第68話 銀血の殉教、因縁の扉前に立つ兄弟
数千の仮面退魔師に包囲された結界の壁の前。
大妖たちはそれぞれ牙を剥き、手にした武具を固く構えて眼前の敵陣へと突き進もうとしていた。
その時である――。
「ちょっと……待ちんしゃい!」
背後から、嗄れたしわがれ声が戦場を静かに制した。
大妖たちが一斉に振り返ると、そこには体中から粘土質の妖気を漂わせた老妖――沼の大妖・沼爺が静かに佇んでいた。
「おぬしら……奴ら退魔師と吸血の傀儡どもの絶対の弱点を知っておるか?」
沼爺の問いかけに、大角の大妖が血走った目で答える。
「銀だろう!? だが、銀の純光は我ら妖魔にとっても等しく肉体を溶かす致命の弱点だ! そんな自滅の武器を持っている奴など、この軍勢にいるはずがなかろうっ!」
「ふむ……やはり、そうか」
沼爺は小さく頷くと、己の体内の最深部から、怪しく光輝く銀色の小瓶を取り出した。
「沼爺……その小瓶は、いったい何なのですか……?」
女の鎌鼬が、薄気味悪い胸騒ぎを覚えて不審そうに尋ねる。
しかし、沼爺は答えなかった。
ただ穏やかに目を細めると、小瓶の封を外し、中の銀色の液体を一気に喉奥へと飲み干した。
直後――!
沼爺の泥の身体が、皮膚の末端から一気に禍々しくも神聖な純銀の光沢へと染まり上がっていく。
「なっ……!?」
大妖たちが一斉に息を呑んだ。
全身を重厚な水銀の結晶へと変貌させていく沼爺は、静かに告げた。
「これは……純度百パーセントの『水銀』じゃ」
「ぎ、銀だとっ!? そんな過酷な劇薬を身に流し込んだら……お前は一刻も経たずに消滅してしまうぞっ!!」
岩王が目を血走らせて叫んだ。
沼爺は、どこか悟りを開いたような穏やかな笑みを浮かべた。
「そうじゃ……わしの身体は、もはや一刻とて持ちこたえられんじゃろう」
「沼爺……っ!」
「じゃが……潰える直前のこの老いさらばれた命にも、まだ果たせる最後の役割がある」
沼爺は、周囲を取り囲む愛おしい同胞たちを見渡した。
「おぬしらの武器を……わしのこの身体へと深く突き刺すがいい。そして、その武具に純銀を纏わせるんじゃ」
「……っ!!」
誰もが衝撃に言葉を失った。
沼爺の体内に宿る猛毒の水銀に武具を潜らせ、弱点たる銀の加護を得る。それが沼爺の魂をどれほど灼き苛み、死を早める苦痛をもたらすか、知らぬ者などいるはずがなかった。
「何をしておるっ!!」
沼爺が一喝した。
「わしの命を……無駄死にに終わらせる気かぁぁっ!!」
その必死の喝に、岩王は奥歯が砕けるほど強く歯を喰いしばった。
「……すまねえ、沼爺っ!!」
岩王は涙を溢れさせながら、己の両腕を沼爺の身体へと力任せに突き立てた。
その瞬間――!
岩王の巨大な岩石の腕が、猛烈な純銀の閃光を放ち始め、銀の武具へと変貌を遂げた。
「さあ! 立ち止まるな、早くせいっ!!」
沼爺の催促に押され、大妖たちも涙を呑んで次々と自らの武器を沼爺の身体へと突き立てていく。
鉄棍が、疾風の鎌が、大剣が――。
沼爺の身を削りながら銀を受け取り、次々と神聖なる銀光の輝きを帯びていった。
やがて、すべての武器に銀の加護が行き渡った時、沼爺の身体は原型を失い、崩壊を始めていた。
それでも老妖は、心底満足そうに目を細めて笑った。
「ふふふ……。ただ老いて朽ち果てるだけの命と思っておったが……最期に、これほど誇り高き大役を与えてもらえるとはな」
銀色に染まりゆく顔を上げ、沼爺は不気味な暗雲が立ち込める空を見つめた。
「神に……感謝せねばならんのう……」
そして、残された生命の火花を爆発させ、最前線で激闘を繰り広げる大天狗たちの渦中へと力強く歩み出た。
「退けい……おぬしらっ!!」
「沼爺!? 何をする気だぁっ!!」
大天狗が叫ぶ。
しかし沼爺は答えず、押し寄せる無数の退魔師の群れへと自ら飛び込んだ。
「死ぬなよ……おぬしら……っ!」
その慈愛に満ちた言葉を残した直後、沼爺の身体は数十の仮面退魔師たちに取り囲まれた。
無数の冷たい漆黒の錫杖が、彼の身体へと容赦なく突き立てられる。
それでも――。
「ふふふふっ……あはははははっ!!」
沼爺は高らかに笑っていた。
命が潰えゆく最期の瞬間まで、まるでこの美しき結末を慈しんでいるかのように。
次の瞬間――!
ドォォォォォォンッ────!!!!
沼爺の全身が、超高密度の銀色の爆炎となって大爆発を起こした!
その衝撃波は凄まじく、純銀の光の波が周囲の退魔師たちを骨ごと蒸発させて吹き飛ばしていく。
一瞬にして百人を超える敵の防衛陣形が瓦解し、血煙の中にぽっかりと巨大な空白の血路が生まれた。
「沼爺ぃぃぃぃぃっ────────!!!!」
大妖たちの悲痛な叫びが、都の空へと虚しく響き渡った。
だが、彼らに悲しみに立ち止まる時間は一秒とて存在しない。
岩王は銀色に輝く自らの巨腕を固く握り締め、正面を見据えた。
「……行くぞ、お前らぁぁぁっ!!」
「「「オオオオオオオオオッ────────────!!!!」」」
大妖たちは沼爺が命と引き換えに託してくれた銀色の輝く武具を握り直し、再び退魔師の群れへと凄絶な突撃を開始した。
老いし同胞が命を賭して切り開いてくれた血路を、無駄にするわけにはいかなかった。
その頃――。
帝の屋敷の最深くでは、御館が千鶴を背負い、覚醒した優哉、そして大鎌鼬とともに重厚な廊下を猛烈な勢いで走っていた。
静まり返る果てしない廊下を駆け抜けた、その時。
「……御館……様……?」
背後から、途切れ途切れのか細い声が響いた。
「おおっ! 目を覚ましたか、千鶴! 大丈夫なのか!?」
御館は慌てて足を止め、千鶴をそっと背中から床へと下ろした。
千鶴は己の体内の退魔の神気を確かめるように軽く腕を動かすと、安堵の微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます……。おかげさまで、十分に体力を回復させていただきました」
そう言った直後、千鶴はハッと何かを思い出したように顔を上げた。
「それより……みんなは!? 大妖のみんなは……どこへ行ったのですか!?」
焦燥の色を隠せずに尋ねる千鶴。
御館は一瞬だけ苦痛に表情を曇らせたが、すぐに腹の底からの豪快な笑顔を張り巡らせてみせた。
「何を言っておる! ワシらを誰だと思っておるんじゃ!」
「……え?」
「みんな外の雑魚どもを完膚なきまでに蹴散らして、あとの掃除を終えて休んでおるわい!」
御館は胸を張り、堂々とした態度で言い切ってみせた。
「そ、そうなんだ……! よかった……っ!」
千鶴は胸を撫でおろし、心から愛おしそうに可憐な笑みを咲かせた。
そのすぐ隣で、すべてを知る優哉はそっと顔を反対側へ背けた。
千鶴に己の顔を見られないように。
胸を刺し穿つ苦痛に歪む表情を、必死に噛み殺しながら。
「……次は、ワシらの番じゃ」
御館は情を断ち切るように声を張った。
「千鶴、もう走れるか?」
「はい! もう大丈夫です!」
千鶴は力強く頷くと、真っ先に廊下の奥へ向かって走り出した。
御館たちも、その華奢な背中を追って疾走する。
どれほど走り続けても、不気味なほど敵の姿は一切姿を現さなかった。
静まり返った豪壮な廊下に、彼らの足音だけが空虚に響き渡る。
やがて、一行の眼前に、禍々しくも豪奢な装飾が施された極大の扉が現れた。
「……なんじゃ……この不気味な門構えは……?」
御館は足を取り、重厚な扉を見上げた。
「それにしても妙じゃな。ここまで刺客が誰一人として襲ってこぬとは……」
まさに、その時であった。
「それはですね……」
静寂を冷たく破る優雅な声が、廊下の闇の奥から響いた。
「ここが……神聖な場所だからですよ」
御館たちは一斉に足を止め、身構えた。
重厚な柱の陰から、優雅な足取りで姿を現したのは――皇綺羅。
そしてその傍らには、歪んだ笑みを浮かべるカインが控えていた。
「綺羅……っ!」
千鶴が激しい憎悪を込めた瑠璃色の瞳で射抜く。
綺羅は穏やかで完璧な笑みを浮かべ、優雅に一礼してみせた。
「これはこれは、千鶴様。よくぞお越しくださいました」
その口元が、蛇のごとく不気味に吊り上がる。
「作戦通りにこれほど多くの大妖の軍勢を引き連れて、わざわざ我が罠の中へと飛び込んできてくださるとは……。本当に、感謝に堪えませんよ」
「なんじゃとお前っ!?」
御館が驚愕し、千鶴の顔を見やった。
「そんなわけないでしょう! 私は、あなたたちの歪んだ企みを倒しに来たのよ!」
千鶴は一歩前へ踏み出し、錫杖を構えて綺羅を鋭く睨みつけた。
綺羅は心底不思議そうに優雅に首を傾げてみせた。
「しかし千鶴様。あなたは……どうして未だに我がカミーラの血の傀儡となっておられないのでしょうね……?」
一瞬だけ興味深そうに千鶴を見つめた後、綺羅はクスクスと小さく嘲笑った。
「まあ、今となってはどうでもよいことです。あなたという絶好の餌のおかげで、愚かな大妖どもを一網打尽にできたのですから」
「……っ!」
千鶴の顔が凍りつく。
「みんなで……あなたたちの恐ろしい野望を今ここで叩き潰します!」
その言葉に、綺羅はついに耐えかねたように声を上げて高笑いした。
「おやおや……可哀想に。まだ何もご存じないのですか?」
「何を……っ?」
「あなた方以外の大妖どもの全軍は……すでに我が誇る退魔師の群れによって一匹残らず全滅しましたよ」
「そ、そんな……嘘でしょ……っ!?」
千鶴は愕然として血の気を失い、御館を振り返った。
「千鶴! あやつの言葉に耳を貸すでないっ!」
御館が慌てて大声を上げる。
「あやつは言葉でお前を惑わせようとしておるだけじゃっ!」
「でも……っ」
千鶴は膝を折りそうになりながら、震える声で呟いた。
「そんな……みんなが……私のために……」
まさに、その時であった。
「千鶴様は……先へ進んでください」
優哉が静かに、千鶴の前へと歩み出た。
「兄上の相手は……僕がします」
「優哉……!?」
千鶴が息を呑んで振り返る。
優哉は綺羅の冷徹な瞳をまっすぐに見据えたまま、静かに告げた。
「兄上……あなたを倒し、その業を止めるのは……弟である僕の役目です」
綺羅は目を細め、わざとらしく呆れたように肩をすくめてみせた。
「おやおや、優哉じゃないか。できそこないの役立たずだから放っておいてやったというのに……まさか、この私に刃を向けるつもりかい?」
そして、背後に控えるカインへと顔を向けた。
「なあカイン。ひどいと思わないか? 実の兄に向かってこれほど不敬な口を利くとは……」
カインは顔を歪め、死臭の漂う薄気味悪い嘲笑を浮かべた。
「まったくでございますな、綺羅様。そんな口生意気な弟君など、さっさと首を跳ねて捨ててしまいましょう」
「……っ!」
優哉は左手の拳を肉が裂けるほど強く握り締めた。
かつて尊敬し、背中を追いかけ、家族として信じようとしていた実の兄。
だが今、目の前に横たわっているのは――。
「千鶴様、御館様……お二人は先へ進んでカミーラの相手をしてください」
優哉は迷いなく一歩前へ踏み出した。
「兄上を……いいえ、兄上の皮を被ったこの恐ろしい化け物の因縁を断つのは……僕の責務です」
赤く染まった髪をなびかせる優哉の瞳には、一切の迷いのない凄絶な決意が宿っていた。
「……かつて家族であった者として、最後にけじめをつけます」
その言葉と背中を見届け、大鎌鼬も刃を閃かせて前へと並び立った。
「一対二では、さすがに不公平というものじゃろう。わしもここに残る」
大鎌鼬は左右の鎌を構え、綺羅とカインを激しい殺気で睨みつけた。
「御館様、千鶴様。ここはわしらに任せて先へ進まれよ!……それと千鶴様、昨日はすまなかった」
御館は二人の決死の背中を見つめ、苦渋に満ちたわずかな逡巡を見せた。
しかし、やがて腹を括り、重々しく頷いた。
「……すまぬ。必ず……生きて戻れよ!」
御館は動揺する千鶴を強引に促し、重厚な扉の向こうへと足を進めていった。
千鶴は何度も悲痛な表情で振り返ったが、最後には前を向き、クラマの待つ最奥へと走り出した。
残された優哉は、静かに呼吸を整え、皇綺羅を射抜いた。
「……さあ、行こう……紅炎」
すると、優哉の左腕の刻印から、爆発的な紅蓮の爆炎が噴き上がった。
炎の中から、紅炎の艶やかで苛烈な毒声が響く。
『ええ……生意気な兄ごと、跡形もなく消し炭にして差し上げましょう……優哉っ!』
優哉の左腕を包み込む神聖なる炎が、渦を巻いて激しく燃え上がる。
対する皇綺羅は、余裕に満ちた冷酷な笑みを微塵も崩さなかった。
血分かたれた兄弟の深き因縁に、ついに最後の決着をつける時が訪れたのだった――。




