第65話 孤高の献身、都へ至る出陣の雄叫び
その夜、大天狗・御館の屋敷は大勢の大妖たちが一堂に集う破格の宴会で大いに賑わっていた。
重厚な大広間には天地を揺らすほどの豪快な笑い声が交錯し、山海の珍味や溢れる酒の樽が次々と運ばれてくる。
その渦中で、ひときわ異彩を放っていたのは優哉であった。
「おい若造……お前、人間にしては意外と骨があるじゃねえか!」
威圧感あふれる巨大な大妖の一人が、溢れんばかりに酒の注がれた杯をぐっと差し出す。
「は、はいっ! ありがとうございます!」
優哉が恐縮しながらも両手で受け取ると、その隣に座っていた黒狼の大妖が、鋭い狂牙を剥き出しにして邪悪に笑った。
「ヒヒッ! 次は俺と本気で殺り合おうぜ!」
「えっ……いや、できれば穏便に手加減を……」
「何を言っていやがる! せっかく面白い奴が現れたんだ。腕試しぐらいさせろよなぁ!」
黒狼の大妖は豪快に爆笑すると、優哉の肩を丸太のような腕でバンバンと激しく叩いた。
「は、はは……」
優哉が引きつった苦笑いを浮かべていると、今度は逆隣に座っていた妖艶な狐目の女大妖が、すっと滑らかな身のこなしで身体を寄せてきた。
そして、優哉の紅く染まった頬にそっと温かな指先を添える。
「ねえ……今夜、私と甘い夜を過ごしてみないかしら?」
「えっ!?」
耳元で艶っぽく囁かれた甘い吐息に、優哉の顔が一瞬で爆発したように真っ赤に染まる。
「そ、それは……あの、その……っ!」
慌てふためく優哉。まさに、その瞬間であった。
ボッ────!!
優哉の左手から、突如として鮮烈な紅蓮の爆炎が噴き出した。
「きゃぁぁぁぁぁっ!?」
女大妖は悲鳴を上げ、その凄まじい熱量と圧力に押されて豪快に後ろへ吹き飛ばされた。
燃え盛る炎は優哉の左手の上で渦を巻き、やがて不機嫌そうな一人の少女の姿を形作っていく。
「……代わりに、私があなたの相手をして差し上げましょうか?」
紅炎であった。
彼女は倒れ込む女大妖を冷ややかに睨みつけると、腕を組んで不機嫌そのものの態度で言い放った。
「い、いえ! 遠慮しておきますわっ!!」
女大妖は血相を変えて立ち上がると、そそくさとその場から逃げ出していった。
「ふんっ!」
紅炎は満足げに鼻を鳴らすと、そのまま一瞬で炎の粒子となって優哉の肉体へと消えていった。
「…………」
優哉は真っ赤になった顔を手で覆い、深々と長い溜め息をついた。
(紅炎……もう少し穏やかにできないかな……)
脳裏に語りかけても、返事はない。
どうやら、聞こえているのにあえて無視されているらしい。優哉は苦笑するしかなかった。
一方、千鶴の周囲も、宴会とはまったく別の意味で手に負えない大騒ぎとなっていた。
「千鶴様ぁぁぁぁっ!!」
「こ、こちらを見てくださったぞぉぉぉっ!!」
「いま、絶対に俺と目が合った!」
「嘘をつけ、俺の方を向いて微笑んでくださったんだ!!」
千鶴の圧倒的な強さと、神聖なる白銀の美貌に魅せられた若い大妖たちが、彼女の周りに黒山のように殺到していた。中には、千鶴と視線が交錯しただけで感激のあまり震え出し、感極まって涙を流す者までいる始末である。
「ふふっ……みんな、落ち着いてちょうだい」
千鶴は困惑の交じった可憐な笑みを浮かべながら、彼らをなだめていた。
その様子を少し離れた柱の陰から眺めていた御館は、呆れたように深く溜め息をついた。
「まったく……何を浮かれて騒いでおるんじゃ、あいつらは……」
だが、しばらく千鶴の顔を見つめていた御館の表情が、一転して極めて真剣なものへと変わった。
「千鶴……少し話がある」
「え? 何かしら、御館様」
「ここでは話せぬ。奥の部屋へ来てくれ」
御館に促され、千鶴は広間の喧騒をあとにし、静まり返る館の最深部にある一室へと向かった。
部屋へ入ると、御館は周囲に追手や気配がないことを入念に確かめてから、重々しく慎重に口を開いた。
「お前の……その、吸血鬼の呪われた血は……本当に大丈夫なのか?」
千鶴は一瞬だけ、瑠璃色の瞳を静かに伏せた。
「ええ。私の血には、退魔の力が宿っているの。そのおかげで、吸血鬼の力に呑まれずに済んでいるのかもしれないわね」
「退魔の力……か」
「敵であるカミーラたち吸血鬼は、自らの血を相手の体内に注入することで、その者の意志を奪い、死者であれ生者であれ意のままに傀儡として操る恐ろしい力を持っているの」
千鶴の声から、先ほどまでの柔らかさが消え、研ぎ澄まされた刃のような凛烈さが宿る。
「たとえどれほど強力な味方であっても、一度奴らの血を取り込まれてしまえば、一瞬で敵の手先へと成り下がってしまう危険性があるわ」
「なるほどな……」
御館は険しい表情で重々しく頷いた。
「だから……皆が戦場で操られないように、私のこの退魔の血を使って、あらかじめ身体に抗体を作っておきたいの」
そう言いながら、千鶴は懐から鋭い小さな短刀を取り出した。
「……おい。何をする気じゃ?」
御館が制するより早く、千鶴は迷いなく自らの華奢な腕に刃を当てた。
スッ……。
白磁のような肌に鮮血の線が走り、朱い血が溢れ出す。
「お前っ! 何をしておるんじゃ!?」
御館が思わず大声を上げた。
千鶴は用意していた幾つもの薬瓶を傷口の下に手際よく置き、静かに血を集め始めた。
「奴らは吸血鬼の血を流し込むことで、相手を傀儡に変える。だから、こちらもそれ以上の力をもって備えておかないと……」
「だからと言って、自らの身体を切り刻むバカがあるか!!」
御館は珍しく声を荒らげ、千鶴の無茶を咎めた。
千鶴は血の気の引き始めた顔で苦笑しながら、血の溜まった最初の瓶に丁寧に蓋をした。
「大丈夫よ。一晩かけて、ゆっくりと必要な分を用意するわ」
「……本当に大丈夫なんじゃろうな……?」
「ええ。ただ……この退魔の血は強力すぎるゆえ、あなたたち大妖の本来の妖力まで、一時的にわずかに抑え込んでしまう可能性があるの」
千鶴は心配そうに瓶の中の赤を見つめた。
「敵の支配を防げても、あなたたちの誇る力が落ちてしまっては本末転倒でしょう?」
御館は一瞬呆気にとられたように目を見開いたあと、腹を抱えて豪快に爆笑し始めた。
「ガハハハハハっ! あんまり、我ら大妖の底力をなめてもらっては困るな!」
「……?」
「これでも昔折々は神と崇められたほどの大妖どもだぞ! 多少の力を抑え込まれたくらいで、敵に遅れをとるような脆弱な玉か!」
「ふふふっ……そういえば、その通りだったわね」
千鶴もつられて思わず笑みをこぼした。
しかし、すぐに凛とした真剣な表情へと戻る。
「それじゃあ……血の精製に集中したいから、一人にしてもらえるかしら?」
「……分かった」
御館は渋々頷いた。
「だが、くれぐれも無茶はするなよ。少しでも具合が悪くなったら、すぐに誰かを呼ぶんじゃぞ」
「ええ。ありがとう、御館様」
御館は念を押すように彼女を案じる目で見つめてから、静かに部屋を出て行った。
一人静まり返った部屋で、千鶴は再び短刀を手に取る。
明日、彼らが向かうのは都。
囚われのクラマを奪還し、皇綺羅とカミーラとの因縁を断つための死闘が待っている。
「……みんなを、絶対に守らなければ」
千鶴は細く呟き、再び己の血を瓶へと注ぎ込み始めた。
翌朝。
出陣の刻が迫り、御館が千鶴の様子を見に部屋を訪れると、室内は異様なほど静まり返っていた。
「千鶴? 入るぞ」
返事がない。
嫌な胸騒ぎを覚えた御館は、勢いよく部屋の扉を開け放った。
「……っ!?」
目の前に広がっていたのは、血の気を完全に失い、真っ白な顔で畳の上に倒れ伏している千鶴の姿であった。
「おいっ! 千鶴!! しっかりせんか!?」
御館は慌てて駆け寄り、冷たくなった彼女の身体を抱き起こした。
「おい! 千鶴っ!!」
何度か焦燥を込めて呼びかけると、千鶴の長い睫毛がかすかに揺れた。
「……ふふっ。ごめんなさい……ちょっと、横になって休んでいたつもりが……」
「倒れておったんじゃなかろうが!!」
御館は怒鳴り散らしながらも、折れてしまいそうなほど華奢な彼女の身体をしっかりと支え持った。
千鶴は弱々しく微笑み、部屋の隅を指差し示した。
「……これで、全員分……足りるかしら……?」
そこには、深紅の血がなみなみと満たされた薬瓶が、整然と何十本も並べられていた。
どれも丁寧に封が施され、決戦の出陣に備えて完璧に用意されたものであった。
「お前……これを全部、たった一晩で己の身を削って作ったのか……!?」
御館の声が、激しい衝撃と戦慄で震えた。
「……ええ。みんなが奴らの傀儡にされたら……大変だもの……」
「まったく……お前というやつは……っ!」
御館は絶句し、言葉を詰まらせた。
今日が都へ討ち入るどれほど重要な決戦の日なのか、千鶴が理解していないはずがない。
それにもかかわらず彼女は、仲間たちを救うため、自らの命を削るような無謀な献身で備えを完璧に整えたのだ。
「今日が何の日か分かっておるのか!? お前がそんな死に体でどうするんじゃ!!」
「……ごめんなさい」
千鶴は申し訳なさそうに儚く笑った。
「少しだけ……体を休ませてもらうわね……」
そう呟くと、彼女は静かに重いまぶたを閉じた。
そのまま、深い昏睡へと意識を委ねていく。
「千鶴……っ!」
御館は彼女を強く抱き留めた。
「まったく……どこまで呆れた小娘じゃ……」
荒く呟きながらも、その声には溢れんばかりの心配と深い労わりが滲んでいた。
御館は床に並んだ瓶を一つ手に取ると、封を解いた。
そして、千鶴の命の結晶である退魔の血を、一気に喉へと流し込んだ。
「……確かに、全身の血が清められるような強い神気だ」
体内の妖気が静かに引き締まる感触を確かめると、御館は残りの瓶を一つずつ、大切に抱え上げた。
その時、部屋の入口に沙羅が静かに姿を現した。
「あなた……私にもその血を頂戴」
沙羅は迷いなく瓶へ手を伸ばそうとした。
しかし、御館は重々しく首を横に振った。
「お前には渡せん」
「……なんですって?」
「お前は、ここに残れ」
「なによそれ!!」
沙羅の声が一瞬で鋭く跳ね上がる。
「私だってクラマを助けに行きたい! あなたたちだけに任せて、指をくわえて待っているなんてできるわけがないでしょう!?」
御館は静かに、だが揺るぎない眼光で彼女を見つめた。
「……誰が、幼きアラタを守るんじゃ?」
「……っ!」
「すでにクラマはおらん。ワシらが全軍で留守にしている間に万が一のことがあれば、アラタを守り抜けるのはお前しかおらんのだ」
沙羅は言葉を失った。
悔しさと葛藤に唇を激しく噛み締め、俯く。
「……分かっているわ……」
絞り出すような小さな声。御館は沙羅の肩へ、重厚な手のひらを置いた。
「アラタを守り、われらの命脈を繋げるのはお前しかおらん。頼んだぞ、沙羅」
「……分かったわよ」
沙羅は顔を上げた。その目には涙が浮かんでいたが、御館の目をまっすぐに見据え返した。
「これだけは絶対に約束して。必ず……全員無事に帰ってくると」
御館は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの豪快な笑みを浮かべてみせた。
「ワシを誰だと思っておるんじゃ? 全土の大妖たちを統べる大天狗だぞ!」
「……そうだったわね」
沙羅は押し寄せる不安を振り払うように、気丈に笑ってみせた。
「では、行ってくる」
御館はそう言い残し、幾本もの血の瓶を抱えて大広間へと向かった。
大広間には、すでに完全な出陣の備えを終えた数百の大妖たちが一斉に集結していた。
御館が威圧的な姿を現すと、彼らは一斉にギラつく視線を向けた。
「お前ら! 覚悟と準備はできておるかぁぁぁっ!!」
「「「ウオオオオオオオオオッ────────!!!!」」」
地鳴りのような雄叫びが屋敷を激しく揺らす。
御館は手にした血の瓶を、天高く掲げて見せた。
「よく聞け! 敵の吸血鬼どもは妖力や生気を奪い、相手を意のままに操る呪毒の血を使ってくる!」
一瞬で広間が静まり返る。
「だが! この血には、それを完全に無力化する絶対の退魔の神気が宿っておる!」
御館は手の中の瓶を愛おしそうに見つめた。
「これは……千鶴が自らの命を削り、血を流してまで一晩で用意してくれた命の結晶じゃ! この覚悟と恩義を、決して無駄にするなっ!!」
「……ち、千鶴様の血……!?」
「千鶴様が……俺たち妖魔のためにご自身の身を削って……!?」
若い大妖たちの目の色が瞬時に変わった。
「なんと気高く尊いお方だぁぁぁぁっ!!」
「千鶴様の大恩に……命を賭して報いねばならんっ!!」
感激と熱狂に包まれた大妖たちが、猛烈な勢いで瓶へと殺到しようとする。
「おい! 押すなバカ者ども! 順番じゃ、順番に飲めっ!!」
御館が雷鳴のような声で一蹴し、どうにか乱れる列を整えさせた。
こうして大妖たちは一人また一人と、千鶴の血を拝領し、決死の抗体を身体へと宿していった。
全員が飲み終えたことを確認すると、御館は再び千鶴の眠る部屋へと戻った。
彼女は今なお、深い休息の深い闇の中にいた。
御館は壊れものを扱うかのように、そっと千鶴を腕の中に抱き上げた。
「……御館様……時間ですか……?」
千鶴が薄くまぶたを開け、かすれた途切れ途切れの声で尋ねた。
「ああ。だが……都に着くまでは、このまま穏やかに眠っておれ」
御館は彼女を抱き直し、父親のようなあたたかな声で言った。
「都に着けば……嫌でも休むヒマなどなくなるからの」
「……ふふっ……そうね……」
千鶴は可憐に小さく笑った。
そして、御館のたくましい胸の中に身を委ねると、再び静かに目を閉じた。
御館は千鶴を大切に抱きかかえたまま、決戦の軍勢が待つ大広間へと踏み出した。
そこには、千鶴の血によって抗体を得て、討ち死にも辞さぬ覚悟を完了させた凄まじい大妖たちの群れが待ち構えていた。
優哉もまた、紅蓮の髪を揺らし、覚悟に満ちた強い瞳で御館と千鶴を見つめている。
御館は千鶴を抱いたまま、空いた左拳を天に向かって力強く突き上げた。
「野郎ども……覚悟はできているかぁぁぁっ!!」
「「「ウオオオオオオオオオオオオッ────────────!!!!」」」
地響きのような空前絶後の雄叫びが山頂を揺るがす。
「一人でも多く、敵を血祭りに上げてクラマを奪還するぞぉぉぉっ!!」
「「「ウオオオオオオオオオオオオッ────────────!!!!」」」
「行くぞぉぉぉっ────!!」
その重厚な号令とともに、幾百もの大妖たちが一斉に夜空へと飛び立った。
こうして、大天狗・御館と覚醒せし優哉、そして不屈の千鶴を擁する大妖の軍勢は、捕らわれの九尾の王・クラマを救い出すため、都を目指して鞍馬の山を怒濤のごとく発ち進んだのである。




