかりを叫び、愚かな争いを繰り返す! だからこそ、絶対の力を持つ私が王となり、すべてを支配・管理せねばならんのだ!」
綺羅は怒りに声を荒らげた。
「私に逆らう者を徹底的に排除し、弱者には従属こそが幸福だと叩き込む! それでこそ、誰もが愚かに争わず平穏に暮らせる世界になるのだ! なぜ……その絶対の理が解らん!?」
優哉は、静かに、だが強い拒絶を込めて首を横に振った。
「……そんな心のない独裁の世界の、どこに幸福があるんですか?」
その静かな声に、確かな怒りと情熱が宿っていた。
「僕はほんの少しの間でしたが……大妖の皆さんと一緒に暮らしました。彼らは決して、誰もが同じ考えや正しい心を持っていたわけではありません」
優哉は、これまで出逢い、時にぶつかり、時に命を託し合った仲間たちの顔を胸に浮かべた。
「喧嘩をすることもある。時に激しく意見がぶつかり合うことだってある。それでも……誰かが傷つき困っていれば当たり前に手を差し伸べる! 仲間の笑顔のために、己の命すら省みずに戦う温かい人たちだってたくさんいるんです!」
そして、優哉は左手の熱き拳を固く握り締めた。
「誰もが互いを思いやり、足りない部分を助け合うからこそ……世界は尊く美しいんです。ただ一人の独裁者の命令に恐怖で従わせることが幸せな世界だなんて……そんなもの、僕には絶対に理解できませんっ!!」
綺羅の美貌から、あらゆる感情が瞬時に消え去った。
やがて、その瞳の奥に漆黒の歪んだ殺意が宿る。
「……もうよい」
綺羅は低く地を這うような声で呟いた。
「どうやらお前は……本気でこの私に殺されたいらしいな」
そう吐き捨てると、手にしていた名刀のごとき錫杖を無造作に床へ放り捨てた。
カランッ……。
乾いた冷たい金属音が、静寂に響く。
次の瞬間――!
綺羅の両手の指先が、不気味な骨鳴りの音を立てながら異様に延伸し始めた!
それはまるで生き物のように禍々しくしなり、黒い鞭のごとく宙を狂暴にしなる。
「ならば……その青臭く愚かな幻想ごと、微塵に叩き潰してやろうっ!!」
綺羅の口元が、残虐な狂気へと歪みきった。
一方――。
カインと対峙した大鎌鼬は、相手が武器を構える猶予すら与えなかった。
「悪いな……こっちは一刻を争うんでね」
言い終わるよりも早く、大鎌鼬のしなやかな姿が空間から完全に消失した。
次の瞬間、カインの無防備な背後に突如として現れた大鎌鼬が、手にした二条の鎌を一閃させる。
ヒュッ────!!
刃が通り抜けた瞬間、カインの首級が胴体から綺麗に離れ、宙を舞った。
「……まずは一人」
大鎌鼬は振り返ることすら拒み、優哉のもとへ合流しようと踏み出した。
しかし――。
「ひどいですねぇ……名乗りも上げずに不意打ちとは」
背後から、一切の乱れもない聞き覚えのある粘着質な声が響いた。
「……何……っ!?」
大鎌鼬は足を止め、じわじわと恐怖を滲ませながら振り向いた。
そこに立っていたのは、何事もなかったかのように首を胴体に繋げ、静かに佇むカインの姿であった。
切断されたはずの首も、衣装の破れ目すら元通りに修復されている。
「なんじゃと……!?」
大鎌鼬は驚愕に目を丸くした。
「確実に……首を切り落としたはずだが……っ!?」
カインは首を軽く傾げ、薄気味悪い嘲笑を浮かべた。
「さて……あなたは何か私に仕掛けたつもりだったのですか?」
「……ふん。まあいい」
大鎌鼬は再び凶悪に鎌を構え直した。
「何度首を跳ねようが、倒れるまで刻み尽くしてやるだけだっ!!」
激しく踏み込むと同時に、視認不能の連続斬撃を叩きつける!
ザンッ────!!
今度はカインの右肩口から腕が豪快に切り飛ばされた。
しかし、カインは悲鳴ひとつ上げない。
切断された腕が床に落ちるよりも疾く、傷口から漆黒の血が糸のように細長く伸びていく。
まるで生き物のように血がうごめき、切り離された腕を絡め取ると、瞬時に引き戻した。
そして――。
腕は何事もなかったかのように完璧に接合された。傷痕すら残っていない。
「……お前、不死身なのか……?」
大鎌鼬が鋭い殺気とともに警戒を極限まで強める。
カインは実に楽しそうに口元を歪めた。
「ふふふ……さて、どうでしょうねぇ?」
そして、ゆっくりと両腕を広げて見せた。
その両腕の骨と肉が、メリメリと異様な音を立てて変形し始める。
指先から伸びた骨格が凶悪に湾曲し、左右の両腕全体が巨大で禍々しい漆黒の鎌へと姿を変えていく。
それはまるで――大鎌鼬の姿そのものを模倣し、嘲笑うかのような異形の怪物であった。
「せっかくですから……そろそろ、本気の殺し合いと参りましょうか?」
カインは両腕の鎌を交差させて構え、不気味に目を光らせた。
大鎌鼬もまた、鎌を握る手に一層の気合いを込める。
目の前の怪物は、ただ肉体を切断しただけでは倒せない。ならば、その再生の限界と隠された核を見極めて叩き潰すしかない。
「……面白い。その不気味なカラクリ、どこまで耐えられるか試してやろうじゃないかっ!!」
二人の凄まじい妖気が、静まり返る廊下で激しく衝突し、火花を散らした。
一方では、兄弟の相反する信念と絆を懸けた激闘が。
もう一方では、不死の怪物と誇り高き大鎌鼬の血みどろの死闘が。
宿命の決戦が、今まさに本格的な幕を開けたのだった――。




